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2006年5月31日 (水)

物自体

物自体 現象界と 別にある
 恵みの意識 感性なのか

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神の経験

カント哲学の話を聞いていて、この哲学の中では「神の経験」は成り立つのだろうか、と思った。経験は、感性と悟性との二つの協同で成り立つというが、感性の対象は3次元の存在者である。しかし、3次元の存在者は被造物であり、創造者である神は3次元の存在者ではない。であれば、神の経験というものは人間には成り立たないのではないだろうか。

五感を超えた感覚、それはあるだろうと思う。聖霊降臨、それは五感の感覚ではないだろうが、聖書は起きたこと、受けた人が変わったことを記している。こういうことは、カント哲学では経験とは言わないのかも知れないが、では、何と言うのだろうか。

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他人の空似

目を見たら 村上さんと 思ったが
 欽ちゃんだった よく似ているよ

新聞で、萩本欽一さんの顔のアップが掲載されていた。目を見て、最近マスコミによく出てくる村上ファンドの村上さんかと思ったが、欽ちゃんだった。

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2006年5月30日 (火)

ラジオの魅力

ながら族 テレビ時代に ラジオ聴く
 高い教養 感動の日々

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都会人

都会人 地縁血縁 無関係
 隣は何を する人だろう

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癒し

目が笑う いや包むかな 店員の
 無意識しぐさ モーツアルトよ

店員というのは、コーヒー店・ドトールの女店員のことであります。ちょっとしたしぐさに癒されることがあり、歓迎される店員の資質を思いました。

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思い出

笑みにおう 思い出があり 時に来て
 それにつながり 悔いることなし

人生は、どこかで始末をつけなければならない。その時、現在を導いた人間関係における印象を肯定する以外にないと思います。肯定できる要素の回想は大切なことではないでしょうか。

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自己実現

自己実現は生涯の課題であるが、生涯のどこかで現在完了になってしまう時点があるように思う。その時、その前後で、自己実現の課題は、どう変わるのだろうか。
フランクルが『夜と霧』の中で、コペルニクス的転回という言葉で、意味探求の人生の視点転回を語っているようだが、そのことを語っているのだろうか。

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2006年5月29日 (月)

ドイツ観念論

放送大学で、カントと理神論との類似、ヘーゲルと汎神論との類似について指摘されていた。そして、シュライエルマッハーの立場を有神論として、カント、ヘーゲルとは違うキリスト教の立場として評価されていた。
バルトはシュライエルマッハーの批判で知られていて、それを鵜呑みにすると、あるいはシュライエルマッハーの一面的理解に堕するのであろうか。カント、ヘーゲルの「影」については、よく覚えておこう。
それにしても、ドイツ観念論というのは、近世におけるキリスト教哲学である。そして、中世哲学もキリスト教哲学である。前者は潜在的、後者は顕在的の違いといえようか。中世哲学とドイツ観念論との比較があれば、面白いと思うのだが。

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教育と宗教

超越体験とか超越価値というものは宗教に属するもので、教育とは人間の自然的な内的価値の発展を志向するものである。そういう言い方は、一応は妥当すると思うけれど、そう単純ではない。教育、生涯教育という試みの中では、超越的価値も取り込まれているのが普通だと思う。それは逆に言えば、超越的体験・価値に安住している宗教の側に、その価値の崩壊を招くような油断はないのだろうかという反省を迫ってもいるのである。
教育と宗教は、現代社会では、相互乗り入れしているように思う。自己実現、至高体験など、宗教的概念でもあり得る。ということは、宗教的真理は、宗教団体の伸び悩みをよそにして、今、世俗的な領域で、その探求の中で、よく知られているということである。

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教皇の祈り

かの地にて 手を合わす人 加害者の
 側に立ちたる 往時思えり

ドイツ人のローマ教皇がアウシュビッツ収容所跡を訪問したとのこと。

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棒と柳

棒は人の頭を叩くためにあるのではないが、人の頭を叩くことも出来る。しかし、棒は折れることがある。そうすると、棒は痛いし、威厳がなくなり、惨めに見える。そして人の頭を叩くことが出来なくなる。

