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2006年7月31日 (月)

場所

人間は、なぜか無意識のうちに自分の場所を選択しているようなところがあるのではないだろうか。勤務の場所、住む場所である。私は、もう10年以上も、今の場所に住んでいるが、なぜか今も新参者・異邦人意識が抜けない。自分の意識にぴったりする場所を探すべきであろう。

若いうちは刺激にある場所がいいかも知れないが、年とると、死の雰囲気を漂わせているような場所の方を好むようになるかも知れない。寺・神社・墓地。

しかし、靖国神社だけは、今年も騒がしくなるようで、マスコミも例年のように書き始めている。死者が死んでいないようである。もちろん、死者は死んでいる。ただ、残された者たちが、どのように死者とかかわり、生きていったらいいか分からないだけなのかも知れない。あの人が戦死したために、残された人たちで、人生が狂ってしまったひとたちが多いのである。

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靖国神社問題

小泉首相の靖国神社参拝が問題となっている。靖国神社の参拝問題は今に始まったことではない。公式参拝と言っていた中曽根首相は外国の反対で、参拝を取りやめたが、そのころからずっと靖国神社問題は続いている。もうそろそろ決着をつけた方がよいのではないだろうか。

靖国神社の庭に一人の武士の銅像がある。この神社のありようを象徴しているようでもある。幕末、官軍を指揮した大村益次郎である。要するに、近代日本の神社、精神的支柱が靖国神社なのである。しかし、近代日本は、既に過去のものとなった。靖国神社も、そういう意味では既に過去のものとなっている。靖国神社を唯一の追悼施設とする考え方は、現代日本と近代日本を連続させる歴史観によるもので、それは違うのではないかと、私は思う。では、どうしたらよいのか。

ポスト近代にふさわしい追悼施設を新たに建設すればよいのである。国立千鳥が淵墓苑を拡充して、それにあてればよい。今、自民党の中川秀直政調会長の提唱で検討チームが作られて、この墓苑を2倍に広げる案で出ている。

7月31日の朝日新聞社説は、この問題を取り上げているが、私は千鳥が淵墓苑拡充案を支持、さらに発展させ、実現させるべきであると思っている。

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2006年7月30日 (日)

生と死

生と死とは、実は表裏一体なのである。生の追求は、実は死をもたらし、死への接近は、実は生をもたらす。よく生きるとは、実は、よく死ぬことでもある。「貧しいものは幸い」といったキリストの教えの一見、矛盾と見えるものは、実はこの真実に根ざしているのである。

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楽しみ

人生を 楽しみたまえ いつまでも
 成長のカギ そこにあるから

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少年武道大会

豆剣士 武道館へと 集いたり
 大会参加 笑顔歓声

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近世の誤解

近世は 信仰義認 誤解から
 合意の中で 改めて知る

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生命と神

生命は神なのだろうか。違う。煩悩の生命的現象がどうして神の命なのか。
しかし、神もまた生命のようなみのだ。永遠の生命の与え主なのだから。生命重視と神重視とは違うのだけれど、似ている。だまされないようにした方がよい。

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科学と技術

科学とは、雑多で混乱している現象を統一的に説明できる原理の発見であり、技術とは、その現象にアプローチし、利用するマニュアルの作成である。

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来談者中心療法

来談者中心療法における自己実現というのはカウンセリングの目的なのだろう。これがないと、カウンセリングは単なる話し合いに終わってしまう。

目的は選択の結果であるので、イデオロギーになる時、差別感情を生む。しかし、他人の目的ではなくて、自分の目的なのだ、となれば、そこには差別はない。

差別は価値観から生まれ、その固定化・絶対化の客観化から生まれる。客観化でなくて、相対化なら差別は生まない。多様な人々の比較に、なぜと問うても回答はない。

安易な絶対化は避けよう。「現世虚仮」(聖徳太子)なのだから、現世は相対であっていい。

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2006年7月29日 (土)

医者の限界

予防によって老いを遅らせることはできるかも知れないが、老いを止めることはできない。

治療によって病気を治すことはできるかも知れないが、死をなくすことはできない。

老いと死の限界に直面して、医者はなすすべがない。

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がん

がんという病気は人間にとって優しい病気だ、と、どこかで読んだ覚えがある。怖いという印象が強い病気だが、どこが優しいのだろうか。死ぬまでの間に、準備ができるというのも一つの理由らしい。

私は中学2年生の時、18キロのマラソンに参加して(これは強制参加だった)、途中で気を失って道路に倒れたことがある。その瞬間のことは、もちろん覚えていない。気づいたら、横たわっていて、注射を何本を打たれたようだった。そして、走行中、倒れたことを知った。こんなふうにして死ねれば、死の恐怖はないので、本人にとっては一番幸せな死に方といえる。

がんの場合は、そうはいかない。あとどれくらい、と余命の宣告が行われる場合がある。意識は死と向き合うのだ。その意識のあり方が、がんという病気も持つ意味なのだろう。死を忘れようとする現代人に、がんは、人が真実の存在となるための必要な過程である、死との直面の機会を与えようとする、神さまの配慮なのかも知れない。その意味で、がんには、人間に向けた大切なメッセージが込められているのかも知れないのである。

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道程

NHKラジオ深夜便で、みなみらんぼうさんが「道程(みちのり)」という自分で作詞・作曲した曲を歌っている。名曲と思った。特に、歌詞をよく読んでみると教えられるところが多い。人生を歌ったのだろう。共感するところが多い。

最後に、「神の峰」という言葉が出てくる。神が人生のゴールということだろうか。峰が神の顕現の場ということだろうか。あの十戒もモーセがシナイ山の峰で神からさずかったものだ。

