« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »

2006年3月31日 (金)

成長

根を見るな ただ太陽を 見るがよい
 根はおのずから 伸びてゆくべし

太陽を 裸眼で見たら つぶれるよ
 だからメガネを つけてみようよ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あわてるな 悪は消えない 世の常だ

人の心が根源的に満たされないという悪の状態では、世の中に悪はなくならないのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

老化

驚いた しみに白髪で おばあさん

人は誰でも老いるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

わび住まい

わび住まい 生活落とし 質高く

簡素・簡単な生活の中で、思いは高く飛翔する。カントもそうだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間

人間は 間を生きる 間とは
 関係にして 時空の絆

| | コメント (0) | トラックバック (0)

寂しさ

寂しさに 沈んでいたら 突然の
 ベルの音にも 驚かされる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

不可解

あなた言う 言葉の意味が 分からない

| | コメント (0) | トラックバック (0)

病得て 神のみ心 分からない

| | コメント (0) | トラックバック (0)

むなしさ

むなしさに いらぬものまで 買いあさり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

体面

出てこいよ いや行けないよ なぜなんだ
 会わせる顔が ないからなんだ

「会わせる顔」を意識するというのも、やはり、この世の価値観にとらわれているからなのでしょう。無意識にでも働くであろう、なんらかの価値観というものは、DNAの作用で仕方ないのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

信仰義認

カトリック教会とルーテル教会が「信仰義認」に関する共同宣言を1999年10月に出したことは大きな出来事であったと思う。ここが、私の時代区分における「新しき中世」の原点である。
作家・五木寛之さんは親鸞をよく学んでおられるが、『人生の目的』の中で、この信仰義認の共同宣言にも触れておられ、親鸞の信仰との比較をしながら分かりやすく、的確な説明をされている。当方も、全くその通りと思う。
『人生の目的』は文庫本で手軽に入手できるのである。大切な事柄が、仏教研究の作家を通して、こうして広まっていくことはありがたいことである。そう思っているキリスト者も多いのではないだろうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年3月30日 (木)

長崎

長崎は 日本の聖地 この言葉
 余り関心 ないようだなあ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聖書教授

聖書取り 公立校で 教えると
 違反になるか 米国の論

米国で聖書を公立の学校で教えることは憲法違反になるか、どうかで議論があるとのこと。
私は信仰を強制しなけれど、教えてもいいと思います。聖書を知ったからといって、皆、信仰を持つわけではありません。
それにしても改宗者は死刑という国も地上にあるとは驚きでした。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

人生

振り返り 曲がりくねった わが生も
 その時々に 善を選べり

10代の後半で、ただ一回、悔やまれてならない決断をした覚えはある。しかし、それ以外は、その時々で、善を選んできたのだと思う。しかし、回顧すれば、なんと曲がりくねった道をたどってきたかと思う。まっすぐな人生であったと思える人をうらやましく思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歓喜

朝目覚め 不思議な歓喜 心満ち
 終日家に 閉じこもりたり

なぜ歓喜 それは分からぬ 私には

家にじっとしておれないところから、さまざまな悪が始まる。パスカルが、そんなことを言っていたようにも思えます。現象的には「閉じこもり」なのだが、心配な「閉じこもり」とは別のものもあると思いますけれど。

歓喜には因果があるのでしょうが、今の私には分かりません。

人生の目的は、これで終わりです。臨終もまた楽しからずや、です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月29日 (水)

長電話

寂しさに 用もないのに 長電話

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ことば

ことばとは いのちなりけり 信ずれば

| | コメント (0) | トラックバック (0)

文庫本

文庫本 慣れ親しんだ このかたち
 作る側にも なぜ立たないか

ハードは文庫本なのだろう。以前、ある牧師に証しの本を手渡された。文庫本だった。手軽であった。何か記憶に残っている。文庫本になぜ着目しないのだろうか。カトリックの聖母文庫があるだけである。
「新しき中世」は副題として、日本宣教試論となろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

短歌伝道

短歌に対して長歌がある。両方を和歌という。しかし、長歌よりも短歌の言葉の方がよく知られ、和歌と同じような意味に使われている。

短歌は和歌というよりも、伝道とミックスして考える場合都合がよい。

伝道は、従来何かと一緒に行われている。パウロは天幕作りと共に伝道した。かつて喫茶伝道というのがあり、歌舞伎町の喫茶店で牧師が説教した。結婚伝道というのもあった。結婚相談所を開設し、そこで福音を伝えるのである。英語教室伝道もあった。

だいたい、伝道は教育、医療・福祉と共に進められて来た。大衆伝道は伝道集会中心の活動であった。大衆伝道は、その影響の大きさから、これが伝道と思いがちだが、それに限られるわけではない。文書伝道と言って、出版活動も伝道の一種だ。

伝道というのは、ある意味で「生涯学習」の資格のようなものだ。活動の具体性が欲しいのである。その具体性として短歌を取り上げてみたいと思うようになった。

短歌伝道、そんなものがあってもいいと思う。そして、その塾のようなもの、また推進主体があってもいいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本の顧慮

新しき中世とは、西洋的時代区分で、中世的価値の再発見を志向するものであった。そこでは、日本の特殊性は余り考えられていなかった。しかし、それではだめなのだろうと思う。

新しき中世の、日本における先達たちも、その点の考察は余りなかったように思う。みな西洋を向いていたのである。しかし、われわれは西洋を向くと同様に日本にも目を向けなければならないのである。この点が、あの輝かしい先達たちと私との違いかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

魂の成長

人間は「考える葦」であり、思う存在である。思いは表現されるのである。そこに何かの形式がある。それは他者への一種の儀礼であり、あいさつでもある。無形式では、相手は何か、いらない心遣いをするかも知れない。
表現形式を、どうするのか。短歌形式がいいのではないか。短歌は和才である。それは和魂に結びついてきたかも知れない。しかし、一定の和魂での制限を設定しないで、ひろく、自分の感情を表現する手段にしてもいいのではないだろうか。そうすれば、一人ひとりの魂の成長に役立つであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

老人問題

高齢化 引退人(いんたいびと)は 何するか
 自ら語る すべを教えよ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

時の流れ

何もせず 時は流れる 無傷にて
 のっぺらぼうに 刻みを入れよ

時の流れの中で、印象深い感覚を記すことは大切です。それが時に刻みを入れる、という意味です。これがないと、時の流れは歴史になりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フリーター

フリーター 給与少なく 自由あり
 職場掛け持ち 天職尽くせ

フリーターのメリットもあるのではないだろうか。天職の自覚の問題であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

洋魂和才

西洋文明との出合いが近代日本の扉を開いた。その時、日本の西洋導入のキーワードが和魂洋才であった。魂は売らないが、科学技術は積極的に導入するというもの。しかし、もちろん、魂にも西洋への憧れがあったのだ。こうして、近代日本は発展していった。それは、あの戦争で終焉を見た。そして、新しき中世である。これは日本においても意味のある時代解釈であり、そのための文化創造手段を持たなければならないのである。
今。和魂洋才の時代は終わったのだろう。新しいキーワードは何か。それは洋魂和才である。洋魂とは、西洋の魂に同化することではない。その魂を理解できる場所に立つことを意味する。そして、和才である。それは日本形式という意味である。文化の形式という意味である。
キリスト教の日本導入は成功しているとはいえない。それはあの16世紀においては、洋魂洋才を導入しようとしたからである。導入した地域は西洋の植民地になった。日本は拒否して、その道に入らなかった。近代日本は確かにキリスト教に門戸を開いた。そしてある程度、成功した。それは伝えられたキリスト教がプロテスタントであって、かつてのカトリックのような背後に巨大な権力がなかったからだ。その分、和才的な余地があったからである。これは真剣な検討に値することであろうと思う。
今。洋魂和才においてのキリスト教宣教の可能性を考えるべき時である。和才とは日本文化の形式である。もちろん、その和才においては、和魂が語られてきた。そして、和才は和魂と結びついて、和魂なき和才は拒否されるかも知れない。しかし、和才とは、容器なのである。形式なのである。そこに何を盛るかは、時代によって変化してかまわないのではないだろうか。
近代日本では和魂洋才であったが、今、ポストモダン、新しき中世の時代にあっては、洋魂和才で切り開いていかねばならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヨブ記