逆に、柳の枝は威厳はないし、弱そうに見える。そして、人の頭を叩くことはできない。しかし、その枝は折れることがない。だから、痛みもない。

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2006年5月28日 (日)

放送大学

私は放送大学の学生ではありませんし、大学院で正規に学んでいる者でもありません。言ってみれば、もぐりの聴講生です。ただ、関心のある講義を聴いているのですが、本当に教えられるところが多いのです。こんな授業が、授業料を払わないで聴けるという幸せを感じています。本当に生きがいというものは、身近にところに横たわっています。それを発見するかしないか、その違いだけと思います。

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死神

死神は、死にきちんと向かい合っていない心に生まれるのではないだろうか。死神を退治したいなら、死にきちんと向かい合うこと、それが正しい対処の仕方ではないのだろうか。

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肉の糧 満ちてなお飢え 覚ゆなり
 新たな糧を いずこに求む

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2006年5月27日 (土)

ホスピスの心

ホスピスの 心広げて 老い楽し
 深夜便には 大いに期待

ホスピスには死を忌避するのではなくて、それを見据えて、その中で残りの人生を考えるという発想があります。そんな発想を末期患者の中だけでなく、もっと広く紹介していけば、日本はもっと内容充実した国になると思います。そんな願いを満たしてくれるものとして、身近に番組としてはNHKラジオ深夜便にまさるものはないような気がしています。定年後、余生を生きている人たちにとって、この番組はかけがえのない宝物になっているのではないでしょうか。そんな気がしています。 

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2006年5月26日 (金)

岐路

希望なく 死を待つのみの 人がいて
 不条理胸に 手を差し伸べる

マザー・テレサの場合には、「不条理胸に」はなかったでしょう。しかし、イヴァン・カラマーゾフの誘惑は、ありえるでしょう。弁神論の世界が開けてきますけれど。

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生命の實相

一時期、生長の家から出ている『生命の實相』を夢中で読んだことがある。著者の谷口雅春氏の語り口に魅力を感じたことがあった。学ぶべき何かが、ここにあると思ったし、今でも、その思いは残っている。
谷口氏は、キリスト教も取り込んでいた。内容では、クリスチャン・サイエンスの主張に似ていると思った。日本では、この米国のキリスト教教派には触れる機会が余りないし、本も余り出ていない。それでも何冊か読んだが、余りよく分からなかった。
生長の家では、神想観という修行を実践している。スポーツ選手では一般化しているイメージ・トレーニングの要素も含まれている。信仰の維持・成長のための方法であるが、大切なこと、必要なことと思う。日々の生活の中で、個人的・宗教的実践を取り入れることが大切である。

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対話

対話の場に出て行くということは、自分の個別性が普遍性に耐えられるという自信がなければならない。北朝鮮の個別性は米国が保障して安全といったものではない。米国に、そんなことができるわけがない。北朝鮮は、自分の正義をどのようにして国際社会という普遍性の場でアピールできるのか、それがカギなのである。それがあれば、それが北朝鮮を守るであろう。それが問われているような気がする。

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2006年5月25日 (木)

瞑想

瞑想、あるいは観想というものは信の中での修行のように思う。その時、導入の入り口に感性的事物が必要となる。それが芸術作品なのかも知れない。正教会ではイコンも、そんな役割を持つのだろう。

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奇跡

奇跡が歴史的事実とは思わなくてもよいのではないだろうか。しかし、そのような記述が無意味ということではない。そのような記述を通して伝えたかったことがあるのだ。その伝えたかったことを理解すれば、よいのではないだろうか。同時に、奇跡は、意識の中に鮮明な印象を残す。その印象は想起を容易にする。奇跡の想起、それが瞑想なのではないだろうか。