「旅立ちのときは今 青春はまだ終らない」という言葉で終わるが、青春の言葉にサミュエル・ウルマンの詩「青春」のことを思った。

深夜便の歌では、檸檬に続いて、人生を歌った名曲が続いている。

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2006年7月28日 (金)

人生の道

人は皆 そのつど善を 選択す
 苦難の道を 誰が選ぶか

人生は振り返れば苦難の道であった、という人もいるでしょう。しかし、当初、誰が、そんな道を選択するでしょうか。今、死刑囚の人でも、決断は、主観的には善であったのではないでしょうか。客観的な悪の中にある、主観的な善、そういう善を尊重したいと思います。もちろん、主観的善が客観的悪を構成する短慮は責められなければならないでしょうけれど。

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中東紛争

中東紛争の激化が憂慮されている。イスラエル非難が続いている。
イスラエルに関しては、アウシュビッツなどの強制収容所の経験、そして、映画「栄光への脱出」(ポール・ニューマン主演)などを連想する。特に強制収容所の経験を経たイスラエルに対しては、この民族に対する、ただ祈りのみ、といった思いがある。しかし、彼らが故郷の地、約束の地に帰還後にも、なおも苦難が続いている現実に対して、何かやりきれない思いがする。
それしても、第二次世界大戦は人類歴史の上で大きな転換点であったのだろう。ユダヤ民族の聖地帰還、原子爆弾の投下など、第二次世界大戦の人類史的意味を問わなければならない。

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退行

精神分析の用語に退行という言葉ある。年齢を遡る方向を決断するのである。一番目指すところは、幼児期の母と子の信頼関係の中で、安らいでいた時だろうか。

退行は罪とも関係があるだろう。人生において目指す方向が違うということである。高名な歴史学者が、文明の発展を「挑戦と応答」という言葉で表現していたが、一人の人生においても、その過程で成長が達成されていくのだろう。その時、応答の間違いが罪なのである。しかし、その罪の分析をすれば、中には保持すべき要素もある。罪、退行の目指す原点としての安心感は、過去においてだけではなくて、時の彼方にも、人生の目的として見出したいものである。

幼児期の母子関係の信頼関係はエデンの園の体験である。その楽園は追放されたが、人生の目的は楽園回復でなければならぬ。であれば、将来にも楽園があるものとして考えねばならぬ。楽園は、かつてあり、やがて来るもの、そして今も何らかの形で体験できるものでなければならぬ。

退行を罪として見た時、その再発防止のためには、楽園の将来性の確認でなければならぬ。

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2006年7月27日 (木)

怠け者

怠けいて 体不能に なる怖さ

人間は活動するように出来ているのだろう。しかし、現在の職業が不適な時には、その知らせがあるのだろう。このまま死んでしまってもいいのか、と。その時、失職、転職も一つの選択、そのまま朽ち果てるのも、また一つの選択である。最近は、前者の選択の方が多いのかも知れない。しかし、その時は、「体不能」の怖さが襲ってくるものだ。

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谷垣氏支持

谷垣財務相が、自民党総裁選に立候補するという。当選し、首相になったら靖国神社には参拝しない意向という。私は、それでいいのだと思う。現時点では、私は谷垣氏支持である。

靖国神社問題を、これ以上こじらせてはいけない。振り子を少し動かさなければならない。それが次期政権の課題と思う。

少し、冷静になって、靖国神社問題の抜本的解決を図る道を考えなければならない。そのためには、小泉首相の道を踏襲するだけが選択肢ではない。

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灰田勝彦さん

7月26日早朝のラジオ深夜便で、灰田勝彦さんの歌声が流れました。私は、好きな歌手は? と聞かれたら、灰田勝彦さんと菅原都々子さん、と答えることにしていますので、昨日は大いに満足しました。

灰田さんの歌声を聞いていると、何かしら、幸せな気分にさせてもらえます。昭和20年代、戦争が終わり、日本中に開放感が溢れていたのだと思います。物はなくとも、心は自由。もし、帰りたい時代と問われたら、「あの自由の時代」と答える人も多いのではないでしょうか。灰田さんの歌声は、あの自由を表現しているように思っていました。

しかし、歌声の調子は一貫していたのですが、曲が出来たのは戦前、戦中もものも、かなりありました。戦中でも、あんな歌が歌えたのか、と思いました。少し場違いな歌のように思いました。灰田さんはハワイ出身と聞きましたが、戦中、真珠湾攻撃をどう思って歌っていたのかな、とその心中が気になりました。

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2006年7月26日 (水)

カウンセリング時代

現代は 心の病 流行で
 カウンセリング 宗教の時

米国の著名な心理学者・実践家のロジャーズは最後に、カウンセリングが宗教につながっているという洞察を持っていたとのことです。「カウンセリング宗教」というのが、現代にふさわしい選択なのかも知れません。

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遺伝子

同じ環境の中で、人々の行動は違う。同じ自由が与えられても、決断は違う。なぜか。自分の行動を制約するものの違いである。それは自分の性格であろうし、また別の観点からは自分の遺伝子ではないのだろうか。

心と脳の関係が盛んに探求されている。自分の性格と遺伝子の関係も、同じようなものかも知れない。自分探しというのは、自分の遺伝子の特性を探すことではないのか。自己実現も自分の遺伝子を知れば、合理的・有効な選択ができるだろう。

