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2006年1月 9日 (月)

死者たちを想う

錬獄の教えがあり、死者による取り次ぎの祈りもあるカトリックの中では死者たちと生者たちとの交流は考えやすい。死者たちのための祈りは完成途上にある死者たちへの応援であり、死者による取り次ぎの祈りは、生者への応援である。
仏教では死者のために法事がある。どんな意味があるのか、よく知らない。カトリックと仏教は、生者が死者に向き合う時、同じような考え方があるのだろう。
しかし、プロテスタントでは、交流はない。祈りはただイエスに向けられるのみで、死者(復活者)からの慰めは聖霊のみ。キリスト教はプロテスタントが根本にあるのであり、カトリックは、それに付加しているのであり、その根本を否定しているのではないだろう。
しかし、もしあるとして、死者たちとの交流の実感はどんなものなのだろう。聖霊は生ける神であり、この実感は信徒であれば、みな持っているだろうが、それ以外、死者たちの交流の実感はあるのだろうか。私には分からない。
しかし、我々は、いろいろな意味で死者たちとの交わりを持っている。昨日、NHK大河ドラマで司馬遼太郎さんの「功名が辻」の放映が始まった。司馬さんも死者、ドラマの登場人物も、今ではみな死者たちだ。われわれの世界は実に、死者たちとの対話・交流を日々、熱心に行っているともいえる。生者たちは、こうして日々、死者たちの影響下にいるとも言える。ある意味では、死者たちも、こうして生きているのかも知れない。しかし、このような意味で、死者が永遠に生きるのだと考えるとしたら、「永遠の命」の意味を誤解することになろう。
死者たちとの対話なくして生者たちは生きられないことは日々、痛感するのであるけれど。

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