ヨブ記は旧約聖書の一つの文書である。何を教えているのだろうか。旧約は基本的に応報倫理の世界である。義人が災難に遭うのはなぜかがヨブ記で問われている。

応報倫理は自力救済の世界である。その限界を指摘しているのではないだろうか。その倫理でヨブを責めた友人が逆に神に責められている。そして、神の顕現ですべてが終わる。恵みの体験、至福直観の世界が応報倫理、自力救済の世界の果てに現れるということだろうか。それは新約の世界である。旧約の世界の中に隠されている新約の世界がヨブ記にあるのかも知れない。

ヨブ記は旧約書であるが、新約の光で解釈してみる試みは意味がありそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間関係

べたべたと 関わることは 他人ごと
 しがらみの中 風の如くに

| | コメント (0) | トラックバック (0)

姉歯さん

姉歯さん 奥さん自殺 悲しいよ
 同情するよ 身につまされて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

輪廻

輪廻をば 断ち切ることと 錬獄の
 修行はどこか 似ているのだが

この両者は確かに似ているのですが、どこか違うようでもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

財産

財産は いつの間にかは なくなるさ
 それに安住 している時は

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月28日 (火)

麻生外相

クリスチャン 麻生外相 マスコミに
 書かれることは 珍しくなく

| | コメント (1) | トラックバック (0)

善と悪

善と悪 混ざり合うのは 避けられず
 見方変えれば 共に善なり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

家族

家族あり 子どものころは 懐かしき
 流離の旅に 出でし後には

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月27日 (月)

こまぎれ思想

ちょっと待て 大文学を 思うなよ
 こまぎれ集めて 中心射貫け

表現活動を始めるに当たり、大文学を構想する必要は全くないと思います。もちろん、そういう志を否定するものではありません。
日々のこまぎれ思想で十分ではないでしょうか。こまぎれでも大思想の中心を表現することはできると思います。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

カイロス

単独者 そのために生く カイロスと
 人は名づけり 新たな地平

単独者とはキルケゴール、カイロスは彼が語った瞬間のこと。

実存思想を短歌で表現できないだろうか、と思うのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

コメント

短歌にしても俳句にしても、それだけを読んで、なかなか理解できないことがあります。かつて深夜便で、金子兜太さんのうたを聞きながら、理解できないと思ったことがありますが、説明を聞いて、そういうことかと思いました。説明、コメントは、こんな短い表現にあっては、あった方がいいかと思います。もちろん、読者の受け止め方を制限する必要はないと思いますが。
私としては、短歌・俳句と共にコメントで、一つという方がいいような気がします。コメントの必要がない場合もあるでしょうけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

祈りの場

無化嵐 吹きすさぶなか 立ちつくす
 消えざる我は 祈りを知れり

無化嵐は造語です。無化は虚無感を引き起こすもの。こんな心的状況は砂漠的なものであり、そこで祈りが生まれるという理解を表そうとしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ただの人

肩書きを すべて失い ただの人
 委ねられしは 何かを思う

肩書きというのは社会的生の標識なのでしょう。それを失うということは、ある意味では社会的には「存在」していないということでしょう。しかし、それはリセットの時かも知れません。その時、自分の責任を改めて問うことになるのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

過干渉

過干渉 子ども自身に やらせない
 母親の弊 重いつけ来る

過干渉の母親がいると、子どもは自分の責任を放棄してしまいます。子どもはいつまでたっても精神的に自立できません。やがて、母親に重いつけが来るようになるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月26日 (日)

挫折

人は言う 彼は挫折だ 本人は
 本来意志の 展開探す

人が、私に向かって挫折したと言っても、それを恐れる必要はありません。ただ、恐れるべきは本来意志を放棄することです。本来意志の放棄は罪です。それでは自分の行くべき場所がありません。そして、それは周囲の人々を不幸にするでしょう。
ただ、本来意志は貫徹されるだけです。本来意志の保持の意志さえあれば、道は開けると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

おわび

我がために 傷つけられし 人々に
 おわびしながら 死に至るまで

生涯続くおわびもあると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

好機到来

閉じこもり 時を計ろう 気を配り
 好機は来るよ あわてるなかれ

閉じこもる期間でも、知られない所では仕事がなされている。タイミングは大切である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自分探し

表現を 抜きにしてなお 可能かな
 自分探しの 探求の旅

創造活動は表現活動の一種である。根源を問う表現活動のことを創造活動という。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月25日 (土)

夫婦関係

からみつく 妻の思いを ていねいに
 解きほぐしつつ 日々を過ごせり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

信仰

信仰は 信頼なりと 言えるけど
 盲目的な 信頼でない

ヘブライの信仰がギリシャの理性と折衝することの大切さを思うのです。その意味で中世理念の豊穣さを理解できるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

頼る人

頼る人 頼る相手を 見極めよ
 相手次第で どうにでもなる

頼ることは、相手に自分の大切なことを委ねることであり、その意味で自分は不安定になることです。頼ることを警戒する人には、この事実が分かっています。しかし、相手かまわず頼る習性の人がいて、私などひやひやします。
これは同時に、自分の頼る相手も考えよという問題でもあります。頼りがいのある方を頼れ、ということです。これは絶えず確認すべきことです。自分の頼る相手が不安定だと、自分も不安定となり、自分を頼る人も不安定に陥らせるからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自立

頼られて いい気はしない 心配だ
 自立の心 育てたいけど

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夫婦橋

夫婦橋 少し離れて 暮らす良さ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夫と妻

夫と妻 一緒になって 30年
 今まだ知らぬ お互いのこと

所詮他人同士です。自分が知れるのは、恐らく自分だけなのでしょう。認識論の基本です。また、知るとは因果関係を探求することなしには不可能でしょう。事件が起きた時の徹底解明が、それに当たります。未知、不可解なものに囲まれた、われわれは理解するよう努める義務があるように思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ニート

3月25日朝の「こころの時代」を聞きました。「世の中頑張り過ぎないで良い」という題で、NPO法人ニュースタート代表の二神能基さんの話でした。同感する個所が多くありました。物欲の少ないニートの青年たちが何か新しい価値を求めている、それに期待したい。二神さんの活動が日本中に浸透していくよう、祈りました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

気まぐれに 愛していると 言ってみた
 僕もと言って くれたうれしさ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

定年後

定年後 夢も希望も 消えうせて
 日がな一日 気ままに暮らす

| | コメント (0) | トラックバック (0)

被害者

被害者を よそおうことも できるかな
 不幸な人の 身の処し方に

王位を追われた王でなければ、王位にいないことを誰が悲しむであろうか、とはパスカルの言葉。その不幸の気持ちには王としての自覚がある。その自覚と被害者としての自覚を重ね、被害者として振舞う可能性もあるのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

流れゆく 記憶はちぢに 交じり合い
 夢とはなりぬ 暁のころ

夢は過去の記憶のかけらが意味不明に結び合っているようである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月24日 (金)

失敗

失敗は 起きて初めて 分かるもの
 当初はよきに 思えしことよ

人類はアダムの時から失敗を繰り返しているが、その内容は、よいと思えたが、起きてしまって失敗だったと初めて分かり、後悔するというものである。

当初は、こんなに重大事件になるとは思えなかったのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生命の探求

遺伝子に 命の秘密 書かれたり
 見れば見るほど 逃げていくかも

命の神秘が遺伝子で解明されるとは思いません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生活儀式

無目的 生活見れば 規則あり
 無意識による 小さな儀式

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年3月23日 (木)

私の罪

知らないの? あなたのために 受けた傷
 知られた私 私は知らず

主観的無罪が客観的無罪とは限らない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間機械論

人間は 機械であるか その面も
 人を動かす ものを問わねば

人間は一面、機械です。しかし、機械は自分を動かすことはできません。何が人という機械を動かすのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

継続

継続は 力なりとて 言うけれど
 継続は問う 永遠は何

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最後の因

自由意志 最後の因は 予定かな

人間の自由意志は人間の最後の砦。それは神に基礎づける以外にない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生き方美学

持ち物を 生き方美学 ならいつつ
 その不平をば 解消せんと

生活の中の不用品は泣いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

単独の道

価値受けし 人はかなしい 単独の
 未知なる道へ 追い込まれたり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人の世

人の世は 泣き笑いなり 演技なり
 高みにありて 眺めおる人

| | コメント (0) | トラックバック (0)

若さ

振り返る 生気ぷんぷん 若さかな
 情報過多も 質にかなわず

若さというものは、ある意味では情報過多なのだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人それぞれ

還暦で 意欲なくして 老いる人
 なお励む人 人はそれぞれ

80歳、90歳で現役という人もいます。比較するとめまいがします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大沢文夫さん

