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2006年2月18日 (土)

ベルジャーエフ

BER 大学生の時、初めて、ベルジャーエフの本を読んだ。最初は文庫本であったが、そのあと、当時、刊行されていた白水社の著作集を読んでいった。一冊読んで、また読みたい気持ちが起きた。自伝は「夢と現実」という表題であった。それを読んで、ようやく、「次も」という気持ちが収まった感じがした。

彼から何か重要なことを教えられた。しかし、疑問も残った。継承と解釈、そんなものが自分の立場であると思う。日本人として純粋な継承のみは無理だと思う。彼は言う(アテネ文庫『ベルジャエフ』宮崎信彦著)。

「ロシア人はその国民性から心霊的生活の中庸、文化の中庸に留まって安んじていることができない。彼等は常に極端に逸脱しようとする傾向がある」
「西欧の人々が世界を歴史的に組織しようと努力する場合に、ロシア人は一足飛びに決定的な結末に至らんとする。従ってロシア人は法や統治や芸術や哲学や宗教などにおける形式的な要素を拒絶する。それは節度を要求し、限界を提示するからである」

このようなロシア人にはなれないであろう。そして、ベルジャーエフは、このようなロシア人気質の中で思想を展開しているのである。その意味で極端があるが、同時に傾聴すべき言葉もあるのである。継承と解釈は、彼を読む場合、いつも意識することである。

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コメント

大学3年の時、宗教哲学を専攻したのだが、指導教師は日本の宗教に関心を持っていて、日蓮宗の本をテキストにした。「開目抄」「立正安国論」を少人数で読んだ。しかし、興味はなかった。早稲田大学には東洋哲学と西洋哲学の区別があったが、哲学に東洋も西洋もない、と思っていた。しかし、東洋哲学には関心が湧かなかった。キリスト教宗教哲学の分野で何かを探していたのだろう。中世は、波多野精一が学生たちに指導したと同じような危惧をもって、敬遠した。中世哲学はカトリック哲学なのであり、その信仰的前提が必要なのだということである。古代ギリシャは哲学の源泉であっても、キリスト教とは無縁であるので、少し動機が弱かった。近世のドイツに、それがあるように思った。ヘーゲルなんか面白そうだが、あの神秘的な目ににらまれたら、手に負えないと思った。
当時はキェルケゴールなんかに人気があった。キェルケゴールを読むために、独学でデンマーク語に挑戦する学生もいたが、私には思いも及ばなかった。
恐らく、ドイツ哲学が西洋哲学の中では主流なのだ。そこでは、近世のキリスト教との折衝があり、ヘーゲルも、それを意識していた。そこに何かの魅力があった。しかし、その森の中に入ると、相当、専門的な、個別科学的な感覚が強くなるのを恐れた。もっと、大雑把な、生き方の問題が大切と思われた。
そんな時、現れたのがベルジャーエフであった。彼の文章には関心を持った。そして読んで分かる。そのうち、紛争が起きて、勉強どころではなくなった。彼との対話は深まらなかった。しかし、彼には今でも魅力を感じているのである。

投稿: | 2006年2月18日 (土) 17時14分

いつもお世話になっています。大絶画です。
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投票ページへはURLからアクセス可能です。投票にご協力ください。
なおこのコメントが不適切と判断されたら削除していただいてかまいません。

投稿: 大絶画 | 2011年9月28日 (水) 07時43分

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