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2006年1月24日 (火)

金子兜太さん

俳人・金子兜太(とうた)さんの名前は、新聞などで知っていたが、どんな人かは知りませんでした。2日間、ラジオ深夜便で「荒凡夫として米寿を生きる」という題での金子さんの話を聴きました。話がうまい、内容がある、自分の人生を見つめる目がいつもある、など非常に感銘を受けました。俳句というものが、金子さんにとっては人生を考える道具なのだ、ということを教えられました。自分の人生を、こんなにも常に考えている、こんな人もいるのだなあ、という感じで聴いていました。風景をよむ俳句ではあるが、そこに自分がいて、人生があって、生き方がある。それは多くの人にとって強烈な刺激であろうと思います。

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コメント

金子さんは、自分のことを「漂泊定住者」と言っていました。漂泊というのは放浪とは別だとも言われましたが、その意味は、放浪は定住の反対ということなのでしょう。
この漂泊者の心境を味わいたければ、本屋さんに行けばいいと思います。読みたい本がたくさんあります。それにしても、仏教書の多いことに驚きます。それに比べて、キリスト教には今、元気がありません。現代のキリスト者は「量的にも質的にも最低」と言われているらしいのです。明治以降の近代日本の輩出したキリスト者群像が、何か別の国のことのように思われます。

投稿: | 2006年1月25日 (水) 18時33分

考えてみれば、司馬遼太郎さんも、まれに見る幸せな漂泊定住者であったのではないだろうか。

投稿: | 2006年1月27日 (金) 06時41分

漂泊という意識あるいは生き方には意味があるのかも知れません。
教派を嫌った内村鑑三はある意味で漂泊の意識の人だったかも知れません。
仏教では、良寛さんが自身は曹洞宗の人でしたが、五合庵という住居は真言宗の寺の付属施設、そして葬式は浄土真宗で行われたとのこと。漂泊という観点から、地上的な壁をすんなりと超えたのかも知れません。
柴又の寅さんも漂泊の人だった。
漂泊には、人の心を惹きつけるすごい力・価値があるのかも知れません。

投稿: | 2006年1月27日 (金) 11時24分

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