名古屋大学・大阪大学名誉教授の大沢文夫さんの話「学ぶ愉しみ 知る素晴らしさ」を聴いた。深夜便の「こころの時代」で。お名前は初めて知った。
80代という高齢なのだが、今でも授業を持っているという。話も過去のことをよく覚えておられて、実に明晰であり、驚きであった。こういう感動が、この番組で、実に容易に得られるのである。
科学は面白いと思う。科学の目は外界に向けられている。しかし、私は、小学校の5年のころから、自分の内側に目が向いてしまった。こういう動機は科学者では、どうなのかなあ、と思うこともあるのだが。仏陀の問いのようなものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

創造

創造は 祈りなりけり そのかたち
 人の呼吸に 似たるものかな

創造は神固有のわざで、人には不可能なのですが、ベルジャーエフは創造活動を高く評価しています。それは、こんなものかな、と思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

利と義

利と義とは 違うものだよ 市場人(しじょうびと)
 その調整に 心砕こう

| | コメント (0) | トラックバック (0)

浮世警告

浮世をば 憂世離れた 次元にて
 襲いかからん その時を待つ

暴力賛美ではありません!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

困りごと

困りごと 困った人に 起きるのか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

病気

病得て よろよろ歩く 君がいる
 若さバイバイ 老いよ優しく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月22日 (水)

告白

ただ一人 打ち明けたいな 話したい
 そのような人 持ちたいな

何でも話せる人も持つということは、人生で大切なこと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

幸福の義務

幸福は 避けるべからず 人の義務
 多くの人に 分かつためなり

自分が幸福になるのは、自分のためばかりではありません。だから、堂々と幸福になるべきなのであります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歴史

省みて 時空制限 歴史なり
 出会いし人ら 選びを超えて

人生で出会う特定の人々は、私の選びを超えているような気がします。なぜか知りません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

歴史意識

システムに 出て行く時は 思うべし
 歴史の中に 参入すると

システムに出て行くとは就職などのこと。それは会社の歴史に入ることで、その会社の歴史と自分の中の何かの要素が合致すれば、いわゆる出世するという可能性が大きいということなのでしょう。だから、就職には自己分析は必要です。もっとも、経済的理由のために、そんなことは考えないかも知れませんが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

無職

無職とは 重力なき場 目的もなく
 煩悩湧きて 思い乱るる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本の骨

心配だ 骨なき体に 肉太り
 日本の骨 武士道の声

| | コメント (0) | トラックバック (0)

時の浪費

時は過ぐ 空しく流る 眺めつつ
 時の浪費を いかに止めん

| | コメント (0) | トラックバック (0)

旭日

太陽が 東天高く 昇る見て
 果てなる国の 使命を覚ゆ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

直観の器

こまぎれの 言葉に力 ありという
 直観力の 器なればと

| | コメント (0) | トラックバック (0)

沈黙

そのうちに 何か始まる 予感して
 ダルマにならう 沈黙の日々

| | コメント (0) | トラックバック (0)

言葉

君は読む 読んだら変わる 想起にて
 言葉の力 世紀を超えて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

世紀

我は立つ 東(ひんがし)の島 日いずる場
 世紀の変化 証しせんとて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

道徳再武装運動

道徳の 再武装とは 懐かしき
 武装なき世に いかに進めん

MRA(道徳再武装)運動というのが、かつてありました。今も必要なのかも知れません。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

浮き世

浮き世には 浮き浮きあれど 憂きもあり
 憂き満つる時 浮きに通じる

| | コメント (1) | トラックバック (0)

末世

末世とは いつかにあらず 今のこと
 超越起きる 時はいつでも

| | コメント (0) | トラックバック (0)

信念

苦難にて 生を支える ただ一つ
 それを知ること 信念という

情報氾濫社会は、信念なき人間を大量生産しているようなものではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

個人情報漏洩

個人情報 漏洩しては 謝罪あり
 すべて漏洩 神の御目に

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月21日 (火)

改革政治

改革も 全体主義の 恐れあり
 地方分権 よしと言えども

精神的価値の見えなくなっている日本で、改革は浮世の価値の強化を意味しているようです。そういう風潮に抵抗したいと思います。そういう点では、藤原正彦教授に、なお期待しております。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

聴くこと

聴くことの できない人よ 恐るべし

聴くことのできない人は何かにとらわれている。そして、訴える人の権利を抹殺しようとしている。それでは将来が見えてこない。そして、そのような態度の中に将来への不安がある。恐れるべきだと思う。人にとって、聴くことは大切です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

集中

質問に 数式を書く 廊下にて
 周りを見ずに 問いに集中

高校生の時、数学教師のF先生に廊下で質問しました。そうしたら、先生が突然しゃがみこんで、廊下に数式を書き始めたのです。びっくりしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

家庭の再建

現代は子どもたちの苦悩の聞こえる時代である。それは家庭が崩壊していることを意味している。子どもたちは健全な家庭で育つことを望んでいるであろう。そのためには、どうしたらいいのだろうか。

家族全員が一日、最低一つの道歌を作ること。食事時に、それを発表すること。そして他の人たちが、それにコメントをつけること。

この日常的実践によって、子どもたちは内心の不安、不満を解消できるのではないだろうか。そして、それは子どもたちの一生の財産になるであろう。

健全な家庭再建の一つの手段である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

甘え

甘えなよ いや御免だね 甘え過ぎ
 あなたに自立 無理だろうねえ

甘えている人は、自分の思うように事柄が運ばない時には暴力的になることがあります。要注意です。自立している人は、人間関係の権利義務関係を正しく処理できる人だと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

父の写真

再婚の 母は語らず 我が父を 
 ただ一枚の 写真示せり

母は、再婚の父に遠慮があったのだろう。私の父を「兵隊さん」と呼んでいた。そして、一枚の軍服姿の父の写真を見せて、「これがお前の父親だよ」と言ったきり、あとは語ろうとはしなかった。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

父の代わり

新来の 父が風呂場で かく言えり
 父の代わりを 努めてみよう

遠い昔のことなのだけれど、昨日のことのようにも思えるのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

母なし

再婚で 父が来てから 母なしの 
 日々続くなか 罪を孕めり

母が再婚して、新しい家庭が出来た。私は少し、いづらくなった。そんなところに罪の温床が出来たのかも知れない。私は母を「断念」した。そんな時があったように思う。精神的不安定は、そんなところから始まったのかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

罪について

心の中で密かに実行された罪は必ず外に出るものである。犯罪となるかも知れないし、そうでなくとも人間関係の調和を乱すものとなる。後悔が起きる。その後悔は、かつての密かな心中の罪に集中する。その繰り返しが続くかも知れない。

しかし、ちょっと待て。その罪は、この後悔の原因ではあったが、同時に何かしらの結果でもなかっただろうか。そうなのである。その罪の原因を探っていけば、何かが見えてくるかも知れない。いや、何かあるに違いない。想像が混じってもいい。それを意識化していけば、新しい展望が開けてくるに違いない。

原因というものは原因だけではないのである。原因は必ず何がしかの結果でもある。その因果を見通すことが大切である。一つの罪ではなく、その罪を構成した別の罪も見ていくべきではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月20日 (月)

家系

親は子に 家系教えよ その歴史
 子の選択の 軸となるため

子の自己理解の軸となるように、家系を教える義務が親にはあると思います。先祖には、どういう人がいたか、子は、そういう知識を親から与えられなければならないと思います。それは自分の負うものが何かを知るためです。

しかし、こういう知識は、たとえば法事などで親戚が集まる時に得られるのかも知れません。親戚が集まるきっかけが、現代生活ではなかなか見つからないかも知れませんが。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

文化

文化とは 侵略者かも 知れないが
 自己も知らせる 問いを通して

外来文化というものに侵略者的性質はあるだろうと思います。その時、排除、同化といった対応があるでしょう。しかし、問いという対応もあります。その問いを通して、自己も見えてきますし、外来文化のよい点も分かるかも知れません。

外来文化というものは異質なものです。その異質性を前にして、問いが生まれます。それは簡単に解決しないかも知れませんが、問い続ける中で理解が増すかも知れません。そういう理解は他の人々にとっても、意味あるものとなるのだと思います。

多様な文化が流入して、対話がうまれ、自己理解が深まるのであれば、それでいいでしよう。しかし、対話を拒否して、自己絶対化をする時、排除か同化か、という選択しかなくなりそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