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核家族化

核家族 負のイメージは 無用なり
 都市化分業 新たな絆

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ドイツ観念論

哲学史の弁証法的発展史を考えた時、古代ギリシャ哲学(正)とヘブライ思想(反)の止揚としての中世哲学(合)があり、そこで一応の終わりをとげた。しかし、中世思想(正)が分解して、ドイツ観念論(反)が起きて、新たな止揚を求めているのではないだろうか。そこに新中世の哲学がある。

もちろん、ドイツ観念論はカント(正)から始まり、諸思想家の(反)思想があり、ヘーゲル思想でドイツ観念論としての止揚(合)に至ったとも言えるかも知れない。

そう考えてくると、新中世を志向するためには、ドイツ観念論の中を通らなければならないのである。ドイツ観念論の中を通らない新中世志向は一種の反動である。

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徒然

諦観
人の死は どうしようもない 神の域

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2006年5月24日 (水)

退屈人生

想像で 無限の間 行き交えば
 退屈去りて 冒険に満つ

無限の間とは、無限小と無限大の空間の間であると共に、無限過去と無限未来の時間の間。意識の移動によって、人は素晴らしい旅が出来ますね。

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フォイエルバッハ

5月23日、放送大学で、「フォイエルバッハによる神学の人間学化」という講義があった。面白かった。ヘーゲル左派のフォイエルバッハはヘーゲルからマルクスへの過渡的立場にあり、特に無神論者というレッテルで紹介されていて、批判的な先入見があった。しかし、ベルジャーエフは、どこかで、フォイエルバッハを肯定的に評価する言葉を残していた。なぜ、という思いが残ったが、放送大学の講義を聞いていて、少し分かったように思った。フォイエルバッハによるキリスト教批判には正解の部分があるように思うのである。全部を正解というのではないけれど、レッテルを貼って、一顧だにしないという態度は、自分の損になるだけのように思う。
共産主義者はフォイエルバッハを肯定的に見て、キリスト教徒は逆に否定的に見るかも知れないが、フォイエルバッハ自身は両者に対話を可能にするような内容を持っているように思うのである。
それにしても、このような講義を通して、キリスト教の本質が堂々と語られているのが、現代日本の現実である。福音は教会を通して語られるばかりではなく、大学の授業を通しても語られている。

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2006年5月23日 (火)

ニート?

ある時期の 釈迦もダルマも ニートだね
 ただ違うのは 願いの質か

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見出し文化

見出しのみ それでいいんだ 現代は
 全部読んだら 時間が足りぬ

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時間

不安定 胸ドキドキの 時避けて
 時間が長く 感じられるよ

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愛国心

愛国心を教えるということは、学校教育の課題というよりも芸術家の課題なのではないだろうか。美学の出番ということである。美を感じて、よい感情を持つ、愛とはそんなものであろう。愛国心とは、国という美を内包する芸術作品で教えられるものではないのだろうか。教科書で教えられるものではないような気がする。

古事記、日本書紀を読んだことはない。昔は教えられたようだ。日本の神話は、歴史的事実ではないかも知れない。だから、間違ったことを公教育では教えられないということかも知れない。しかし、もちろん問題は別のところにある。戦前回帰を避けるという意味で。それと同時に、別の問題もあるのである。

古事記、日本書紀は、日本人にどういう意味があるのだろうか。それが分からないのである。神話でもいい。それが意味という点で、日本人の自己理解を深化させてくれるのであれば、日本人の自己実現にも資するはずである。この日本人の自己理解に、古事記、日本書紀がどう関わってくるのか、それが分からないのである。もちろん、教えてはくれている。しかし、それは何なんだろう。

聖書は神話かも知れない。しかし、それは人間の自己理解の役に立っている。啓蒙思想家たちが、聖書を利用する時、聖書の眼目は、本当は、そういうことを言うのではなく、別の問いもあるではないかと、疑問が出てくるだろう。その点について、啓蒙思想家も、聖書に訴えるのであれば、信仰への道しるべを作っているといえるかも知れない。

