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2006年2月 9日 (木)

回心

「キリスト教の中でメソヂスト派に於ては突然の起る回心が重大視される様であるが、ロマ・カトリック教などに於ては、それは殆ど重んじられていない」(『神への認識』菅円吉著)といわれます。確かに、そんな感じがしないでもありません。

しかし、メソヂスト派の開祖ウェスレーの回心は劇的というよりも、単に、心が暖かくなった、そんな変化の記述だったと思います。むしろ、フィニーの回心の方が劇的だったと思います。また、そんなもののない人もいるかも知れません。最高裁長官でカトリック信徒だった田中耕太郎氏は、『田中耕太郎集』の中で、「体験は信仰に到達する唯一の道であろうか。体験を通過しない信仰は虚偽のものであろうか」といっています。

体験という言葉で何を考えているか、それが問われるべきかも知れません。しかし、劇的回心で有名なのはパウロだったと思いますが、パウロはカトリックの聖人です。だから、回心の強調がカトリックの中で排斥されるわけではないと思います。

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