隠者

青年に 隠者は合わず 無関心
 定年過ぎて その魅力知る

青年には孔子や論語がいいのでしょう。しかし、引退後は老子が面白いと思います。隠者は社会的価値からはマイナス・イメージでしょうが、社会的価値を超える価値に結びついている証しとしては、十分に存在理由を持っていると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

追悼

さようなら 戦後響いた 無垢の声
 原点にして 旅路のゴール

童謡歌手・故川田正子さんのために

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自己認識の深化

歌詠むは 自己認識を 深めつつ
 自分の心 制御するため

短歌・俳句を作る目的は自己認識のため、というのが私の考えです。それは短歌・俳句の本来の目的ではないかも知れません。それでもいいのです。ただ、575、57577の定型に言葉を入れていくだけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

仏になろう

最近、梅原猛さんが仏のような手をした姿が新聞に載っています。授業シリーズの第3弾として『仏になろう』という本をお書きになったとのことです。

「仏教の理想は仏になる、あるいは仏になろうとすることなんですね」と梅原さんは言います。現代の仏教が仏になることを説かないことへの反省があるようです。「仏教を復興させるためには、仏教というのは仏に近づくことなんだという理念を立てることが必要だと思うのです」とも言います。

菩薩という言葉があります。「さとりを求めて修行する人」という意味です。キリスト教的に言えば、求道者のことかも知れません。教会では洗礼を受ける前は求道者と呼ばれるでしょう。中には、「救われて」、教会生活をしていて、求道者と呼ばれている人は、少し、ちぐはぐな思いがするかも知れません。

キリスト教と仏教との比較を続けます。では仏は何に該当するのかと思いました。信徒なんだろうか、とも思いました。プロテスタントの伝道の中では「救われた」と現在完了形で、宗教体験を言い表すことがあります。ある意味では「悟っちゃった」ということかも知れません。であれば、その時、「仏になっちゃった」という意味かも知れません。

刑事ものでは、ホトケは死者を意味します。確かに、「救われた」という宗教体験には死の体験が含まれています。死と生は、弁証法的に関係しあっているようです。ここでは、定義をきちんとしないと、混乱するでしょう。

キリスト教での宣教というのは、仏教的に言えば、「仏になろう」という呼びかけなのだと思います。ただ、ここで少し、凄みがきくのは、仏にならないとどうなるか、という点に関して、それでもいいよ、とは言っていないということかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夢を問え 伸びる子らには 執拗に
 生きる目的 忘れぬために

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月19日 (日)

心のしこり

わが内に とどまるしこり 見つけ出し
 羽を与えよ 世に送り出せ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

覚悟

真剣を 心に抱き 今日を生く

| | コメント (0) | トラックバック (0)

南国土佐

部活の日 南国土佐が 流れたり
 人生の春 夢持てたころ

ペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」は1958年のヒット曲で、サッカー部での練習の日、学校の近くの食堂で、よく、この曲を聞きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

孤立

ああだめだ 愛なき者に 囲まれて
 意識の壁を いかに砕かん

愛というものは人格交流をもたらすもの、人間成長の真の薬。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自立人間

生きるのは 自分なんだよ 人見るな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

資格

資格にて 社会を作る よいのかな

階層社会、格差社会を作ろうというのだろうか。資格ばやりの今日このごろである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

転機

心には 諸世界ありと 人は言う
 解脱は二つ 悟りも二つ

解脱の前後、悟りの前後、心は二つの部分という理解はどうなのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学校

生き方の 基本教えよ 学校は

学校は、知識を授けるのだけではなくて、如何に生きるか、その基本をしっかりと教えてもらいたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

経営

経営は 前後に行ける 自由もて

前進ばかりでなく、後退も出来なければ、真の経営とは言えないのではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

祈り

祈りなき 歌を作りて 何の意味

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自立

頼る人 頼られる人 混ざり合い
 自立を求め 祈り合う日々

| | コメント (0) | トラックバック (0)

突然変異

おだやかな 人の輪の中 嵐吹く
 突然変異 因果を知らず

| | コメント (0) | トラックバック (0)

学校

学校は 通過駅かと 思ったら
 ふるさと立の 親睦機関

私の場合、小学校は市立、中・高校、大学は私立でしたが、みな「ふるさと」立なのだということが、分かりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人間関係

すれ違う 人もあれども なぜ知らず
 つきあい続く 人もまたある

人とのつきあいの中には、一時的の場合と共に、時には生涯にわたる人間関係になる人もいます。なぜ、そうなのか、私には分かりません。しかし、そこで、なぜと問うことは、あるいは必要なのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月18日 (土)

開拓伝道

戦後間もなく、米国からの宣教師が来日して、宣教活動を行った。教会で英会話教室を併設して、人々とのコンタクトをとろうとした。しかし、今、そんな光景はないであろう。英会話の必要は依然としてあるが、そのため教会を訪ねる人はいないであろう。

教会は文化の発信基地でなければならぬ。であれば、短歌・俳句教室を併設して、日本の伝統文化を教えることも、今の時点でのニーズではないのだろうか。もちろん、専門家になる必要はないのである。素人でいいのである。ただ、生活改善、洗心の目的をもって、その仕方を伝授すればいいのである。それは、その人にとって生涯の生活習慣、財産となるであろう。

今、教会に求められているのは、こうした人々の魂の開拓耕作作業ではないだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

言葉の力

魂がサタンの奴隷になっている時、われわれは何によって対抗できるか。サタンとは魂の真の成長を阻害するもの、魂の影、人に知られたくない部分に関係している。だから、魂はいつも、その部分にとらわれていて、前進できないのである。
サタンの性質としては、光を憎むことが知られている。光が差せば、サタンは逃げる。光をもたらすのは言葉である。われわれは、光をもたらす言葉によって、サタンに対抗できる。
サタンにとらわれた人々を解放しなければならない。光をもたらす言葉によって。精神分析もカウンセリングも、恐らく、そんな理論を持っているのだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

注解

トマス・アクィナスへの興味は、最初はなかった。チェスタートンの本に少し興味を覚えた。その後、中世の位置づけが分かり始めてから、少しずつ興味が増えていった。しかし、決定的に面白いと思ったのは、山田晶氏の神学大全の本を読んでからであった。特に注解が面白かった。
注解は大切である。内村鑑三も賀川豊彦も注解なしで読める。それを想定していないからである。しかし、内村の弟子であった南原繁は短歌を残しているが、注解があれば、理解が深まると思う。
短歌・俳句は日本の伝統である。日本人であれば、それらの表現形式は駆使できるようでありたい。しかし、それらは余りにも短くて、読者には十分理解できないこともあるのである。その時、注解が必要になる。
自分史の書き方でも、短歌・俳句の形で生涯を綴ることだって出来るのである。しかし、その時も、注解があった方がよい。短詩形による自分史の作成は、注解つきであれば、読者に深い理解と共感を与えることが出来るのではないだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教えの館

本牧の 丘に建ちしは 木造の
 教えを宣ぶる 館なりけり

かつて、横浜の本牧の丘に宣教師の館がありました。米国の根本主義系の大学の卒業生のようでした。その宣教師は、救霊伝道隊という宣教団体を主宰していました。路傍伝道などしていました。宣教師館の下に、志願者訓練のための共同住宅がありました。平屋木造でした。

ほんのわずかの期間、そこにいたのですが、忘れることができません。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

名月

名月や 暗き心に 遠い夢

| | コメント (1) | トラックバック (0)

天然の家

ホームレス 天然の家 わが住まい
 鑑三さんの 自由は無限

鑑三さんとは無教会提唱者の内村鑑三のこと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

体系

体系は とても無理だよ 日本人
 実存意識 短く示せ

宗教を体系的に教えることは参考になるが、究極的な実存意識を体系化することには無理がある。アイデアとか、ひらめきというものは、その中に全体が含まれている。それを表現するには短い表現形式でなければならない。体系とは、その究極の表現であっても、その過程の壁に遮られて、究極意識が教えられる人々に到達しない場合もあるからである。

西洋中世には体系があったが、私は、そのような中世を志向はしない。日本人には無理だと思うからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

倫理と宗教

倫理の極みに宗教あり。宗教は倫理の実現であり、その意味で否定でもある。しかし、倫理の実現としての宗教は倫理の否定を内包しつつも、倫理を対話の手段として重視しなければならない。倫理は、まだ宗教に至らない人たちにとっての道であるのだから。その道には宗教の思いが込められているのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

目覚め

目覚めにて 心満ちたり 臨終もよし

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月17日 (金)