いつの日か、病院に行き、自分の遺伝子を知り、自分の望みと違うのであれば、遺伝子を修正する、そんな治療が出来ればいいと思う。そんな日は来るのだろうか。

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人の目を
私は余り見ない

だから人の真実を知らない
共同体意識が生まれない

見た時に知れてくるものが
怖いからだ

その人の真実に触れることが
怖いからだ

目は雄弁である
言葉を超えて真実を語る

対立する二人
見つめ合えば和解するだろう

中東の人たちも
互いに見つめ合えばいいのだ

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北朝鮮問題

北朝鮮の現在のあり方が、社会主義革命政権の本来のあり方なのではないだろうか。ソ連、中国との関係の中で、北朝鮮が生まれた。しかし、ソ連は崩壊し、中国は柔軟な態度をとる自由を持っていた。北朝鮮は、政権の世襲などもあり、そのどちらの道も取れなかった。そのため、ますます袋小路に入りつつある。その打開が、ミサイルの発射なのだろう。

北朝鮮問題の解決のためには、精神分析的アプローチにより、その現在の生まれた過去を明らかにすることではないだろうか。現在が異常であるといって騒いでいても、問題は解決しない。現在があれば過去もある。過去の中に原因が潜んでいる。その原因を明らかにすれば、異常が異常でなくなるのではないだろうか。以前、そんなテレビ番組があったが、何度も流す必要があるのではないだろうか。

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2006年7月25日 (火)

メソも同意

キリスト教の「CJC通信」によれば、第19回世界メソジスト大会が06年7月20日から24日までソウルのクムナン・メソジスト教会で開催され、23日、ルーテル世界連盟とカトリック教会が1999年に行った義認教義に関する共同宣言に同意しました。この共同宣言が近世の終焉、「新しき中世」の開始の原点と考えているのですから、重大事件です。メソジスト運動を開始したウェスレーの信仰に親しみを覚える私としては、この同意は、喜ばしき事柄です。

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天と地

主の祈りに「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という部分がある。どういう意味なのだろう。

天と地とは何を意味するのだろう。まず、地とは時間・空間で制約されている、という意味なのだろう。であれば、天とは、その反対で、時間・空間の制約がない、という意味かも知れぬ。

あるいは、天とは悪魔のいない所、地とは悪魔のいる所という区別でもいいのかも知れない。であれば、祈りの意味は「天で、すべてが神の意思に従っているように、地においても、悪魔が、その働きを縛られて、神の意思のとおりにすべてが動いていきますように」、という意味になるのだろうか。

われわれは、地という制約から離れることはできない。われわれの活動はすべて、地における活動である。であれば、「地にも行われますように」という願いは、ただ受動的に待つということではなくて、われわれの活動のすべてに神の意思実現の祈りを込めて行え、という意味なのかも知れない。神の意思を受け止めて、地に働きかけるのは、思えば人間だけである。そういう積極的な意味に取るべきなのかも知れない。

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米国の夢

米国とイスラエルとは、同じ夢を見ているのではないだろうか。二元対立的思考など、両者には連続性があるのではないか。

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根なし草

「故郷を失った根なし草でありたい」。1967年に出た『風に吹かれて』の中で、作家・五木寛之さんは、こう書いている。この本は累計460万部のベストセラーになったといわれる。

五木さんの作家活動は長いが、私が五木さんと出会ったのは、NHKラジオ深夜便においてであった。その話に強い印象を受けて、著書を読んでいき、分かりやすく、人生の大切な部分を書いているのに、感銘を受けてきた。

「あいつは根なし草さ」。誰ともなく、私の知り合いが私を批判する言葉として、「根なし草」という言葉を使っている、と聞いた。いい気分ではなかったが、仕方ないと思った。所属を転々と変えてきたからだ。当初、望んだことではないが、終わってみると、そうなっていた。

自分における「根なし草」の根拠を突き止めていけば、それは自分のアイデンティティ論ともなる。そんな日が来るかどうか分からない。しかし、この言葉を思う時、この境涯は五木さんの望みでもあった、ということを思い出そう。

「根なし草」は他人に益を与えることも多くはないが、同時に害を及ぼすこともないだろう。無害という価値が、そこにはある。

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功名が辻

今、大河ドラマ「功名が辻」が、信長、秀吉、家康の時代を描いている。信長と秀吉は別人格だが、三人を比べると、二人で一人といった面も感じる。秀吉は、ある意味で、信長の後継者であった。織田家の血を引く茶々への厚遇など、市への思慕と共に、信長の後継者を望んだ現われなのではないだろうか。

秀吉が26人のキリシタンを処刑したことは、もちろん、彼の判断によるものだけれど、信長にも比叡山焼き討ちという宗教弾圧があった。この二つは無関係だが、日本の近世の夜明けに起きた忘れられない出来事である。その中で、キリシタン弾圧は近世を一貫した政策となり、それが近代の性格にも影響を及ぼし、和辻によれば、太平洋戦争敗戦にまで続くとすれば、現代日本の問題ともなるのである。

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小泉首相

小泉首相は織田信長と比較されるかも知れない。共に改革で知られる人物だ。また、小泉首相は、「はしゃぎすぎ」と言われる面があるように、躁が性格の基本で、時に、その基盤の上に、ヒステリー的な断定が「脅し」的迫力をもって、周囲の雰囲気を支配してしまうのだろう。信長の性格も、そんなものだったのではないだろうか。比叡山焼き討ちなど、為政者のヒステリーのようにも思える。

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個人情報漏洩

最近は、個人情報が漏洩したということで、企業のトップが深々と頭を下げるシーンをテレビで見る機会が多くなった。しかし、個人の本当の秘密が漏れたのだろうか。住民票や戸籍謄本も個人情報で、第三者が無断に触れることが出来ないようになっているが、その内容は、単なる事実ではないか。誰が知ってもかまわないような事実ではないのか。なぜ、それが守られなければならないのか。
個人情報の悪用を念頭においてのことなのだろうか。確かに、迷惑メールなど、個人情報は悪用されているのだろう。しかし、自由社会で、このような悪用をなくすことができるのだろうか。
NHKラジオ深夜便で、「女性のうつ」をテーマに取り上げていた。心の病が多くなっている。社会の変化と関係があるように思う。インターネット社会に、どう生きるか、そんな関心を常に持っていないと、現代社会に生きることは難しくなっている。新しいメリットは、それを持たない人にとって、適応障害を生むのだろう。

