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2006年3月29日 (水)

洋魂和才

西洋文明との出合いが近代日本の扉を開いた。その時、日本の西洋導入のキーワードが和魂洋才であった。魂は売らないが、科学技術は積極的に導入するというもの。しかし、もちろん、魂にも西洋への憧れがあったのだ。こうして、近代日本は発展していった。それは、あの戦争で終焉を見た。そして、新しき中世である。これは日本においても意味のある時代解釈であり、そのための文化創造手段を持たなければならないのである。
今。和魂洋才の時代は終わったのだろう。新しいキーワードは何か。それは洋魂和才である。洋魂とは、西洋の魂に同化することではない。その魂を理解できる場所に立つことを意味する。そして、和才である。それは日本形式という意味である。文化の形式という意味である。
キリスト教の日本導入は成功しているとはいえない。それはあの16世紀においては、洋魂洋才を導入しようとしたからである。導入した地域は西洋の植民地になった。日本は拒否して、その道に入らなかった。近代日本は確かにキリスト教に門戸を開いた。そしてある程度、成功した。それは伝えられたキリスト教がプロテスタントであって、かつてのカトリックのような背後に巨大な権力がなかったからだ。その分、和才的な余地があったからである。これは真剣な検討に値することであろうと思う。
今。洋魂和才においてのキリスト教宣教の可能性を考えるべき時である。和才とは日本文化の形式である。もちろん、その和才においては、和魂が語られてきた。そして、和才は和魂と結びついて、和魂なき和才は拒否されるかも知れない。しかし、和才とは、容器なのである。形式なのである。そこに何を盛るかは、時代によって変化してかまわないのではないだろうか。
近代日本では和魂洋才であったが、今、ポストモダン、新しき中世の時代にあっては、洋魂和才で切り開いていかねばならない。

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