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2006年3月 7日 (火)

愛と執着

キリスト教では「神は愛」というが、仏教では、愛は執着の意味で、高い価値を担うものではない。しかし、聖書でも、愛に高い価値と共に、執着的意味を認めている。

「金銭を愛することは、すべての悪の根である」(テモテ第一・6・10)とある。別の最近の聖書では「金銭の欲は、すべての悪の根です」とある。愛が欲に変わっていて、執着の意味が、より明らかになっている。

しかし、愛の言葉が使われている場合もある。最近の聖書でも、「世も世にあるものも、愛してはいけません」(ヨハネの手紙第一・2・15)と書かれている。ここでは愛が執着の意味で使われている。

だから、仏教が愛を執着の意味で理解するのも間違いではない。聖書でも、その意味で使われているのだ。

では、神の愛は何か。超越による統合への志向性というべきだろうか。執着には超越もなければ、統合への志向性もない。統合への志向性は超越を媒介にするからである。

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