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2006年1月24日 (火)

存在と悪

存在するということは、それ自身、価値なのかも知れないが、同時に道具になるということでもある。日本には、かつて「天皇機関説」いう学説があった。
カトリック教会の教会観にも「救いの道具」といった解説があった。もちろん、それは教会の解釈の一つで全部ではないが、プロテスタントにも正教会にも、余りない定義ではないだろうか。正教会のソボルノスチ(霊的共同体)の観念の方が教会の本質を言い当てているように思う。しかし、「救いの道具」といって、自らの相対化に理解を持つ余裕に、どこか安心したこともあった。
道具になるということは利用されるということである。善に利用されることが本来の目的であるが、悪に利用されることもありうることだ。だから、存在がなければ悪もない。逆に言えば、悪をなくしたければ、存在を小さくする以外にない。センチメンタリズムかも知れないが、こんな生き方に魅力を感じる人もいる。大いに共感する。

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