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2006年5月22日 (月)

主体性

主体性は自分史の回想の中から生まれるのだろう。自分史を徐々に日本史、世界史と交流させることで、日常生活の中で自己は強化される。システムの中に置かれた自分の客観的位置づけを常に検証し続ける中で、自分の方向性は見出されるのだろう。自分は、どういうシステムの中に置かれているのか、それを知らないでは、主体的に生きることはできないであろう。

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脳科学

脳科学 最先端の 科学だろ
 人間理解 ここに極まる

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2006年5月21日 (日)

自責

責めるなら 連鎖作るが なお残る
 身内の不幸 我に罪あり

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希望

希望聞く 卒業記念 文集で
 日々聞くことを 忘るべからず

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老人の務め

老人に 昔伝える 務めあり
 昔なければ 今もなき故

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作句

作句とは 自然と共に 生きるすべ
 探し求めて 旅に出るなり

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滅び

滅び時 やがて来るなら 兆候は
 日々の生き方 見れば分かるよ

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憂い

親憂う 自助なき子らの 行く末を
 生活のスキ 滅びの口なり

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ザビエル遺訓

城の内 イエズス会の 拠点あり
 まず王に行け ザビエル遺訓

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麹町

麹町 城の内なり 武家屋敷
 殺風景で 人情乏し

城とは江戸城のことです。

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東京発見

東京も 名所旧跡 多いとは
 おのぼりさんの 輝く目見て

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北の丸公園

北の丸 日曜午後の くつろぎに
 戦争準備 今は昔に

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ジョギング

皇居横 ジョギング列の 目的は
 汗出すことの 爽快さかな

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創立記念日

創立を 祝う企業に 美辞麗句
 歴史形成 深まりもせず

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国家目標

戦争の 防止のために 作られた
 平和憲法 連邦目指し

連邦とは世界連邦のことです。

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写生文

アニミズム 写生の本音 そこなのか
 自然を見つつ 神と交わる

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病人

連れ合いが 病人となり 我もまた
 病のうちを 生き始めたり

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2006年5月20日 (土)

ビジョン

声すなり 地を這う者よ 目を上げよ
 ビジョンを得よと 憐れみ声で

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発達障害

新生の 先ゆくおごり 哀れかな
 発達遅れ 障害という

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はらはらと 葉が落ちていく 我が生も
 いつか地上に 落ちて止まらん

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放送大学

放大で 師の声を聞く 懐かしさ
 中学生も はるか昨日に

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古風

ハガキはね 今では古風 ラジオもだ
 されど魅力を 見出す人も

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2006年5月19日 (金)

病人

臨床心理学の話を聞いていると、自分にも何らかの障害があると思わないわけにはいかない。そこで、自分は健康なのだという思いが、実は重大な錯覚なのだと考えた方が安全と思うようになった。自分が健康と思う人は、そう思うところに精神のスキができるように思う。恐らく、健康な人など一人もいないというのが事実である。自分が健康と思う人は、健康の尺度が、余りにもいい加減なのではないだろうか。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせめためである」(ルカ5・31-32)という言葉もある。

ここには病人と罪人という二つの言葉が書かれている。関係があるのだろう。内心の、誰も他人は知らない罪が、やがて病気をもたらすという因果関係は、やはりあるように思うのである。そして、病気は、その内心の罪に心を向けさせ、その罪の解決が病気の快癒をもたらすということもあるのではないだろうか。

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2006年5月18日 (木)

陽明学的

実存思想は、信仰義認の主体的生き方に親近感があるとすれば、プロテスタント的信仰、ルター的信仰に近い立場と思う。中世スコラ学に対するルターの信仰的生き方との対照が西洋思想の中で際立っているとすれば、その対照は東洋では、朱子学と陽明学との対照に対応する何かがあるような気がする。朱子学はスコラ学的であり、その中で陽明学は現実重視の観点を持ったのであるから。

