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2006年3月10日 (金)

カント先生???

カントの著述に「人類の歴史の憶測的起源」という作品がある。こんな記述がある。

「当初この新来の人類夫婦をもっぱら指導せねばならなかったのは、やはり本能-即ちあらゆる動物が聴従しているこの神の声であった」
「とはいえ、こうしてひとたび自由を味わってしまった状態から、(本能に支配される)隷従の状態に帰ることは、今となってはもう出来ない相談であった」

要するに、エデンの園においては、人類は本能の支配下にあったが、罪を犯し、園を追放されて、園に帰ることは出来なくなった、という創世記の記述を説明しているのである。

そこで問題なのは、園の中では人類はただ、本能の支配下にあったのもであろうか、という点である。本能の機能はあったであろうが、自由選択の機能もあったのではないか。でなければ、罪の選択そのものが不可能ではないか。

人類の歴史は、確かにエデンの園の追放のあとから、ある意味で始まったといえるかも知れない。そこで肯定すべきものと否定すべきものを、しっかり見据える必要があると思う。

罪の結果、人類はどうなったのか。カント先生は、こう言うのである。

「こうして人間は、一切の理性的存在者と-その地位の高下は問うところではない、-同等のものとなった。つまり彼は、自己そのものが目的であり、何人からもかかるものとして尊重せられまた何人によっても他の目的の為の手段として使用せられないという要求に関して、あらゆる理性的存在者と同等になったのである」

これは人間における価値の宣言のようにも思えるのだが、「人神」の誕生を示すものでもないだろうか。人は確かに目的であるが、同時に手段でもあると思う。目的だけではないと思う。

結論として、こう言っている。

「人間が、理性により人類の最初の居所として指示されたところに楽園から出ていったということは、単なる動物的被造物としての未開状態を離脱して人間性へ、本能のあんよ車を棄てて理性の指導へ、約言すれば自然の後見を脱して自由の状態へ移行したことにほかならない-これが人類の最初の歴史に対する如上の解釈の要旨である」

人類を進化論的見地から見れば、楽園追放は、むしろ肯定されるのだろう。そこで人は理性的存在者となったというが、原罪賛美のような意味に受け取る人がいるかも知れない。しかし、単に肯定だけではなく、否定される部分も、そこにはあった。それが「神人」の到来であり、楽園復帰への準備であった。

人類の歴史は、「人神」と「神人」の対立・抗争の歴史である、といったのはアウグスチヌスであった。「人神」の歴史を賛美してばかりはいられないのである。

原罪と楽園追放、それは現代人にとって、どういう意味なのか、解釈は深められなければならないと思う。

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