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2006年7月24日 (月)

蛇と精神分析

ヘブライの昔話によれば
人祖の楽園追放は、蛇の誘いへの承諾による
   
その承諾は罪の元となり
民族の習性となった
   
繰り返された罪は病を呼び
そして民は死んでいった
   
そんな時、民の癒しのために
モーセは荒野で、旗竿の先に青銅の蛇を掲げた
   
その蛇を見た民は
皆、癒されたという
   
ユダヤ人のフロイトは
この物語を知っていただろう
   
彼の創始した精神分析の癒しの過程も
これに似たものとなった
   
人は失敗の記憶をたどり
失敗させたものを見上げることで癒されるという
   
サタンの使いであった蛇を見上げるとは
無意識の中に隠れている病気の原因を認識し、言語化すること

現代社会で心理学は先端的である
放送大学のもぐり聴講生は、つくづく、そう思う

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病気

私は病気ではない、と思っていた。しかし、自我、人格が発達しないという「障害」もあるという。それもまた病気であれば、私は病気かも知れない。

電車の中で、人の顔を見る。大人の顔だ。子どもが抑圧されているように見える。しかし、大人の顔は発達した結果なのだろう。だから、大人は自我も人格も障害を受けていないといえるかも知れない。だが、その顔の中に抑圧されている子どもの悲鳴も聞こえてくるような気がする。

子どもが開放された顔、その顔は、たとえ大人であっても、心の交流は容易のように思える。

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2006年7月23日 (日)

大村益次郎

Oomura 近代の 日本を遥か 仰ぎ見る
 靖国の地に 一人立つ武士

靖国神社に大村益次郎の像がそびえています(写真)。最初、なぜ、彼が、と疑問がありました。しかし、司馬遼太郎著『花神』を読んで、納得がいきました。

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宇宙船地球号

中東の 抗争続き 憂いあり
 神を信ずる 二つの民よ

宇宙船 地球号とは 新視点
 争い止める 神の視点ぞ

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心理学

放送大学では心理学関係の講座が多い。心の理解が、現代社会では強く求められているのだろう。

戦後、日本社会は自由社会になったけれど、自由というのは選択という、やっかいなものを自分の責任で行わなくてはならない。しかし、その前提の心の理解が追いつかなくて、自分も社会も混乱している現状も一部に見られる。

人は心と体。予防に心がけたいという思いが心理学隆盛の今日をもたらしたのかも知れない。

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2006年7月21日 (金)

旅の本質

旅というものは、一般的には空間の移動である。しかし、時間の移動も旅である。

旅によって、自己の相対化が得られる。それは自己超越でもある。それが旅の目的かも知れぬ。

自己の相対化は、自己を超えるものとの出会いを契機とする。それが旅に期待するものであろうか。それを人は神と言うかも知れない。

神を絶対者という人がいる。旅の終わりが意味されている。しかし、それでも旅は終わらない。だから、神は無限者とも言わなければならない。

旅の目的は神なのだろう。絶対者にして無限者でもある神の探求こそ、旅の目的なのだ。それが分かれば、旅は楽しい。

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松岡洋右

昭和天皇の1988年の発言を記録した富田朝彦・元宮内庁長官(故人)のメモが公表されて、波紋を呼んでいる。7月21日の新聞朝刊は大きく扱っている。天皇の靖国神社参拝が途絶えた理由がA級戦犯合祀への不快感によるものという内容だった。そのメモの中に、松岡、白鳥という名前が出てくる。松岡洋右(外相、拘禁中死亡)、白鳥敏夫(駐イタリア大使、服役中死亡)の二人である。松岡洋右については、キリスト教と無縁な人物ではない。少し、紹介しておこう。