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意味

生活の中に何か不都合なことが起きる。その時、感情が動揺し、なぜ、と問う。犯罪の連鎖が起きるかも知れないが、その中に陥らないためにも、客観的正義の中で行動を起こす。
しかし、なぜ、自分に、そんなことが起きたのだろうか。回答はない。しかし、問いは、ある。だから、回答を自分で作り上げる可能性はある。仮説として。そんな仮説を作る行為は大切なのだと思う。仮説が不都合になれば、捨てればいいのだから。そして、より適合するような新しい仮説に代えればいいのだから。そんな仮説が、人生の意味なのだと思う。
人生の意味は、向こうから開示されるのを待つ、という一面もある。しかし、自分で作り上げる一面もあるのではないだろうか。
そして、人間というものは、こういう仕方でなけれど生きられない動物なのではないだろうか。

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無意識の発見

無意識の発見者としてフロイトの名をあげるのが一般的と思うが、実は仏教の中では、それ以前にも無意識が知られていた。しかし、なぜ、それが一般化しなかったのだろうか。フロイトの場合は、臨床の治療に結びついていた。それが大切なポイントではなかったのだろうか。仏教にも、そのような試みがあったのかどうか、知らないのだけれど。

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聴くこと

聴くという字には、耳という言葉と、徳という字のつくりが含まれている。耳を通して徳を積むということか。何かを語っているように思う。

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2006年5月17日 (水)

カント

今のドイツには、そんなに魅力を感じないが、かつてのドイツは学問と芸術の国として光り輝いていた。近代哲学の潮流はドイツなくして語れない。フィヒテやシェリングなども、勉強すれば、興味を感じるだろう。ドイツ観念論の歴史の中で、なぜ、あんなにも多くの人材が輩出したのだろうか。

カントは個人として研究されるかも知れない。しかし、彼の業績、問題意識、問題提起などから、そのバリエーションがドイツという国に展開したのだとも言える。そんな観点からカントを見ることも出来るのではないだろうか。「カント展開」、その中でドイツの学問の歴史が築かれていったと見るなら、カントに対して新たな見方が生まれるだろう。

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カイン

聖書の創世記によれど、アダムとエバの息子にカインとアベルという兄弟がいた。カインは弟アベルを殺す。その罪の原因はなんだったか。父アダムと母エバによるアベル偏愛はなかったか。また、神の偏愛はなかったか。放送大学の講義で、そんな問いが語られた。もし、あれば、神は、その自分の偏愛による結果としての「罪」の意識化として、カインに「しるし」を与えたのだという。そんな話を、放送大学で、ある教師がしていた。

神の「罪」ということを考えたことはなかった。もちろん、神の正義への問いはある。全知全能という神の修飾語が誤解の原因かも知れない。
二重予定の神は勝手気ままな神にも思える。どうして正義の神、全知全能なのか。こんな問いのどこに解決があるのか。

神を対象化することは、肯定神学の神であれば、思弁的には可能である。しかし、そこで人の正義を立てても、恐らく生活が成り立たないという現実が現れてくるだろうと思う。

カイン物語は、どう解釈するのか、私は知らない。しかし、臨床心理が人間の問題を探求するのであれば、聖書も取り上げなければならない。福音は何も教会での説教でのみ伝えられてはいない。もちろん、放送大学では福音は語らない。その前提としての人間の真実を語ろうとしているのである。しかし、それは、聖書を題材とする限り福音を指し示している。

米国で、政教分離の観点から、公立学校での聖書の授業に反対する人たちの気持ちも分からないわけではない。人は神について考えざるを得ない。そして考えた時、信仰に進む人が現れてくる可能性がある。

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無常観

無常観の原点は、どこにあるのだろうか。仏教に限らず普遍的な人間心情と見れば、キリスト教的には、聖書の創世記に、アダムの楽園追放のさいの言葉、「塵にすぎないお前は塵に返る」の結果としての心理なのだろう。

