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2006年1月 2日 (月)

近世

近世は分裂と競争の時代になった。その競争は進歩をもたらした。その意味で、近世の意義を認めることはできそうだ。
競争とは、対立関係を前提としている。その対立関係が厳しくなる時、それはのびやかな精神にとって苦痛となる。キリスト教の教派対立の関係は、苦痛を伴うものでもあった。しかし、教派対立が、自分の教派の絶対化を意味しないのであれば、それは健全に競争関係を維持するものとして意味あるのではないか。そこに「見えない教会」の概念があるのかも知れない。
近世にあっては、この概念は教派絶対化を阻止するものとして必要なのだ。絶対教会は「見えない教会」なのだという理解の下で、各教派が対立しつつも、競争していく、そんな構図が近世のものなのかも知れない。だから、「見えない教会」という概念を失うのであれば、近世は苦痛以外の何者でもないであろう。
進歩は望むべきものであろう。しかし、逆に見れば、罪の結果なのではないだろうか。楽園で、「知恵の木の実」を食べたことが罪とされた。知恵の木の実であれば、知恵が与えられることを意味している。知恵は進歩をもたらす。進歩は罪の代償なのであろうか。罪には罰が結びついている。だから、罪と罰は避けたいのだ。しかし、人間社会に生きて、自分の罪、他人の罪と、罪に囲まれて、その影響としての罰を何らかの形で受けないではいられない。罰は苦しみを意味している。しかし、罰の原因が罪であり、罪の原因が「知恵の木の実」であれば、罰の苦しみの中に、進歩の希望も含まれているのではないか。
進歩のために罪を犯すことはしたくない。しかし、不可抗的な罪のために苦痛を耐えている人にとって、その中に進歩の希望を合理的に提示するのは、されてもいいのではないか。
こう考えると、近世は一見、進歩の時代であった。しかし、罪が根本にあった。その罪の罰が第二次世界大戦とその後の世界情勢であった。そんなふうにも思えてくる。
新しい時代は、次の世代が罰に苦しまないために、罪を避ける時代でありたい。進歩をもたらす競争があってもいいが、その中に、あるいは罪のあることを覚えたい。そして、罪を避けることを第一に心がけたい。社会の停滞があるかも知れないが、幸福感も、そこにあるのだから。

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