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2006年1月15日 (日)

大乗の時代と地獄

仏教で大乗が姿を現した時と、キリスト教が誕生した時とは歴史的には接近しているし、お互いの教えは類似している。何か関係があるのではないだろうか。シルクロードあたりで接触があったのでないだろうか。
悟りを開いた仏陀は小乗時代の人で、司馬遼太郎さんは、仏陀の悟りは普通の人には無理だろうという。
さて疑問。悟らなくて死んだとしても、地獄に行くわけでもなく、それはそれで構わないのだろうか。輪廻というかたちで、死後にもなお往生の可能性を残しているのだろうか。あるいは、こんな発想が大乗的で、霊魂の実体性を否定している仏陀には、こんな発想はなかったのかも知れない。
こんな難しい仏陀の悟りの道の対極にあるのが、親鸞の教えなのだろう。そこでは救いの方法は簡単で、だれにでも可能だ。同じように、キリスト教の福音の道も信仰のみだから、簡単で誰にでも開かれている。
そこで、問題なのは、その簡単な道にもかかわらず、その道に入らない人たちは、どうなるのだろうか、という点である。親鸞では万人救済的なので、信仰を持たなかった人にも、なお何かのかたちで救いの余地が残されているのだろう。しかし、キリスト教では、地上にいる間に魂の永遠のすみかが決まるという、ある意味で恐ろしい教えがある。錬獄の教えは、それを否定しているのではない。
地獄、そんなものはないよ、勧善懲悪のために作られた想像の産物さ、そう思う人もいるのだろう。現代人では、それが普通かも知れない。しかし、もし天国があるとしたら、地獄もあるかも知れない。そして、天国の味を知った人は、地獄も肯定せざるを得ないだろう。さて、そんな思想を持った時、人の親となるということは、このような恐るべき選択の世界に、一つの魂を誕生させるきっかけを作るということを意味している。自分の子どもが地獄に落ちたら、親としてどう思うだろうか。恐らく、耐えられないのではないだろうか。人の親となるということには、そういう意味が込められているのではないだろうか。

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コメント

質問というか、忠言。

> 仏教で大乗が姿を現した時と、キリスト教が誕生した時とは歴史的には接近しているし、お互いの教えは類似している。

類似って、空と?類似している具体例を出してくれないと、この文章だけ見た一般の方が誤解されますよ。

投稿: ワンクリック | 2006年1月15日 (日) 15時21分

キリスト教と仏教の教えの類似について具体的内容を、もう少し説明しろ、とのことですね。今では、仏教者の「ひろさちや」さんが盛んに宗教の比較研究をしています。もう少し前では、増谷文雄という人の著書などありました。増谷さんはテレビにも出ていました。詳しくは、そんな文献にあたられたらと思います。

私が指摘したかったのは、小乗から大乗に移行する時(1世紀後半から2世紀)の仏教の教えと、ユダヤ教からキリスト教に移行する時のキリスト教の教えに類似があるのではないかということです。簡単に言えば、救われ方が容易になっているということです。もちろん、親鸞を考えています。

投稿: | 2006年1月15日 (日) 20時03分

救われ方の容易さとのことですが、親鸞聖人は13世紀の人でありますし、そもそも浄土教の思想的体裁は中国に入って曇鸞や善導という祖師の解釈を経なければ実現しないものでした。

確かに、大乗ということはありますが、さりとて大乗は修行を経ればみな成仏できるという考えこそが問題であり、決して容易にはなっていないと思われます。

> さて疑問。悟らなくて死んだとしても、地獄に行くわけでもなく、それはそれで構わないのだろうか。

問題は、輪廻すること自体を釈尊は明確に苦ととらえ、そこから解脱する方法を説いたということだから、地獄という観念は中国の冥土観の混入もあるけど、それはそれで構わないということはまったくない。釈尊はとにかく輪廻による果てしなく続く苦を問題視したわけ。

> 輪廻というかたちで、死後にもなお往生の可能性を残しているのだろうか。あるいは、こんな発想が大乗的で、霊魂の実体性を否定している仏陀には、こんな発想はなかったのかも知れない。

釈尊には、当然に霊魂の実体性を否定したのは、悟った後であって、悟る前は本当に大変だった。また次の世も苦にさいなまれることを苦悩したのだから、必死に修行して、輪廻するような実体もなければ、超越者もいるともいないともできないいう考えに行くことが出来たんだね。一人の人が、悟りを開いてそれまでとは全く異なる考え方をするということもあるんですよ。

投稿: ワンクリック | 2006年1月19日 (木) 17時01分

こんにちは。カトリックの信徒です。
管理人さんは、「天国」と「地獄」について、どのような宗教をもとに、定義づけていらっしゃるのでしょうか?
カトリックでは、人間では教会が定めた聖人は確実に天国にいるとされますが、そのほかの信者は、死なないと天国か煉獄か地獄か、どこにゆくのかはわからないと教えられます。
死んだ人間が天国か煉獄か地獄かを裁けるのは、三位一体の神だけです。

