« 教育の自発性 | トップページ | 遊び心 »

2006年3月 7日 (火)

憎しみについて

人間は他者に対して、時に憎しみという感情を抱くものである。それは自分の権利が、その他者によって侵されたからである。この主観的正義の感情が客観的正義の法の中で発露されるのであれば、問題ないが、時に、正義の法を顧みることなく行為に転化され、他者に害を及ぼすこともある。こうて犯罪が起きるのである。犯罪には理由がある。

犯罪の理由は認めよう。しかし、その時、犯罪を犯さない選択も可能なのである。それは主観的正義の感情を抑圧してしまうことである。恐らく、一般的には不可能なのである。それでも、そんな感情を抑圧する時、祈りが生まれる。真剣な祈りが生まれる。祈れる人になれるのではないだろうか。それは、それで益なのではないだろうか。

日本の平和憲法は、専守防衛の権利のみ認めているとされているが、それさえ認めていないという論者もいる。攻撃された時、自衛権はないのか。戦争はしない、というのだから、攻撃されるままになる。戦争になったら負けろというのである。しかし、これではたまらないのである。だから、憲法改正ということになり、そんな議論が強くなっている。それは祈るという方法がないからであろう。しかし、祈りの道を、この憲法は想定しているのではないだろうか。ところが、日本国民は祈りの道を知らない。だから、反撃、復讐を権利として認めてもらいたいのだ。平和憲法を生かすには、何かが必要なのだ。日米同盟は、もちろん憲法の指し示す道ではない。

平和憲法とは律法のようなものだ。国民に無能の自覚を促すという意味において。

聖書は「絶えず祈れ」と勧める。不正を働かれた時には祈る課題が出来たということであり、祈る条件が出来たということであり、新しい経験を待望できる時が来たということである。不正をこうむるということは、出来たら避けたいのだが、同時に貴重な機会とする道も開かれていると思う。

|

« 教育の自発性 | トップページ | 遊び心 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104898/8978857

この記事へのトラックバック一覧です: 憎しみについて:

« 教育の自発性 | トップページ | 遊び心 »