勇姿

勇姿かな 時の間をゆく 言葉もて
 末の世に生く 預言者として

ビリー・グラハム氏の伝道人生を思いつつ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ふて寝

若かりし 夢も破れて ふて寝かな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自立

自立とは 骨なきものに かなわずや
 精神の骨 まずは求めよ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いじめ

年とりて いじめしないと 妻はいう
 いじめられつつ 杖つきながら

| | コメント (0) | トラックバック (0)

幼稚園時代

幼稚園 砂場で一人 たたずむを
 女教師の 心砕けり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

妻の容姿

相撲取り 家内に似たる お腹かな

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中島みゆきさん

無名なる 人を歌いて 名を挙げし
 歌姫快挙 異議なしの声

中島みゆきさんの受賞を祝して

| | コメント (0) | トラックバック (0)

呼吸

呼吸して 生きる動物 人なれば
 心の呼吸 気になる人も

| | コメント (0) | トラックバック (0)

室町アンカー

とつとつと 語る優しさ 母の如
 
(深夜便・室町澄子アンカー退任に寄せて感謝と共に)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

洗心

歌詠むは 自分の心 洗うなり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

機縁

我にきて 生きる目当てを 見出せよ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

逆転

人の目に 負けと思えし その時に
 でんぐり返し 別天地なり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

島暮らし

南海で 島暮らしする  日本人
 命のもとを つくづく知れり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

定年延長

定年を延長して働き続ける人がいる。それも一つの選択。必要なことかも知れない。経済的に、また社会に立場がなくなるのはさびしいことでもあるから。

しかし、別の生活を模索する人もいる。年金に支えられて、何か意味のある生活を、と考えている人もいる。がむしゃらに生きるのではなく、やがて、この世とのお別れがくることを、まず念頭において、何を置き土産にしてやろうか、という意識で生き方の模索をするのがいいのだと思う。でなければ定年の意味がないのではないだろうか。

定年延長の中に、人はいつまでも生き続けるものという思いがあれば、それは錯覚、そのまま生きる必要はないと思う。しかし、別の生き方が発見できるのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月16日 (木)

藤原正彦教授

テレビ番組で、初めて藤原正彦教授にお会いした。小泉改革への痛烈な批判をしていた。『国家の品格』が売れているらしい。この人の書いた他の本をほとんど読んでいて、私は感動を受けていた。愛読者の一人と思っている。『国家の品格』よりも、他の、表題に数学の言葉の出てくる文庫本の方がよっぽど面白かった。

しかし、現在の政治路線を批判したい気持ちは、他の本を読んでいると、よく分かるのである。無駄なものの価値を彼ほど認めている人はいない。しかし、小泉改革は、人の価値観で、一見、無駄と思えるものをどんどん切り捨てているのだから、腹がたつのだろうと思う。

テレビでの発言は、真剣で斬り捨てるような迫力があった。竹村健一氏は、にやにやしながら、意味深長なコメントを語った。中曽根康弘氏も同志あり、と思ったであろう。

しかし、表面的には対立しているようであっても、小泉首相は内心では、藤原教授を高く評価しているような気がするのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

育児なし

育児なし 生き方知らぬ 子ら多く
 見よう見まねで 育児試む

「育児なし」とは実子のない人。「子ら」とは、委ねられた子。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大風呂敷

人はそを 大風呂敷と 非難する
 風呂敷さえも 持たぬ者たち

| | コメント (0) | トラックバック (0)

我、意気に感ず

道を歩いている時
騒音と共に自動車の来るのを見た

ときに意気に感じて
自動車を蹴っ飛ばしてしまおうと思った

その瞬間の思いに従っていたら
大怪我をしたに違いない

理性は大切だよ
信仰と理性の間を往来しようよ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

決まりごと

和歌・俳句には季語が必要とか、決まりごとがある。写生という原則もある。こうして、和歌・俳句の枠が決められてきた。その枠の理解ができずに、この日本の詩形式を避けてきた。

しかし、それらの枠によって和歌・俳句の可能性を限定しているのかも知れない。だから、私の提案は、厳密には和歌・俳句でなくともよいのである。ただ、別の定義を盛り込みたい。それは生活改善運動である。これが第一であり、和歌・俳句はその手段である。

和歌・俳句は生活の反省の手段であり、その意識化である。意識化されないところでは生活改善は不可能であり、その運動は望むべくもない。

私も含めて、生活がなっていないのである。だから、生活改善運動を提唱したいのである。そのための和歌・俳句である。従って季語不要である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地平の変化

はるかなる地平に異形を認む
近づくにつれ、風雨強し
塵芥舞い上がり、悲鳴らしきもの聞こゆ
引きこもりたる児童に被害なし
一陣の嵐去り、天気晴朗の明日を迎ゆ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あなた

あなたはね 愛されている ほんとうに
 ときには憎く 思うけれども

| | コメント (0) | トラックバック (0)

道歌の会

宗教教団が、教団の中に「道歌の会」というものを作り、教団の教えを、歌にして伝え、またその歌をテーマにして語り合うことにすれば、教えの生活化、土着化に寄与するのではないだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

罪の解決

罪というものは犯さない方がよいに決まっている。しかし、計画的ではなくて、出来心で罪を犯す場合もある。その時は、その結果がどんなものか、分からない。ちょっとした動機が働く。それはよいように見える。しかし、結果重大で、その人の人生全体を暗くするようなものにまでなる可能性もある。

罪の解決の過程では、後悔がある。その時、初めて、あの瞬間がなかったならと思う。あの瞬間の持つ意味の重大さに心が震えるのである。

罪はなければない方がよい。しかし、罪が起きてしまったら、その時は、全部、明らかにすることがよいことなのである。そのことで、その人は立ち直りのきっかけをつかむことができる。その人の場合を超えても、罪の全貌が明らかになることは、人々の結びつきを強化することにつながるのかも知れない。この点のメリットもあるのかも知れないのである。

再発防止のために、罪は徹底究明されなければならない。政治家が常に言う言葉である。それが罪の解決である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

召命

燃える柴 常に問いつつ 引かれゆく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

権力者

権力者 この世のことに 忙しく
 ご主人さまは 人の欲望

疲れたよ ああ疲れたよ 権力者
 人の欲望 限りなければ

されどなお 人は願うよ その道を
 権力者へと 通じる道を

| | コメント (0) | トラックバック (0)

倫理

倫理とは 命にあらず その道だ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

少子化

審判に 子どもののちを 憂いなん
 かく思いつつ などて生まれん

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月15日 (水)

下流

下流には なお下流あり 安心だ
 裸人生 聖人の道

聖フランシスの生涯を思いつつ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

遺言

遺言は 人それぞれの そのわざで
 見方変えれば 生き方もまた

| | コメント (0) | トラックバック (0)

退職後

退職し 悠々自適 老いが寄る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人生

ふがいなき 日々送りたり 人を避け

時流れ 人老いやすく 意味知らず

滝の上 問う青年に 答えなし

| | コメント (1) | トラックバック (0)

逆境

人の価値というものは逆境に遭遇した時に現れる。ある人は精神が萎えてしまう。しかし、ある人は逆に、精神に凛とした張りが生まれる。その違いは、どこにあるのだろうか。

逆境というものは現象にとらわれるということである。もちろん、とらわれないでいい、という意味ではない。生命の危機が根本にある。所有の減少も、それとの関連で、人は感じることがある。人は、逆境に対して、なすすべのない時、狼狽してしまう。

イエスが嵐を静める記事がマタイ福音書の8章(23節から27節)に書かれている。湖に激しい嵐が起きて、イエスと弟子たちの舟が沈みそうになった。イエスは眠っていた。弟子たちは、イエスに助けを求めた。イエスの言葉で、凪になった。そんな話である。

逆境というものは、真実の祈りを生み出すものである。その祈りは、向けられた対象が真実の神であれば、聞き届けられるのである。祈りが、常に、信仰によって、神に向けられていれば、逆境というものは、その祈りが真剣になるという量的変化の違いだけである。しかし、狼狽する人たちは、信仰がないのである。だから、祈りの真剣さというものに意識が変化していかないのである。イエスは、弟子たちに対して、「信仰の薄い者たち」と言われた。むしろ「ない」と言ってもいいくらいである。意識の質的変化という信仰にまで、まだ達していない、という意味である。

逆境に遭遇した時の、人の対応の違いというものは、こんなところにあるのだろうと思う。
逆境よ、来たれ! 嵐よ、来い!  われらは、神の栄光の現れを待望するのみ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