また福音には「宣教」が必ず伴います。良い知らせ(福音)を聞いたら、必ず他の人に知らせ(宣教)なければなりません。それはけっして簡単に誰にでも開かれてはいないと思います。

投稿: jyakuzuregawa | 2006年1月22日 (日) 19時56分

私も、カトリック教会に籍を置いています。一信徒の身分です。

天国と地獄については、キリスト教の中で考えているのですが、地獄の観念に関しては、キリスト教と仏教では同じ言葉でも内容は違うように思います。六道輪廻の仏教では、地獄から這い上がる可能性もあるのでしょうが、キリスト教には、その可能性はないと思います。たとえば、ルカ福音書16章19-31節に、ある金持ちとラザロとの物語があります。その中で、死後、ラザロはアブラハムのふところに送られ、金持ちは黄泉で苦しんでいたとあります。そして、イエスは「わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」と、アブラハムに語らせています。

カトリックでは、聖人は天国にいるけれど、その他の信者は、死なないと天国か煉獄か地獄か、どこにゆくかはわからないと教えられます、とのことです。そうですか。「死なないと」というのは、ここでは肉体の死のことでしょう。最終的には、そうであっても、生きている間に、天国を味わうことはできるのではないでしょうか。最近では、カトリック教会の中でもペンテコステの聖霊体験を強調する人たちがいますが、私も、どちらかというと、そっちに近い人間です。その体験の中にいる人たちは、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言われていますが(使徒行伝2・13)、きっと天国体験をしているのだと思います。この体験は、今でもあると思います。だれでも望めば与えられると思います。それが福音と、私は考えています。

投稿: | 2006年1月23日 (月) 12時48分

お返事をありがとうございます。

>生きている間に、天国を味わうことはできるのではないでしょうか。

生きている間になぜ「天国」であるとわかるのでしょうか。私はわからないと思います。
また、ご指摘された使徒言行録2章ですが、「一同は聖霊に満たされ」た状態であって、天国であるとは何も書かれておりません。

投稿: jyakuzuregawa | 2006年1月23日 (月) 14時59分

どうやら、我々が危惧した問題を内包しているようで。以前から管理人さんの浄土真宗理解について問題だと思っておりましたが、特にこの点が問題であると感じました。

> 最近では、カトリック教会の中でもペンテコステの聖霊体験を強調する人たちがいますが、私も、どちらかというと、そっちに近い人間です。その体験の中にいる人たちは、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言われていますが(使徒行伝2・13)、きっと天国体験をしているのだと思います。この体験は、今でもあると思います。だれでも望めば与えられると思います。それが福音と、私は考えています。

これを前提に理解していたのであれば、このような「体験」を浄土真宗では秘事法門や夜中法門と呼び、親鸞が実子善鸞を義絶した大きな要因の1つであるともされていることを挙げておく。また、法然が以下のように指摘していることも改めて申し上げておこう。

心に深く感じ、身の毛もよだち、涙が落ちるような(体験を経て)、信が起こるというのは間違いである。それは、歓喜・随喜・悲喜と申すべきである。信とは、疑いに対する意義であって、疑いを除くことを信というべきである。
  『和語燈録』巻1,「往生大要鈔」

以上のように、特殊な体験を前提して専修念仏を理解されるとするならば、管理人さんのご見解はおかしいと思うけど。以前の件で恐縮ですが、検討を期待。間違っていることは素直に改めるのが良いと思うよ。

投稿: ワンクリック | 2006年1月23日 (月) 18時58分

仏陀の悟りも一種の宗教体験である、ということも否定なさるのですか。

投稿: | 2006年1月24日 (火) 07時17分

追伸
私が引用した聖書の個所は聖霊降臨日の出来事であり、単なる個人的な体験ではありません。集団的体験です。それはまた、聖霊という神の人類の歴史への突入であり、人間の心理操作でなされる体験とは基本的に違ったものです。
それはまた教会の誕生日の体験であり、教会史の原点です。キリスト教会の、その後の発展を見れば、教会史が分からなければ西洋史も分かりませんし、その中から生まれた米国を考えれば、現代史だって分かりません。たとえば、ブッシュ大統領はボーン・アゲインの信者だというのですが、それは、私が指摘した体験の持ち主という意味です。もっとも、大統領はメソジスト信徒であって、ペンテコステ信徒ではないので、異言の体験はないと思います。私もありません。

投稿: | 2006年1月24日 (火) 14時53分

法然の浄土教に対し、ゴータマのあり方を並べて議論すること自体が間違っているとならば言える。

また、宗教体験が現実性の著しい変更でなくてはならないとするのであれば、それは宗教体験を著しく狭めたものである。奇跡の否定=宗教体験は成り立つのである。現に道元の宗教は奇跡を否定している。されど、宗教体験はある。半端な知識で余計なことを言うものではない。自分に有利な情報だけを取り上げるんじゃない。議論の仕方もしらんのか?