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2006年5月16日 (火)

生活の風景化

同じ時 同じ人いる 生活の
 風景化だよ 会話なく

かつて「宗教の風景化」という言葉で現代宗教の無力化、あるいは特徴を表現した人がいました。今、生活も風景化しつつあることに気づきました。同じ時に同じ人に出会います。これは日常の風景です。

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ウルトラマン

時にはね 変身したい 人間は
 ウルトラマンは その願望か

強い人間になりたい変身願望は、誰の心の中にもあるのではないでしょうか。しかし、そんな願望の根拠を見つめて、そこにある不自然なものを取り除く時、自然・宇宙との調和が与えられ、真の変身願望が成就するのだと思います。

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2006年5月14日 (日)

創造主

大瀑布 おん父のもの 牧師言う
 信仰なれど 絆を知らず

木村清松牧師がナイアガラ瀑布を前にして、「これは、我が父のものである」と言ったそうです。有名な話。信仰的な発言ですが、意識の中にどんな具体的なものがあったのかと思います。

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朝鮮戦争

朝鮮戦争の原因は何であったのでしょうか。日本の平和憲法が、その引き金になったという観点はないのでしょうか。この戦争を契機にして、憲法における自衛権の容認、日米安保など、日本としても大きな転機を迎えたのではないでしょうか。朝鮮戦争は、朝鮮の問題だけではなく、日本の問題でもある、そんな視点が大切ではないでしょうか。拉致問題も、そんな流れの中でとらえるべきではないでしょうか。

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サムライ

サムライの 心残れど 見渡せば
 主(あるじ)いまさず 意識空転

明治維新の時に、そんな問題があり、島崎藤村の父の意識が空転しました。また、昭和20年の敗戦直後にも、そんな問題がありました。

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自殺

人間は 動物だけど 理性的
 自殺するのは 理性あるから

自殺者が年間3万人を越えています。社会問題になっています。動物は自殺しないといわれています。人間は動物なのですが、その部分では自殺できない、人間の自殺は「理性的」といわれる部分においてです。この部分を解明して欲しい、と自殺者たちは訴えているように思います。

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妄想

妄想か 正常なのか 分からない
 異常心理を 学ぶ信者ら

妄想の中には宗教妄想といわれるものもあるとか。フロイトは、宗教体験を精神分析的観点から説明し、余り評価しなかったとか。信者たちも、その観点を学ぶと参考になるかも知れません。ヤスパースは精神病理学専攻から哲学に転向しましたが、この二つの領域が今、大きな関心のまとになっているのかも知れません。

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2006年5月13日 (土)

夫婦

夫婦とは 二人で一人 さてどうか
 一人ひとりは 我(われ)を持つなり

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2006年5月12日 (金)

不幸

不幸とは そう思うこと 比較して
 比較なければ 不幸もない

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自分史

自分史は 創造のもと 回想で
 語る言葉は 尽きることなし

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子の不安

二人目の 子ども生まれて 喜ぶも
 親の愛情 不安も残る

子どもが生まれて、親の愛情が自分よりも、弟、妹に注がれ、自分は無視されるかも知れないという不安が先に生まれた子に残るという意味です。家族関係が複雑になるかも知れません。その複雑さは、心に残るかも知れません。

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青い鳥

青い鳥は遠くにいるのではなくて、身近にいる。これが、あの物語の結論だったが、人生の旅路の果てに気づく人も多いだろう。

生老病死が、人のマイナスの課題とすれば、「清く正しく美しく」という言葉は、プラスの課題かも知れない。「清く正しく美しく」なんて言葉は気恥ずかしくて使えないと思う人がいるかも知れないが、人生の理想として、ここに行き着く人もいるだろうと思う。普通は忘れいる、当たり前の単純な言葉だが、そこには広がりと深さがあることに気づく。