引きこもり

引きこもりが、どうしていけないのだろうか。ペニシリンを発見したフレミングも引きこもることがあったという。

発見の前には、そんなことも必要である。人の目には、何もしていないように見えても、本人の脳は活発に働いていて、自分のこれまでの人生の整理を行っているのだ。その中で、何かがヒントになって頭脳に整合性が生まれれば、社会に打って出ることができる。それがないところでは、なお瞑想が必要だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月14日 (火)

逆境での心構え

人生には逆境というものがある。苦しい時がある。そんな時、人はどうするだろうか。

大学紛争の時、「一点突破、全面展開」という言葉がよく語られた。

逆境がなければ、一点突破はない。一点突破がなければ、全面展開もない。全面展開とは視野の広がりである。一点突破は、天から来る。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから」
(詩編121、1-2)

人生には不思議なことがある。その不思議は、だいたい、逆境の時に来るのである。だから、逆境を喜ぶことが出来る。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

表現

表現は 恥ずかしいけど 必要だ
 乗り越えるため 今の自分を

| | コメント (1) | トラックバック (0)

雑草

雑草に 生きる力は 強けれど
 貴人の香り なぜか忌避する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アイデア

アイデアは 能書き言わず やってみな

| | コメント (1) | トラックバック (0)

鳴かぬ鳥 空中高く 飛べぬから

| | コメント (0) | トラックバック (0)

弱者

老婆看る 脳障害児 手をとりて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

就職

伝道と ひとこと言って 決まりたり
 紛争あとの 院長室にて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

路傍伝道

効ありや 路傍伝道 訳探し

| | コメント (0) | トラックバック (0)

前人未踏の領域

人間の認識には対象がなければならない。対象がないところでは認識は成立しない。その対象をとらえるのは、主に五感であり、視覚・聴覚である。こうして、絵画・音楽が生まれた。共に美を求め、その価値による共感で成り立っている。

正岡子規は俳句で写生を重視した。純客観世界の描写であろう。しかし、認識は客観と主観の響きあいではないだろうか。客観をとらえる主観の価値観の共鳴の中で歌の価値も自然と定まるのではないだろうか。主観の価値観の共鳴作用がないところでは、その歌は、聞く人には、分からない歌なのである。

自然は客観である。自然の美は歌の対象である。そんなことで、日本人の美的伝統は長い歴史を持っている。しかし、その自然は外的自然である。ということは、別に内的自然というものもあるということである。それを表現する和歌・俳句の歴史は、日本には余りみられなかったのではないだろうか。

クエーカーの日記は、日本人の知らない内的自然の表明である。ウェスレーにも日記があった。宗教経験というものは、外的自然ではなくて、内的自然である。そして、それも認識に対象なのである。であれば、表現できるはずである。日本人の和歌・俳句の伝統の中でも、表現できるはずである。この試みは、前人未踏の試みである。なぜなら、日本人の歴史には、そのような内容がなかったからである。ベンチャーとか、チャレンジャーとかは、この領域で待望されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

形式

内容は そなわりたるも 形式を
 探し求めて さまよえる日々

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生活の革新

社会の改革だけでなく、個人生活の革新も必要である。では、どうして行うのか、その手段は何か。

司馬遼太郎さんが歴史小説を書いた。しかし、「余談」がふんだんに挿入されていて、従来の歴史小説とは違うように思った。これが小説なのだろうか。司馬さんは、その疑問を知っていた。そして、小説は何でも表現できる形式だと言っていた。

日本には、和歌、俳句がある。季語なども必要だと、専門的な決まりもあるようだ。しかし、司馬さんが歴史小説の革新をやったように、和歌、俳句の形式を保持しつつ、内容については、自分の関心の一貫性を表現することもできるのではないか。

今、深夜便で、道歌について話している人がいる。新しいジャンルなのだろうか。道歌とは初めて聞いた言葉である。

実存的、宗教的関心を和歌、俳句の形式で表現する、宗教的関心を持つ人がいれば、日本的宣教の新たに手段が、そこにあると感じるかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

簡素生活

引きこもり こじんまりした 生活だ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月13日 (月)

損得

損したと 嘆くを止めよ 残り物
 空即是色 花盛りなり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

人生哀感

人生や 光短く 過ぎにけり

| | コメント (0) | トラックバック (0)

憎悪断線

お前死ね 気安く言うな ありがとう

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結婚生活

兄と妹 共に地震の震源地
 あの日境に 忍耐の日々

若さなし 自認の妻に 安心す

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年3月12日 (日)

困り者

生活の だらしない人 困り者

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年3月11日 (土)

余生

祖父母らと 共に育ちて 余生のみ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

叱る

叱るは怒ると同じようで違う。怒るは自分中心的だが、叱るは公の感情が混じっている。それは相手のことも視野に入れている。だから、怒るには、怒られた側に憎しみが混じるかも知れないが、叱るには、そんな感情は起きないだろう。それは、自分のことを心配しているという思いが伝わるからである。

怒るは意思疎通の阻害の原因となるかも知れないが、叱るには濃密なコミュニケーションがある。そんな叱る人が今、少なくなったのではないか。それは公の正義の感情が乏しいということかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

晩年

意識では 晩年に生く 葉隠と

| | コメント (0) | トラックバック (0)

かみしも文化

日本文化というものは、かみしも文化であり、その意味ではストレスのたまる文化でもある。弱みを見せることのできない文化である。

職場によっては、人間を機能関係でしか判断しないところがあり、そんな手段化に対して、私の内にある「目的としての人間」が苦悩する。

心はいつ病気になるか分からない。しかし、心の病気など、弱さの表明のようで、自分では対処できないのである。強い人間になりたいと思う。そんな努力をする。しかし、周囲から孤立していく。

信仰なんてものは、自分で人生の戦いに負けたことを表明しているようで、なかなか入信するには抵抗がある。

こうして、人は袋小路に入る。自殺者が出る。人生の虚無意識にさいなまれて、うつ病になってしまうのだ。

信仰は、こんな人たちにとっての、心の病気にかからないための予防でもあるかも知れない。精神科医の言葉と宗教者の言葉が響きあうこともある。

体が食物を求めるように、心の糧も必要だ。その「心の糧」を、どこで、どのようにして得るのか、それが分かっている人は幸いと言うべきであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ひまわり

罪がある、悪がある、闇がある
ああ、ここは天国ではない

闇深ければ、光も一層輝く
闇もまた光の奴隷、恐るべからず

光に向かって進もう、それだけでいい
これが唯一の人生観

牧師を志した画家・ゴッホに
ひまわり(向日葵)の絵があったなあ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月10日 (金)

社会の脆弱さ

現代日本は犯罪多発社会であるように思う。ウィルスは人間関係を通して伝染している。日々出会う人たちとの、ささやかな関係を通して、ウィルスの猛威を食い止めなければと痛感する日々である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カント先生???

カントの著述に「人類の歴史の憶測的起源」という作品がある。こんな記述がある。

「当初この新来の人類夫婦をもっぱら指導せねばならなかったのは、やはり本能-即ちあらゆる動物が聴従しているこの神の声であった」
「とはいえ、こうしてひとたび自由を味わってしまった状態から、(本能に支配される)隷従の状態に帰ることは、今となってはもう出来ない相談であった」

要するに、エデンの園においては、人類は本能の支配下にあったが、罪を犯し、園を追放されて、園に帰ることは出来なくなった、という創世記の記述を説明しているのである。

そこで問題なのは、園の中では人類はただ、本能の支配下にあったのもであろうか、という点である。本能の機能はあったであろうが、自由選択の機能もあったのではないか。でなければ、罪の選択そのものが不可能ではないか。

人類の歴史は、確かにエデンの園の追放のあとから、ある意味で始まったといえるかも知れない。そこで肯定すべきものと否定すべきものを、しっかり見据える必要があると思う。

罪の結果、人類はどうなったのか。カント先生は、こう言うのである。

「こうして人間は、一切の理性的存在者と-その地位の高下は問うところではない、-同等のものとなった。つまり彼は、自己そのものが目的であり、何人からもかかるものとして尊重せられまた何人によっても他の目的の為の手段として使用せられないという要求に関して、あらゆる理性的存在者と同等になったのである」

これは人間における価値の宣言のようにも思えるのだが、「人神」の誕生を示すものでもないだろうか。人は確かに目的であるが、同時に手段でもあると思う。目的だけではないと思う。