投稿: ワンクリック | 2006年1月25日 (水) 06時05分

管理人さんと、ワンクリックさんの議論に割り込んで申し訳ないのですが。

神様がなさったことはすべて「聖霊」がはたらいています。
創世記1章1節からそうです。
創世記2章7節「その鼻に命の息を吹き入れられた。」
ここで、すでに人は聖霊に出会っています。
聖霊はここでは「息」と表現されています。
(聖霊は「息」「いぶき」「鳩」「火」「舌」その他、さまざまな表現のされかたをしています。)

>聖霊という神の人類の歴史への突入

と管理人さんは書かれていますが、それはちがうと思います。

 

投稿: jyakuzuregawa | 2006年1月25日 (水) 17時15分

言い方、あるいは表現の問題があるかも知れませんが、私はただ使徒言行録2章1-4節にある聖霊降臨の事実を指摘したまでのことです。そして、聖霊は神です。

聖霊降臨は、ヨハネ福音書の14-16章に、イエスの昇天のあとの出来事として、あらかじめ語られています。ですから、聖霊降臨とイエスの救いの事業とはつながっているのです。

これがキリスト教の中心にあると、私は考えています。イエスのいない今は聖霊の働きに目を向ける時と思います。そして、その視点から旧約聖書との整合性を考えていくべきかと思います。旧約聖書(ユダヤ教の聖書)を信じているのはキリスト教徒だけではありません。しかし、新約聖書を信じているのはキリスト教徒だけです。

投稿: | 2006年1月25日 (水) 21時32分

 聖霊降臨は管理人さんがおっしゃるとおり、教会の始まりではあると思います。
ただ、管理人さんのコメントからは、管理人さんが旧約聖書を信じていないように受け取れるのですが。
  カトリックの教会が聖典とする聖書は、旧約聖書四十六書、新約聖書二十七書です。
 他のキリスト教を信じる人がどうこうではありません。カトリックの信徒であるなら、カトリック教会が正典とする聖書を読み、その教えを信じるのがあたりまえだと思います。
 管理人さんは、本当に今イエスがいないと考えられているのですか?
前にも述べたかもしれませんが、「使徒信条」は「私は父と子と聖霊を信じます。」
と宣言しているのです。管理人さんも洗礼を受けたときに、「使徒信条」を宣言されたはずです。
聖霊の働きだけを取り上げるのは違うと思います。


投稿: jyakuzuregawa | 2006年1月25日 (水) 22時43分

聖霊中心といっても、聖霊はもちろん三位一体ですから、聖霊を信じるというのは三位一体の神を信じるという意味です。

聖霊体験というものはイエス・キリストへの信仰から続いて与えられると思っています。ということは、キリスト信仰なしに与えられる聖霊はおかしい、別の霊ではないかと思います。同時に、聖霊なしのキリスト信仰も何か足りないのではないかという思いです。そして、こんな出会いの中で、人々は神というものを実感したのではないかという思いです。

旧約聖書も聖書です。しかし、キリスト教徒は新約聖書を中心にして旧約聖書を読んでいるのであって、その順序は大切と思います。ユダヤ人たちが信じているようには旧約聖書を信じてはいない、という意味です。このような見方の原点は私ではなくイエスです。福音書を読めば、それが分かります。では、なぜ旧約聖書がキリスト教徒にも聖書として受け入れられたかということですが、井上洋治神父の『わが師イエスの生涯』(日本キリスト教団出版局)という本に詳細に書かれています。キリスト教が迫害されていた当時の状況の中での選択であったと指摘されています。面白かったです。

投稿: | 2006年1月26日 (木) 09時42分

イエス・キリストへの信仰でなく、「父と子と聖霊」の三位一体の神を信じるから、信者なのではないですか?管理人さんは、ご自分で十字を切って祈るときに、そう誓いませんか?
 「聖なる普遍の教会」を信じる(使徒信条)のであれば、教会の教えをそのまま信じないのですか?

>キリスト教徒は新約聖書を中心にして旧約聖書を読んでいるのであって、その順序は大切と思います。
 「キリスト教徒」という表現のされ方はおかしいと思います。カトリックは、キリスト教ですから。旧約聖書も新約聖書も大切に読み、信じています。

 管理人さんにお勧めしますが、まずは「カトリック教会のカテキズム」「カトリック教会の教え」(カトリック中央協議会編)を熟読されるとよいと思います。これらの2冊を読んだ上で井上神父様の本を読まれれば、カトリックについてもっと深く味わえるはずです。
 また、聖霊降臨や旧約聖書・新約聖書に管理人さん独自の解釈をお持ちのようですが、所属される教会の神父様に、独自の解釈をお話しされたらいかがでしょうか。

投稿: jyakuzuregawa | 2006年1月26日 (木) 13時17分

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