 昭和八年二月の国際連盟総会で、日本軍の満州撤退勧告案採択に抗議して、松岡洋右首席全権が退場、日本は国際連盟を脱退することになった。当時、長野地方裁判所判事で、既にキリスト教の洗礼を受けていた武藤富男氏(開成の夜学で苦学された)は、その後、松岡全権の国際連盟脱退演説の中に、「日本は満洲のため十字架を負っている」という言葉があるのを新聞で知って、「十字架ということばをこんなところに使うのは、冒涜だと思った」という(『社説三十年 第一部』三十五頁)
 しかし、「十字架」という言葉は、松岡自身にとって、決してなじみのない言葉ではなかった。松岡は十代の初めに渡米して、アメリカ人家庭に住み込んで、皿洗いなどして大学を卒業している。そのころ、彼は川辺貞吉牧師に感化されて、洗礼を受けてプロテスタントの信者になっているのである。このキリスト者・松岡について書く人も関心を持つ人も余りいない。
 日本の国際連盟脱退について、新渡戸稲造も事務局次長として国際連盟に積極的に関係していたので、新渡戸などは、この件に対して、松岡の行動を批判したのかと思ったが、中公新書『松岡洋右-その人間と外交-』(三輪公忠著)によると逆であったらしい。
 松岡は、敗戦後、A級戦犯に指定され、東京裁判の法廷には数回出ただけで、武藤氏が、昭和二十二年五月に東京裁判の法廷に証人として出て、満洲国の宗教政策と信仰の自由について証言した時には、既に病死していた。
 この松岡について、武藤氏は生涯で、たった一回、面談したことがあり、「松岡は稀有の雄弁家で、満鉄総裁時代、特急アジアに乗ると大連から新京までの間、展望車でしゃべりつづけて、周囲の者をその弁舌と見識とをもって魅了するという人物であった」という印象を持っている(前掲書・一四一頁)。
 プロテスタント信者の松岡は、亡くなる時には、カトリックの洗礼を受けた。文春文庫『血族が語る昭和巨人伝』(文藝春秋編)に松岡洋右の長男、謙一郎氏が、晩年の父について、「東大病院に入院しているときに『キリスト教はやはりカトリックだ』といって、カトリックの洗礼を受けました」(45頁)と書いている。
 この「カトリックの洗礼」の部分については、中公新書『松岡洋右-その人間と外交-』に、こんな記述がある。
 「松岡臨終の知らせを受けて駆けつけた人のうちに、井上泰代というカトリック信者があった。この人は松岡最後の数年間、松岡に絶えずつきそった主治医であった。井上さんは、松岡が生前からカトリックの信仰に深い関心を示していたところから、まだぬくもりのある体に洗礼をさずけた。いわゆる『望みの洗礼』を授けたのである。洗礼名はヨゼフといった。そして、戦犯も人は人、というフランス人神父ヨゼフ・フロージャック(Josepf Flaujac)の司式でカトリックの葬儀が神田教会でいとなまれた」(191頁)
 この「望みの洗礼」というのは、「洗礼を望みながらも、洗礼を受けられないうちに死ぬ場合は、神を信じ、愛の心で罪を悔い改めれば救われます。またキリストの福音を知らない人でも、誠実な心をもって、救いに必要なことを果たそうと努めるならば、キリストの恩恵によって、救いの道を得ることができます」(『カトリック要理』)に該当する「洗礼」なのだが、松岡は既にプロテスタントの洗礼を受けていたのだから、「望みの洗礼」というのはおかしいのではないか。むしろ、条件付洗礼というべきではないのか。
 松岡の葬儀は、昭和二十一年七月一日、神田教会で行われた。また、彼は外相だった昭和十六年に教皇ピオ十二世に単独謁見しているが、そこでカトリックの好印象を得たらしい。これらは当時のカトリック新聞に掲載されている。

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2006年7月20日 (木)

企業目的

企業目的は利益と思う人たちは、競争社会を表面的に生きている人たちである。利益は大切だが、利益が目的ではなくて、目的が適正であるところから利益が生まれるのではないだろうか。利益は結果であり、目的ではない。企業目的を煮詰めていないところから、現今の競争社会の中で、大きな間違いを犯す人たちが生まれる。「儲けることが悪いことですか」という問いは、競争社会を表面的に生きている人の言葉である。

富を得て不幸になる人たちがいる。貧になって幸せを見出す人たちもいる。富の商人になるよりも、幸福の商人になった方が、人々には喜ばれるに違いない。

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十字架の瞑想

賀川豊彦の著書に『十字架の瞑想』というのがあったように思う。

大死一番という言葉は禅の言葉なのだが、大死とは十字架の死と関連があるように思う。洗礼という言葉が世俗の中でも使われている。諸宗教の言葉も、その中には共通要素があるのだから、その共通部分に関しては、共用してもいいのかも知れない。十字架もまた、いろいろと世俗的にも使われるのである。

仏教の空・無は、仏教固有の主張なのだろうが、そんな気分をキリスト者が味わってもいいのだと思う。それは十字架への道の味わいでもあるのだから。十字架は、まずは死である。しかし、単なる死ではない、大いなる死である。煩悩の死である。そこには、だから諦観がある。究極の諦観がある。妥協のない諦観がある。

キリスト教は「死と生の弁証法」なのだと思う。十字架は完全な諦観であり、そこには、希望の一点も残してはいけないのである。その完全な諦観と共に復活がある。両者の質的な違いは弁証法という言葉で語られている。だから、自力救済も、両者の弁証法の破棄を意味する半ペラギウス主義も拒否されなければならないのである。これは、もちろん、人間の側の意識に即して、言われているのである。

教育というものは、基本的には自力救済か、半ペラギウス主義であろう。「自己実現」という言葉にしても、完全な諦観とは矛盾するだろう。だから、自己実現への道を歩もうと志す人たちは、本当に自己実現を達成するには、どこかで、それを葬る瞬間がなければならないはずだ。自己実現という教育プログラムを提供しつつ、その挫折と高次的統合という契機(瞬間)の紹介があれば、それはそれでいいのかも知れないけれど。

生きることは価値であり、目的であるかも知れない。しかし、その主体が煩悩であれば、そのような生の充溢は不幸の拡大再生産ではないのか。自殺者の多さが社会問題となっているが、煩悩の死ということは、肉体の死で達成されるものではない。自殺志願者たちが、煩悩の死という目的を見出すのであれば、それによって肉体の死という危機を回避することができるかも知れない。それはまた、喜ばしい生き方をもたらしてくれるだろう。

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2006年7月19日 (水)

復讐

最近、犯罪被害者の遺族が犯罪者に死刑を求めるケースが多い。こうして、復讐が達成されるのかも知れないが、「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」(ヘブル10・30)とも言われる。

人は死ぬ。そこに神の復讐・報復がある。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6・23)ともいう。それに自分の復讐を重ねてもいいのではないか。

憎い人も、いつまでも生きるのではないのである。まもなく死ぬ。死刑もまた、犯罪人の命を奪うことであるが、犯罪人は人の手によらずとも、自分の有限性のために、やがては姿を消すのである。そこに、人の存在が、究極的には刑罰を受けている存在であることを知る。究極的刑罰の事実を知る時、個別的刑罰で達成しようとする復讐心も和らぐのではないだろうか。