結論として、こう言っている。

「人間が、理性により人類の最初の居所として指示されたところに楽園から出ていったということは、単なる動物的被造物としての未開状態を離脱して人間性へ、本能のあんよ車を棄てて理性の指導へ、約言すれば自然の後見を脱して自由の状態へ移行したことにほかならない-これが人類の最初の歴史に対する如上の解釈の要旨である」

人類を進化論的見地から見れば、楽園追放は、むしろ肯定されるのだろう。そこで人は理性的存在者となったというが、原罪賛美のような意味に受け取る人がいるかも知れない。しかし、単に肯定だけではなく、否定される部分も、そこにはあった。それが「神人」の到来であり、楽園復帰への準備であった。

人類の歴史は、「人神」と「神人」の対立・抗争の歴史である、といったのはアウグスチヌスであった。「人神」の歴史を賛美してばかりはいられないのである。

原罪と楽園追放、それは現代人にとって、どういう意味なのか、解釈は深められなければならないと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 8日 (水)

三保の松原から富士山を眺めたことがある。空の中に富士山が浮かんでいるようで、びっくりした。ここにも日本の美があるように感じた。

日本の美には多くの人が気づいているのだろう。自然の中に美を感じる人は多い。しかし、生活の中に、そういう美を少しでも取り入れるようにしたら、どうだろうか。生活空間、そして生き方に美意識を取り入れたい。

美意識は大切にしたい。その感動は、一体、何をわれわれに語ろうとしているのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子心

ペスタロッチは『隠者の夕暮』(福島政雄著)の中で、子心について語っている。
「子心と従順とは、完成せられたる教育の結果や後の産物ではなく、人類教育の早き最初の基礎でなければならぬ」
子心とは、よく分からない言葉であるが、こうも言っている。
「すべての小さき才能を真面目に経済的に使用すること、自己の諸の力を強めようという渇望、これらは如何に弱きものにおいても如何に低きものにおいても子心の傾向である」
子心とは何か。
「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5・3)というが、その心の貧しさであろうか。学習しようとする心、向上心、そんなものであろうか。あるいは、「もったいない」という心であろうか。教育の前提としての心構えのことであろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

プライバシー

個人情報の漏洩で、プライバシーに関心を持った。プライバシーとは何か。

アダムの罪の結果、何が起きたのか。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3・7)とある。ここにプライバシーの原点があるようにも思うが、違うかも知れないとも思う。

目が開けた、というのは、よいことではないのか。カントは啓蒙主義提唱の中で、そんな解釈をしている。しかし、罪は悪だ、という原点に戻った解釈を探すべきではないだろうか。罪の結果としての「プライバシー」は、神に問われるのである。そして、このような問いと、その結果としての行為を、われわれは是認しているのである。

プライバシーは尊重されるべきである。個人が平穏に生活する権利は尊重されるべきである。しかし、個人が社会生活の中で法的関係を維持できない時、個人のプライバシーの尊重が破られることがある。

個人に異常事態が観察される時、より異常にならないために、正常であれば犯罪とされる行為もしなければならなくなる。

病人のために外科手術をする時、その人が病人でなければ外科医の行為は傷害罪である。しかし、病人であれば、逆に外科手術をしない方が罪となるようなものである。

個人は健全な状態であるばかりではない。身体的に、また経済的に病人となったり、家計破綻状態になったりする。こんことは、決して珍しいことではない。その時、われわれは、個人のプライバシーの中に入っていかなくてはならなくなる。それは犯罪ではない。逆に、それを行わないことの方が犯罪となる可能性がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 7日 (火)

閉じこもり

閉じこもり 断食に似た 一念さ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ニートさん

ニートさん 我が苦しみを 知るあなた

| | コメント (0) | トラックバック (0)

愛と執着

キリスト教では「神は愛」というが、仏教では、愛は執着の意味で、高い価値を担うものではない。しかし、聖書でも、愛に高い価値と共に、執着的意味を認めている。

「金銭を愛することは、すべての悪の根である」(テモテ第一・6・10)とある。別の最近の聖書では「金銭の欲は、すべての悪の根です」とある。愛が欲に変わっていて、執着の意味が、より明らかになっている。

しかし、愛の言葉が使われている場合もある。最近の聖書でも、「世も世にあるものも、愛してはいけません」(ヨハネの手紙第一・2・15)と書かれている。ここでは愛が執着の意味で使われている。

だから、仏教が愛を執着の意味で理解するのも間違いではない。聖書でも、その意味で使われているのだ。

では、神の愛は何か。超越による統合への志向性というべきだろうか。執着には超越もなければ、統合への志向性もない。統合への志向性は超越を媒介にするからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

憎しみ

人は権利侵害されたということで、他人に憎しみを感じることがある。しかし、神には人によって権利を侵害されることはないであろう。神は人ではないから、失うものはないのである。であれば、神は、人に対して憎しみを感じないのかもしれない。

人は自分に降りかかった災難に対して、何かの罰かも知れないと思うことがある。神の憎しみによるものかも知れないと思うことで、その憎しみの思いをなだめるために、古来、宗教儀式があった。しかし、神は人を憎む理由がないのであれば、その思いが原因ではないのであろう。人の人生で災難をこうむるのは、矯正的理由、教育的理由によるのだろうか。

人の成長は、神に向かって伸びていくことである。しかし、伸びていこうという彼方に、人格的な憎しみを感じるとすれば、伸びていくことができない。しかし、神は人を憎んではいないのである。災難を受けても、安心して、神に向かって伸びていくことが許されているのである。こういうことを子どもたちに教えないで、教育はできないと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

遊び心

人生で大切なことは遊び心かも知れない。それは気晴らしではない。最近は、ゲームが人気商品になっているが、それは気晴らしのためである。脳力訓練などのゲームもあるが、遊び心を生み出すものではない。

遊び心とは、色即是空と空即是色の両方を真理と認めることによる、それからの超越のことである。ライブドアの展開は、そのきっかけとなるであろう。栄枯盛衰が真理である。両方の要素を認めるためには、両方から超越する以外に道はないのである。そこに遊び心が生まれる。人生は遊びなのである。

喜怒哀楽という枠に閉じ込められた人生は、強烈な訴えを持っている。人に共感を与える。しかし、そこに遊び心はない。富にも貧にも処するためには、遊び心が必要である。人生の達観とは、この遊び心のことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

憎しみについて

人間は他者に対して、時に憎しみという感情を抱くものである。それは自分の権利が、その他者によって侵されたからである。この主観的正義の感情が客観的正義の法の中で発露されるのであれば、問題ないが、時に、正義の法を顧みることなく行為に転化され、他者に害を及ぼすこともある。こうて犯罪が起きるのである。犯罪には理由がある。

犯罪の理由は認めよう。しかし、その時、犯罪を犯さない選択も可能なのである。それは主観的正義の感情を抑圧してしまうことである。恐らく、一般的には不可能なのである。それでも、そんな感情を抑圧する時、祈りが生まれる。真剣な祈りが生まれる。祈れる人になれるのではないだろうか。それは、それで益なのではないだろうか。

日本の平和憲法は、専守防衛の権利のみ認めているとされているが、それさえ認めていないという論者もいる。攻撃された時、自衛権はないのか。戦争はしない、というのだから、攻撃されるままになる。戦争になったら負けろというのである。しかし、これではたまらないのである。だから、憲法改正ということになり、そんな議論が強くなっている。それは祈るという方法がないからであろう。しかし、祈りの道を、この憲法は想定しているのではないだろうか。ところが、日本国民は祈りの道を知らない。だから、反撃、復讐を権利として認めてもらいたいのだ。平和憲法を生かすには、何かが必要なのだ。日米同盟は、もちろん憲法の指し示す道ではない。

平和憲法とは律法のようなものだ。国民に無能の自覚を促すという意味において。

聖書は「絶えず祈れ」と勧める。不正を働かれた時には祈る課題が出来たということであり、祈る条件が出来たということであり、新しい経験を待望できる時が来たということである。不正をこうむるということは、出来たら避けたいのだが、同時に貴重な機会とする道も開かれていると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 6日 (月)

教育の自発性

ヒルティは『悩みと光』の中で、こんな教育観を語っている。
「ほんとうの教育の主要部分は、私たちが常に自分自身でやるよりほかはないのである」
画一的教育ではなくて、興味や好奇心、遊び心を中心にして、自分で自発的に行う教育こそ、本当の教育である。そう思うのである。
そこで、大切なのは、理解の根拠としての、何ものかであろう。体験といってもいいかと思う。同書で、こうも言っている。
「自分自身の内的な経験がともなわなければ、すべての宗教的読み物は説得力を持たない」
何か、超越的体験をした人は、その理解を求めなければならない。その中で、宗教的書物は読まれるべきであろう。その時、それらは意味あるものとなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

