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2006年3月14日 (火)

前人未踏の領域

人間の認識には対象がなければならない。対象がないところでは認識は成立しない。その対象をとらえるのは、主に五感であり、視覚・聴覚である。こうして、絵画・音楽が生まれた。共に美を求め、その価値による共感で成り立っている。

正岡子規は俳句で写生を重視した。純客観世界の描写であろう。しかし、認識は客観と主観の響きあいではないだろうか。客観をとらえる主観の価値観の共鳴の中で歌の価値も自然と定まるのではないだろうか。主観の価値観の共鳴作用がないところでは、その歌は、聞く人には、分からない歌なのである。

自然は客観である。自然の美は歌の対象である。そんなことで、日本人の美的伝統は長い歴史を持っている。しかし、その自然は外的自然である。ということは、別に内的自然というものもあるということである。それを表現する和歌・俳句の歴史は、日本には余りみられなかったのではないだろうか。

クエーカーの日記は、日本人の知らない内的自然の表明である。ウェスレーにも日記があった。宗教経験というものは、外的自然ではなくて、内的自然である。そして、それも認識に対象なのである。であれば、表現できるはずである。日本人の和歌・俳句の伝統の中でも、表現できるはずである。この試みは、前人未踏の試みである。なぜなら、日本人の歴史には、そのような内容がなかったからである。ベンチャーとか、チャレンジャーとかは、この領域で待望されている。

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