ジャーナリズムは価値逆転がニュースの本質であり、それを求めているという。犬が人に噛み付けばニュースではないが、人が犬に噛み付けばニュースだという。こうして、悪がニュースになる。しかし、善が社会の普通のあり方という前提で、それは言われている。だが、悪が普通の世にも思える。そこでは善が価値になる。面白みもないと思える、陳腐とも言える言葉が、新たな輝きを帯びて、人生の理想を教えてくれる。

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2006年5月10日 (水)

徒然

楽しみ
腹へった 食べる楽しみ 出すつらさ

何を出すのか、下痢だそうです。

無常
この世かい はかなきことよ 身にしみる

無常観がテーマだそうです。

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逃げの精神医学

精神科医の斎藤学氏が東京新聞5月10日号「本音のコラム」に「逃げの精神医学」という表題で書いておられる。

戸塚ヨットスクールの事件、最近の家庭内暴力青年を拘束して死なせた宿泊施設の事件など、難しい現代の問題を出して、「精神医学や臨床心理学が問題に有効に対処できずにいるどころか『逃げている』ことは間違いない」と言っておられる。

子どもの暴力に追い詰められている親たちは、精神科医や専門家たちに相談するが、彼らは「本人に治療動機づけが無ければどうしようもない」と言って、門前払いにするのだという。

たとえ本人が受診したとしても、クスリを出すだけの精神科医、「箱庭療法」しか知らない臨床心理療法家の手にはおえない、と斎藤氏はいう。

これは本人にのみ着目して、治療しようとしているのだが、環境、人間関係に問題はないのだろうか。そして、本人に近い人間関係の方を変えていくという仕方で迫ったらどうなのだろうか。

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自我磔殺

牧師言う 自我磔殺の 転機あり
 自我をなくして 我はいずこに

自我心理学、自己心理学というものがあるようです。自我磔殺の転機とは具体的には回心の時を指しているのでしょうが、心理学的知見とも重ねてみるとどうなのか、と思います。

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破滅型作家

破滅型 我が心との 共鳴が
 静かに癒す 病める心を

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面魂

三姉妹 面魂を プンプンと
 小篠綾子の 衣鉢を継いで

NHKテレビの「クローズアップ現代」で、デザイナー・故小篠綾子さんの特集を見ました。三人の姉妹が母の感想を語っていました。綾子さんの猛烈な生き方に驚くと共に、娘たちの面魂の並々ならぬを感じました。もちろん、実際にお会いしたことはないのですが、お会いしたら、か弱い私など圧倒されてしまうでしょう。お会いしたいとは思いませんけど。

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快適な目覚め

近くのスーパーで竹シーツを購入し、使い始めました。翌日から快適な目覚めがあり、驚きました。

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2006年5月 8日 (月)

中国の教会

中国に政府公認のカトリック教会がある。最近、バチカンとは独自に司教を任命し、その司教がバチカンから破門されたという。
英国教会も、そんな経緯、すなわち、お国の事情が優先して、ローマ・カトリック教会から離脱している。
だから、中国の政府公認カトリック教会は英国教会を見習えばいいのである。中国で、バチカン直属の教会は、中国政府の「権力」を思う時、無理のような感じがする。

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2006年5月 6日 (土)

癒し

分析と 告白比べ 似ているな
 意識化通し 癒し得られる

分析とは精神分析のこと、告白とは罪の告白のこと。

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2006年5月 5日 (金)