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死を学ぶ

定年、還暦のあとは、死を学ぶという気持ちを持ってもいいのだと思います。自殺の勧めではありません。人は、誰もいつかは死ぬのですから、死ぬ時が来たら死ねばいいのです。

それにしても、自殺する人たちは、自分の所有が失われるのが、それほど怖ろしいのだと思います。自分は、自分の所有するものなのだと勘違いしているのだと思います。所有を失っても、自分は元来ゼロだ、という悟りがあれば、所有を失っても、それは死を学ぶ機会にはなるでしょうが、自殺することはないと思います。自殺する人は、やはり、富んでいる人に違いありません。イエスの言葉「貧しい人は幸い」を思うのです。また、無・空の仏教的悟りの重要性も納得するのです。

死を学ぶとは、「貧しいこと」、無・空を学ぶ、ということです。そういう意味で、定年・還暦後にも、人は人生に期待できるのだと思います。

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2006年7月18日 (火)

キリシタン史

「新しき中世」という言葉で、日本で連想される人物は、吉満義彦であり、彼をフランスのマリタンのもとに送った岩下壮一である。しかし、思えば、この二人は、日本のキリシタン史には余り関心がなかったかも知れないが、西洋16世紀の宗教分裂に関しては、カトリック側の意見を語ることはできたし、この分裂を啓蒙主義、プロテスタント側からのみ語れない人々の中では、貴重な意見の持ち主だったと思う。

学生寮で、舎監だった吉満の西洋中心的関心に疑問をもった遠藤周作は、その後、キリシタン史に取り組んだ。彼には、逆に、「新しき中世」という言葉はない。

恐らく、この二つの関心を併せ持つ中で、新時代は開いていくのだろう。岩下・吉満に対するキリシタン史への関心、そして、遠藤に対する西洋キリスト教史に対する概観、そんな関心の融合が、時代形成への有効な要素なのかも知れない。

それにしても、キリシタン史というのは気のめいるような課題である。あえて、それに取り組むのであれば、それは現代への問題提起に有効性を見出しているのでなければならぬ。

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2006年7月17日 (月)

迷惑メール

楽しいな 迷惑メール フォルダにて
 一網打尽 一度に消去

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背教の論理

キリシタンへの弾圧は苛酷を極めた。その弾圧の前には、転びへの説得が行われたが、その論理は、神の性質の矛盾に関する指摘であった。神は、どうして人間をかくまで苦しめるのか、それが愛なる神のなさることか、しかも神は全知全能であるというが、そんな神をどうして信じることができるのか。
この論理を見出したのが、ハビアンであった。当代随一のキリシタン知識人であったハビアンの見出した神の矛盾は、その後の日本の宗教史の中でキリシタン批判(キリスト教批判)の論理として長く継承されていく。その一つが創価学会の「折伏教典」にある。
ハビアンの問題提起は、決して古くはないのである。現代の問題でもある、と思う。

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ハビアン

キリシタン時代に、ハビアンという日本人イエズス会士がいた。『妙貞問題』で、日本の既存宗教を排斥し、のちに棄教して、今度は逆にキリスト教排撃の『破提宇子』を書いて、没した。時間的に考えれば、本心は、最後は『破提宇子』にあったのだろう。だから、『妙貞問題』の功績は、吹っ飛んでしまったといえる。

『破提宇子』がなければ、彼は後世に信仰の鑑として残ったであろう。しかし、殉教が続き、完全な禁教・鎖国と続く日本の歴史を見通した時、『破提宇子』の著者に、それなりの思いやりを考えないわけにはいかない。ハビアンを棄教者として責めることはできなくなった。彼を責められる人は、日本の現実を知らない人ではないかとも思える。

日本はキリスト教宣教の困難な国と言われている。その原因は何で、どこにあるのだろうか。私には、キリシタン史こそ、その原因なのではないかと思える。明治以降のプロテスタントたちは大いに頑張ったと思う。しかし、同じキリスト教への完全拒否という国の前史が、国民の意識の深層に残っているので、それを何とかしなければないない、そんな次期に来ているのではないだろうか。

従軍慰安婦、北朝鮮と、ある時期、タブー的扱いの対象だったが、時代が変われば、大量の情報が生み出されてきた。同じようにキリシタン情報も、これから大量に生産されて、日本人の深層のトラウマの解明がされるかも知れない。遠藤周作氏は、その先鞭をつけたのだと思う。

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2006年7月16日 (日)

終わり

老いが来て 病が来ると 戸惑うが
 終わりはあるよ 死で終わりだよ

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形式と命

形式に 堕せる宗教 命なく
 病に向かう 目に命あり

最近は、心理臨床家に宗教的情熱を感じることがあります。本当の宗教家は、そちらに行ってしまうのではないでしょうか。

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宗教の比較

救われた 成仏したの 二つ道
 どこが同じで どこが違うか

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大死

リラックス それが目的 人生の
 大死の前で 心開いて

大死とはキリスト教徒にとっては、イエスの十字架のことであり、宣教とは、この十字架の意味を知らせることである。その知らせの中には、心開くことの効果も含まれる。こうして、心開いた時、大死が、その人の心のうちで実現するのである。それは煩悩からの離脱でもある。リラックスの時でもある。このリラックス体験と、その深化こそが人生の目的である。

