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2006年1月 5日 (木)

幼児洗礼

プロテスタントのバプテスト教会は幼児洗礼を行わない。批判している。それは洗礼(バプテスマ教会では浸礼という)の意味であり、それが指し示している新生の条件である自覚的信仰が幼児では不可能であるという理由による。確かに、その通りである。
カトリック教会は幼児洗礼を行う。プロテスタントの改革派教会でも聖書の根拠を示しつつ、これを行う。
洗礼は新生を指し示しているかも知れないが、時間的に一致しているのではない。たとえば、パウロは新生があって、そのあとに洗礼を受けた。また、洗礼が先で、そのあと新生する人もいるだろう。あるいは、同時という人もいるかも知れない。しかし、大事なのは新生なのである。新生がなければ、魂は滅びるからである。新生の重要性は、バプテスト教会が強調するとおりである。
では、幼児洗礼は避けるべきなのだろうか。教会が、それを認めているのであれば、自分の子に幼児洗礼を受けさせてもいいだろう。なぜなら、幼児洗礼を受けた人が、救われる魂であれば、やがては新生に導かれるであろうし、そのような神の予定がなければ、新生にまで達せず、滅びるだろう。滅びる魂は滅びる。それは洗礼を受けていようが、受けていなかろうが、同じことだ。こんなことを思うと、親が祈りを込めて、子に幼児洗礼を受けさせることも、あえてよいのではないかとも思う。子がのちになって、洗礼の水を返したいと思っても、それは子の自由であろう。新生に達していない子にとって洗礼は無意味だが、子には、そんな選択をする権利はあると思う。

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