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2006年2月 4日 (土)

哲学の本質

昔、哲学専攻の子に対して、反対する親がいた。生活に役立つ学問の方がいい、という理由であろうし、それは本当によく理解できる。専門的・個別的学問を専攻すれば、それは生活に役立つ知識であり、親は安心するのである。しかし、ある意味で、その時点で、その人の人生の大枠は決まってしまう。そのような決定に躊躇する時、漠然と哲学専攻を選択する青年もいるかも知れない。

ソクラテスは、哲学というものは智ではなく、智への愛、智の追求と考えていた。ディルタイに『哲学の本質』という本がある。そこで哲学について、こんなことを言っている。
「精神がその全ての態度についてその態度の究極の前提に至るまで行う精神の省察」
「精神科学或いは内的経験に関する学」
「特殊科学と異なって、世界と人生の謎そのものの解決を求める」

人間は体であり、心である。この二つの要素を認めることはたやすいことだ。しかし、体も心も、時に不調に陥ることがある。体であれば医者に見せればいいが、心の不調は始末が悪い。もちろん、現代社会には精神科医がいて、カウンセラーもいる。面接、面談がある。しかし少しかかりにくいのではないだろうか。自分の心の中で何が起きているのか、それを知って、心の健康をはかりたいのである。その欲求が起きた時、人は宗教とか哲学に向かうのであろう。それは求道の人生である。しかし、どこかで結論を出したい。そして、自分の人生をまとめたい。哲学・宗教に自分なりの結論を持つことは、意義ある人生のために大切なことだと、私は思う。そして、雑談の中で、そんな刺激を与えることもまた、一人ひとりに、一回限りの大切な人生の反省を促す意味で、無意味ではないかも知れない。

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コメント

E.ムーニエは『実存主義案内』の中で、「厳密に言えば、実存主義的でない哲学なぞというものはないのである」と言っています。しかし、同時に、「哲学の使命は、事実、絶望を伝えることではない」とも言うのです。少し矛盾と思う人がいるかも知れません。
絶望を媒介にして、永遠の希望を伝えることが大切なのかも知れません。絶望を媒介にしないと、それは実現しないという意味です。その意味では、絶望に向かいあうことも必要になるでしょう。

投稿: | 2006年2月 4日 (土) 19時18分

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