大死とは 煩悩の死を 意味すなり
 その元型を 日々求めゆく

十字架のおける大死とは、ユング心理学における元型の如きものであろうか。

わが身にて 大死適用 努めつつ
 歓喜の道は その中にあり

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ザビエル生誕500年

ザビエルに 思いを馳せる 日本史に
 今切り結ぶ 力持たずに

ザビエルの時は宗教と政治が結びついていましたが、今は政教分離が徹底しているようでもあります。しかし、創価学会は違うようです。

政治とは 一線画す 教会に
 学会信徒 失望絶えず

かつて、カトリック信徒の元NHKアナウンサー、I氏が都知事選に立候補した時、学会信徒は熱心に応援したのだけれど、I氏の属すカトリック教会は、全然動いてくれなかった、という学会側の話を、友人から聞いたことがありました。

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光と陰

今年はザビエル生誕500年にあたる。キリシタンの光と陰を思う。

禁教令と鎖国は日本にとっても大きな出来事である。キリシタンの陰の部分が始まる。その始まりはサン・フェリペ号事件であった。キリシタン宣教は、その国を奪うための手段だと言われて、怒った秀吉が禁教を決めた。それが発展して鎖国となった。サン・フェリペ号事件は、もっと関心を持たれてよいのではないか。宣教師たちには、その気はなくとも、そう思われていたということは事実なのだろう。

明治もまた、開国の時であり、宣教師が多く来日した。しかし、彼らは本国の勢力拡大のための尖兵として来日したのではなかった。比較して、その違いの大きいことである。

細川ガラシヤがよく知られている。なぜなのだろう。彼女の死は殉教ではなくて、夫のためを思っての死であった。しかし、殉教のように思われている。しかし、本当の殉教は無名の人たちが、踏み絵を踏めなくて、処刑された、そこにこそあるのではないだろうか。

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2006年7月15日 (土)

預言者

Rimg0013 靖国の 前に聳ゆる 十字架に
 預言者の声 聞く私かな

靖国神社の入り口の右にキリスト教会があります。日本キリスト教団九段教会です。十字架が聳えています(写真)。

正月の初詣に、神社の前でキリスト教の伝道をする人たちがいました。今もいるか、どうか知りません。それを連想しました。少し失礼なやり方かも知れません。

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靖国神社

Rimg0017 靖国神社に私の父は眠っている。もちろん、太平洋戦争で戦死したためである。父の記憶はない。ただ、写真が残っていた。それだけの関係である。

しかし、父が戦地から帰還していたら、もちろん、私の人生は今とは全然違ったものになっていただろう。

靖国神社は今では一宗教法人である。だから、「靖国神社国家護持」は憲法違反として反対活動が続いている。しかし、形式は一宗教法人であっても、靖国神社が国と無関係とは思えない。内容は「国家的施設」なのである。この実質と形式の乖離のため、問題がなかなか解決しない。

あの戦争がなかったら、別の人生を送っていた人は多いだろう。そんな人たちの思いのために、何かできるのではないだろうか。

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渡り鳥

渡り鳥 場所を変えつつ 飛んでゆく
 終わり目指して 執着捨てて

渡り鳥が一個所に居続けると、いろいろと問題が起きてきます。本質が「異邦人」なので、土地になじめず、友だちもできず、矛盾がたまっていきます。

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2006年7月13日 (木)

トラピスト

トラピスト 祈り働け 沈黙の
 生活送り 心充実

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2006年7月11日 (火)

二つの療法

治療方法には精神療法と薬物療法がある。独立で、それなりの効果があるのだろうか。あるいは、どう関係しているのだろうか。

薬が心に変化を与えることがある。たとえば、最近、扇風機や空気清浄機で「イオン」というボタンがついている。これをオンにすると、心が落ち着くという効果がある。これなども、一種の薬物療法だろう。薬が心の変化をもたらすのである。

この二つは、違うけれど、両方別々にあるのではなくて、深く関係している。排除すべきではない。

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2006年7月10日 (月)

ジダンさん

ジダンさん 地団駄踏んで 悔しがる
 最後を汚し それも悔しい

W杯ドイツ大会決勝戦で、これを最後の試合とするフランスの司令塔ジダンさんがレッドカードで退場。しかし、最優秀選手に選ばれたのは、よかった。

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共産主義

ソ連の消滅で共産主義の理想は頓挫したかも知れない。しかし、歴史的な、過去の無神論的共産主義ではなくて、有神論的共産主義という新しいあり方であれば、どうなのだろうか。21世紀の、いろいろな環境の変化の中で、有効な実験となるのではないだろうか。新しき中世の社会構造となるのでないだろうか。

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2006年7月 9日 (日)

姨捨山

姨捨山の物語がある。老婆が山に捨てられるというのである。悲しい物語である。しかし、老婆の心を思うと、老婆の心には、あるいは、ほのかな喜びといったものがあるかも知れない。
これを自殺の物語と見ると、老婆には責めが出てくるかも知れないが、人は誰もが「死に向かっている存在」と見た時、老婆の心には、共感を覚えるものがあるのではないだろうか。定年を迎え、還暦を越え、年金生活に入る人たちは、この物語を人事とは思えないであろう。山が天国であれば、老婆はうれしいだろう。

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2006年7月 8日 (土)

政治家

政治家は サムライであれ 利にさとい
 商人でなく 義に生きる人

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自由のために

ブッシュ大統領は、自由のために、という。その自由とは、形式的自由として知られるのだけれど、神と共にある実質的自由に基礎づけられているものであろう。その実質的自由のない国民にとっては、形式的自由の強調は、ソドム、ゴモラの自由であり、滅亡への誘いのように聞こえるかも知れない。

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生の未完成性

こんな讃美歌があった。
「ああ、うれし。わが身も、主のものとなりたり。憂世だに、さながら、天つ世の心地す。歌わでや、あるべき、救われし身の幸。たたえでや、あるべき、み救いのかしこさ」

こんな瞬間があるのである。そして、こんな瞬間では生の目的は達成されているのである。だから、死んでもいいのである。しかし、死なないで、生きている。なぜなのだろうか。それが問題である。それで生の未完成性を考えることになる。