捨てる

捨てるなら 心豊かに 暮らせるが
 貧に近づく 恐れに負けて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

市川森一さん

脚本家の市川森一さんが洗礼を受けたクリスチャンなのだと、ご自身で語られていた。母はカトリックだが、ご自身はプロテスタントの洗礼を受けたという。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年3月 5日 (日)

宗教儀式とは

宗教儀式とは、見えない神の働きを、見えるようにしたものである。それを通して、見えない神の働きにあずかれるようにしたものである。

しかし、宗教体験というものは、宗教儀式を媒介にしないでも、ありうるものである。それを認めるのであれば、宗教体験というものを宗教儀式の中に閉じ込めてしまうことはできない。この一点の理解があれば、宗教儀式は意味あるものとなるであろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

中世の構成

西洋中世は三つの要素から構成されているのだと思う。ヘブライ、ギリシャ、ローマである。ヘブライでは宗教(信仰)、ギリシャでは哲学(理性)、ローマでは法律(統治)である。
思想的にはヘブライとギリシャの「融合」と考えられるが、それにローマ的要素を加えなければならない。カトリック教会の中に、その要素が見えると思う。もちろん、融合という言葉はあいまいな言い方である。もっと厳密に言わなければならないだろう。だからカッコをつけた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

回心

回心の研究にとって、ウイリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』は貴重な資料である。日本人の研究書もある。しかし、続く本が見当たらないので、さびしい。宗教経験の研究書が欲しい。

回心の意味は、広辞苑では、こういうことである。

「過去の罪の意志や生活を悔い改めて神の正しい信仰へ心を向けること。なお一般に、同様の宗教的体験をいう」

この言葉は宗派によって違う意味で使われているようだ。カトリック教会では、前者の意味、悔い改めの意味で使われているかも知れない。心の向きを変えるという意味である。それは人の側の心の持ち方である。それに神の働きが伴うことは当然、知っているのだろうが、その点を余り強調しない。信徒に対して、回心が繰り返し求められているのは、聖化の意味で使われているのかも知れない。悔い改めの生涯という意味で回心という言葉が使われているように思う。
一方、プロテスタントでもリバイバルを重視する人たちは、新生経験に結び付けて考えている。広辞苑での、後者の意味である。神の直接的働きを強調するのである。新生は洗礼と関係しているので、その意味では回心の繰り返しはないのである。

同じ言葉でも、宗派によっては意味するところが違っている。よく考える必要がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 4日 (土)

無名なる有名者

神は存在者ではない。存在者にはみな名がある。その意味では神には名がない。3次元の存在者の世界では、神は無名ともいえる。
しかし、存在者が依存する存在が神である。従って、神は、すべての存在者に関係している。神を否定する人たちも、探求の心を持っていれば、そこに神は現れてくる。その意味では、神は最も有名である。
かくして、神は無名であると共に有名である。無名なる有名者である。3次元には、「燃える柴」の不思議さに心を奪われたモーセの後継者たちがあとを絶たない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 3日 (金)

歌の役割

「あゝ、モンテンルパの夜は更けて」という曲は知っていたが、この曲のエピソードを、室町アンカーから初めて教えてもらった。フィリピン・モンテンルパ収容所の日本人戦犯が、手紙を渡辺はま子さんに送り、その中に楽譜が入っていたという。その曲を、渡辺さんが収容所慰問で歌い、渡辺さんたちのフィリピン政府への嘆願で、囚人たち全員が釈放されたのだという。涙を流して聞いた。歌詞の中に、囚人たちの思いが込められていた。

深夜便を聞いて、涙を流す。そんなことで、日本の浄化が進んでいく。高齢者たちの役割である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育の限界

教育はニヒリズムの克服を目的とはしていない。そこに教育の限界がある。ニヒリズムの克服を目的としているのは宗教である。従って、宗教が教育に優先する。宗教教育が一般教育に優先する。しかし日本では、宗教教育がどこにもない。子どもたちが、これでは自分たちは生きていけないと悲鳴をあげている。当然のことである。そして、教育の問題を論じているのである。うまくいくわけがない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年3月 2日 (木)

牧師

プロテスタントの聖職者のことを牧師という。その言葉は近世において初めて登場する。プロテスタント信仰の教師であるアウグスチヌスは牧師ではなかった。司教であった。
キリスト教の歴史は16世紀から始まるのではない。名称も初代教会からの連続の中で考える方が単純で、分かりやすいのではないかと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

困った人たち

困った人たちにも、その困っている要素が別の面では長所になるのではないだろうか。それを評価して、有益なことに伸ばすことが出来ないだろうか。その人のために、また被害を受けている周囲の人たちのために。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

生活

朝寝坊 休みの日なり あと5分

根なし草 大地を変わる しんどさよ

人は皆 表現者なり 誰もかも

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月 1日 (水)

宗教儀式

宗教儀式が宗教の本質に根ざしているということは、その通りであろう。しかし、それが宗教の本質そのものとは言えないかも知れない。もし、そうであれば、儀式は魔術になってしまうであろう。と言って、単なる形式でもない。ということで、宗教儀式に関しては考察を要するのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

あいさつ励行

あいさつは大切である。「私はあなたにとって無害な人間なんですよ」、そんな意味があいさつに込められているということを、どこかで知った。あいさつ一つで、人間関係が変わるのである。ストレスがなくなるのである。これは無視できないことである。

日常生活で、ともすれば人間関係でストレスをためてしまうことがある。それらは共に精神的負担である。なんとかならないだろうか。日常生活の中での、ちょっとした作法を使えばいいのだ。生活の中で、相手に好意を伝えるためのささやかな作法、そういうものを大切にしたいのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

課題

近世は中世の「誤解」から始まったが、その過程で疑問が百出した。問答無用的姿勢ではなくて、それらの疑問の一つ一つにていねいに、誠実に答えることが新しい中世の課題である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

宗教の勧誘

宗教に勧誘されることがある。悪い気持ちはしないものである。自分を重んじてくれている、関心を持ってもらっている、そんな意識があるからである。
しかし、勧誘する側は、ともすればしゃべり過ぎる嫌いがあるかも知れない。宣伝しがちなのである。そして、勧誘される側の本当の関心を聴き逃しがちなのである。これが分かった時、それまでいい気分を味わっていた勧誘される側は、対話不能を感じてしまう。こうして、宗教の勧誘は失敗するのである。
宗教の勧誘で大切なのは、宣伝ではなくて、相手の真実の関心が何であるかを聴き取ることでなければならない。そこから始めねばならない。
宗教の勧誘とは、ある意味で、より強い人間関係へと招くことを意味する。孤独な人たち、さびしい人たちは、そんな勧誘に乗りがちである。しかし、自分の疑問をしっかり意識して、そこで宗教を判断しなければいけないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本という国

われわれが住んでいる日本という国は、どんな国なんだろう。神道の国なんだろうか。象徴天皇制があるので、そういうことも可能かも知れない。仏教の国なんだろうか。仏教の歴史が古く、その勢力が強いので、そう言ってもいいのかも知れない。イスラム教徒は少ないから、イスラム教国とはいわない。キリスト教徒は人口の1%くらいはいるけれど、キリスト教国とも言わない。
であれば、神道と仏教の知識がなければ、この国には住みづらいかもしれない。それらは何かを語っているのである。その何かは、どんな宗教信者にとっても、傾聴に値するものなのである。そして、解釈によって、自分の価値体系の中にとりいれなければならないのだ。そのための本はたくさん出ている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

出版の理由

多くの人たちが本を書き、出版する。なぜなんだろう。ドストエフスキーは生活に困窮して、本を書いたという。出隆(いで・たかし)氏は、もう少し、まじめな理由があったらしい。こう言っている。
「恥づかしいものをなおも世にさらけ出すを恥じるが、併し恥じてはいられない。『あの子』は私より先に進んだ。そうした人々にはこの書は無用である。併しあの子ほどにも私ほどにも進んでいない『多くの他の子』がのこっていようから、出さないわけにもゆかない」(『哲学以前』)
最初の部分の抵抗で、表現できない人も多いのではないだろうか。後半部分の理由で、それに勝てる人がいるのだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2006年2月 | トップページ | 2006年4月 »