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2006年1月 3日 (火)

二重予定

二重予定説はカルビンの説として知られている。救われる人も滅びる人も、神の意思の中で決定されていて、それを変えることは出来ないという説だ。救われる人の原因は神の決定であれば、自分の功績ではないから、行為義認は完全に拒否できる。それはいいのだが、逆はどうか。滅びる人たちも自分に原因があって滅びるのではなく、神に原因があるというのだ。不公平だと思う。これではまずいのではないか。確かに、この説に対しては、批判もあった。しかし、あるいは現実を見て、論理的整合性を考えて、生まれた説だはないかと思った。
聖書が示す救いの条件を現実に照らした場合、すべての人が救われるのではない。であれば、救われた人の死後の場所として天国があるのだとすれば、滅びる人のためには地獄がなければならないだろう。そして、神が全知全能であれば、このように、すべての人の究極的立場の最終的決定は神が下したものでなければならない。こうして二重予定が生まれたのかも知れない。
ザビエルが布教のために来日した時、日本の人たちは、その教えを聞いたことのない自分たちの先祖はどうなったのか、と聞いた。当然の問いであったろう。二重予定の論理から類推すれば、地獄に落ちたことになるだろう。そういう教えに、日本人たちが耐えられるだろうか。この国では、家族や地域の共同体意識は、今では薄れていても、根っこでは強いものがある。
この説に対して、玄侑宗久さんは、『仏教・キリスト教 死に方・生き方』の中で、「一生懸命にやって、祝福されて上機嫌にしていることが、神の世界に行ける証明だと言うんですね」(166頁)と解説するのだが、もし、ウェーバーの、あの本を参照にしているのだとしたら、あの本は、このことと逆のことを言っているのである。
宗教者であれば、「上機嫌」であることは宗教体験であり、恵みの体験であろうが、それがあっても、それが予定の証明にならない、というのが、あの本の言うことではないのか。それとも、あの人たちは禁欲的宗教者でありつつ、恵みの体験はなかったというのだろうか。それでは宗教者の定義はどうなのか、という問いにまでなってしまう。資本主義の台頭をもたらした人たちの宗教的動機というのは、よく分からない。
しかし、このカルビンのもたらしたものが宗教改革の「完成」であることは理解できる。ルターは原理を語った。彼は、その原理による共同体・教会には融通性をもたせた。しかし、その後、カルビンが出て、原理による教会を作った。ローマ・カトリック教会に対する新しい教会が、これで「完成」する。宗教改革は、こうして教会の創出を実現した。であるから、これは教会革命であって、改革ではないのだ。改革としたのは、歴史を飛び越えて、原始教会を「真実の教会」と見て、ローマ・カトリック教会の改革を意図したのかも知れないが、両者に連続性はない。そして連続性のない所に改革はない。
二重予定の神なんて神ではないという理屈は、非常によく理解できるのだが、この教えの中では、そんな理屈を封じることも大切だ。絶対主権の神という考えも、それに連動しているのだろうか。どこかで善悪の理屈を封じることだ。藤原教授も『国家の品格』の中で、そんなことの必要性を言っている。

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