憲法論議

憲法の 9条論議 盛んだが
 世界連邦 話題にならず

日本の憲法は世界連邦を志向し、それを前提としていると、私は思いますが、その指摘は、憲法論議の中で、ないように思います。

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仏教の 空の教えの 根づく国
 否定神学 対話の相手

キリスト教の教えを、これまでの肯定神学的にではなく、否定神学的に展開していくこと、これが、日本という仏教的精神風土においては必要な選択ではないかと思います。

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新人

接客の 新人なれど ベテランの
 ごとき振る舞い 心地よきかな

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遊び

人生は 遊びなりけり 不真面目だ
 いや生きがいは 遊びに似てる

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生活美学

生活を 美しくせん 我が望み
 我見る人は 生活を見よ

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衝突

韓国で 機動隊との 衝突だ
 紛争当時 思い出すなあ

韓国で、米軍の基地再編反対で、機動隊との衝突の模様がテレビで紹介されました。激しいものです。大学紛争当時のことを思い出しました。

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直言

嫌いです ハッキリ言うが きついよね
 同居人だよ 言われた人は

同居人同士の場合、人間関係をどうすべきか、少し考える必要があります。当たり前なのです。自分の気持ちに正直なのはいいのですが、それだけではだめでしょう。

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2006年5月 4日 (木)

呼吸法

ヨガや禅で、呼吸法というものがある。健康法としても紹介されている。深呼吸がいいのだという。

生命維持のための無意識的な呼吸と共に、健康法としての意識的な呼吸も大切だ。その意味で語られている。

しかし、観点を変えて、別の意味で考えることも出来るのではないか。

呼は表現活動であり、吸は知識・情報の吸収活動である。この意味で考えれば、納得がいく。両方とも魂の呼吸である。表現活動は生き方でもある。生き方に気をつけること、それは魂の健康に気遣うことでもある。

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旅人

遠い道 とぼとぼ歩く 旅人に
 声をかければ 私の顔だ

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病気

病気にね なってはならぬ 言わないよ
 それは傲慢 耐え難いこと

プリモ言う ほったらかしと  老病死
 ほったらかしに してはいけない

老病死 ほったらかしに していれば
 暴れまわるよ 恐ろしきかな

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2006年5月 3日 (水)

徒然

利他
人様の ためになること 楽しいな

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実存思想の今昔

実存の 思想かつては 華やかで
 今その言葉 失われたか

神学を 志す時 ありとても
 病める心に 冷淡なれず

神学は 科学であると 言う人の
 目に冷ややかな もの感じたり

実存は 病める心ぞ 皆のもの
 その解明に 今科学の目

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病人

身辺に 病人いれば 感謝せよ
 耳を澄ませば 英知が響く

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完治

病気には 隠れた意味が あるのだよ
 その意味探り 知って完治さ

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親鸞

親鸞は 日本の生んだ 実存の
 思想家なりと 今我思う

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2006年5月 2日 (火)

人生

人生は 毎日送る 生活の
 積み重ねなり 同じものなり

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哲学

限界の 状況問わず 哲学者
 科学とどこが 違うのだろう

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節約

使い切る 心がけども 使わない
 物多くして 品欠く我が家

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自己変革

情けなや 努力したけど 駄目でした
 自分を変える 至難のわざだ

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希望

なにくそと 思う心 湧きくれば
 空即是色 明るい未来

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関心

関心は 生老病死 いつまでも
 ベストセラーの テーマはこれだ

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病人

病人は、ある意味で犠牲者である。健康な人に隠された罪の犠牲者である。

人は一人で病気になるのではない。原因の分からない病気では、特にそうだ。

病人を診るのではなくて、その病人と関係のある健康な人を診ることも必要なのではないか。

健康な人、強い人に隠された罪が、その人の人間関係の中での病人の原因になっているのかも知れない。

しかし、健康な人、強い人が、その可能性に感づかないのであれば、病人の病気は治らない。

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あなたの目

あなたの目 古今東西 対話なく
 きょろきょろしてて 落ち着きがない

現在を ただ感覚で とらえてね
 その評価には 手段持たない

人間は 現在だけで 生きてない
 過去未来との 統合さ

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死別

私がね 死ぬ時あなた 泣きますか
 いや泣かないよ 悲しまないよ

冷たいな 泣いて欲しいな わたくしは
 悲しみの底 抜けているんだ

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2006年5月 1日 (月)

異常行動

家族がね 成長阻害 するんだよ
 異常行動 その知らせだよ

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潔く

すまないと 切腹するは 潔い
 甘え人間 はびこる日々よ

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