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2006年2月22日 (水)

弁証法的歴史観

「新しき中世の歴史観は弁証法的歴史観ではないのですか。歴史的中世と近世との総合・止揚としての新しき中世を考えているのですから」
「そんな一面もありますね」
「であれば、歴史観における弁証法的性格を肯定されるのですか」
「そういうことになりますね」
「であれば、ヘーゲルの洞察を肯定されるのですか」
「一面において、そうなるでしょう」
「一面とは」
「止揚というものには超越的性格が含まれると思います。しかし、歴史において、そんな超越は何度も起きるのだろうか、という点に疑問があるのです。たとえば、人類における神の関係を考える時、個人レベルでは、洗礼は一回、聖餐は繰り返します。超越は洗礼に対応していますが、であれば1回なのです。繰り返される聖餐は、洗礼の領域内での事柄です。すなわち1回の超越の中での繰り返しなのです。だから、弁証法的歴史観で、歴史が何度も超越の時を迎えるということに疑問が残るのです。超越はなければならない。しかし、それは1回だけ。これは個人では理解できることであり、歴史に適用してもよいのではないかと、私は思いますが。だから、止揚を超越とみなすのであれば、歴史に擬似弁証法を考えることはできる、となりますね。まあ、もう少し、よく考えてみる必要はあるとは、思いますけれど」

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