人の人生の中で、救いというものは既に実現されたという面と、まだ実現されていないという面の二つの面を持っているのかもしれない。生きているという事実は「まだ」の面ほ示しているかも知れないが、それは「既に」の完成が不十分という意味に取られてはいけないと思う。この二つの関係を、正しく表現することは、はなはだ難しいのである。

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中野孝次展

『清貧の思想』の著者、故中野孝次氏の展示が6月10日から7月30日まで、県立神奈川近代文学館で開催中である。テーマ「今ここに生きる」は、故人の展示にふさわしい最適に言葉と思う。「今ここ」は、実存思想の原点であり、「生きる」は、中野氏の生涯のテーマであったからだ。

「生活を極限まで簡素化し、心のゆたかさと精神の自由を求めた日本人の系譜を古典に即してたどる日本文化論」という説明が、『清貧の思想』に付されていた。西行・兼好・芭蕉・良寛が、とりあげられている。どちらかというと、西洋的教養に親しんできた私は、この本の取り上げた人物に、余り親しみを感じてこなかった。しかし、読んだ。心に深く残るものを感じた。著者のほかの本も読んでみた。自分が強く出ている、あるいは出すぎているかも知れないとも思った。しかし、これほどまで、人生を真摯に問う作家は得がたいのではないだろうか。

『清貧の思想』には物質至上主義への痛烈な批判があり、時代にマッチした本であったのだろう。今、経済は回復してきているというが、再び、物質至上主義への道を歩むとしたら、われわれは、この本の輝きを葬ることになるのであろう。

中野氏の業績は、「今ここに生きる」のテーマをめぐって、揺れはなかったように思う。充実した、実り多い人生であったように思う。同じような作家が出て欲しいとも思う。

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2006年7月 7日 (金)

徒然

テレビ
テレビ見た 殺人・事故に テポドンだ

危険
危ないな どこにいても 危ないな

人生
人生は なりゆきまかせ 波まかせ

プロポーズ
プロポーズ されずに嫁に 来た私

ギャンブル
ギャンブルは 熱くなっては いけません

浄化
淋しくも 浄化をするわ 銭の中

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それ、ウソだろ

テレビで、北朝鮮という国の事情が放映される。軍隊があり、行進している。みな人形のようでもある。軍隊が何者かであるかのように、存在しているというのだ。軍の力で、国際社会に何かを訴えることができるとでも、思っているかのように。

それ、ウソだろ。北朝鮮なんて国は、そもそも存在しているのだろうか。何か、この時代の中で、あたかも一人、時代錯誤的に、別の時代の雰囲気を強く漂わせている。にわかに、信じられないような国である。

民団と総連の和解解除というのは、民団の中の、そういう思いも反映しているのではないだろうか。

いや、北朝鮮は、確かに存在しているのだよ。うーん。我々の価値観に対する、強烈な挑戦のようである。

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2006年7月 6日 (木)

トンデモ本

トンデモ本が本屋に出回り
トンデモ本を紹介する本まである
   
トンデモ本の紹介本を見たが
トンデモない本である
   
そこにあるべき本が、ないからだ
その本とは聖書である
   
イエスという人間が
水の上を歩いたと書かれている
   
そして聖書を信じるという信者は
世界に多いのだ
   
であれば、どうして聖書を
トンデモ本のリストに入れないのか

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2006年7月 5日 (水)

W杯

ドイツがイタリアに負けた。イングランドがフランスに負けた。

ドイツはルターの国、宗教改革発祥の地だ。イングランドは、その流れを発展させた国。

イタリアはカトリックの国で、フランスも、そういっていい。

このW杯の結果は、近世・近代の終焉と、新しい中世の始まりの暗号なのだろうか。

スペインの無敵艦隊が英国艦隊に負けて、スペイン没落の遠因となり、英国は時代の寵児にのし上っていった。その時代、すなわち近世・近代が終わり、時代は、新しい風を求めているのかも知れない。

東西冷戦時代が、その終焉の期間だったのだろうか。それはまた、キリスト教的伝統における対立であったが、「無神論」が破れ、その間、隠れていたイスラム勢力が、冷戦後、時代の視線を浴びるようになった。歴史的中世も、確かに、そうだった。イスラム勢力とキリスト教勢力の対立の時代でもあった。歴史的中世の再現が、そこにあるのだろうか。

共産主義の理想を止揚する形で、歴史の中に実現すること。そこに「新しき中世」の最初の遅々たる歩みがあるのかも知れない。

時代を、どう読むのか。その解釈の中に、何が現れてくるのだろうか。

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ハイデガー

ハイデガーの哲学を本格的に学んだことはなかった。関心も余りなかった。しかし、放送大学を通して重要な哲学であることを、今になって感じている。

キリスト教の体験の中に、新生・聖化というものがある。新生の重要性は、たとえば、戦後、大衆伝道者として著名であったビリー・グラハム氏などは、その瞬間に人々を導くという意図で、全世界の巡回をしてきたことでも分かる。しかし、その説明は、ただわずかな言葉でなされているに過ぎない。そんなに重要なことであれば、人間にとって最大の関心事であれば、多くの言葉を費やすこともできるのではないか。

この疑問にハイデガーが応えている。彼の哲学思想は、新生・聖化という宗教体験がベースにあると見れば、非常に分かりやすくなるのである。それはまた、こうして、ヘーゲルとは別に、キリスト教の世俗化が行われていると思ってもよいのだ。キリスト教の世俗化とは、キリスト教から世俗への道であるとともに、世俗からキリスト教への道でもあるのだ。

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迷惑メール

フォルダにて 一網打尽 愉快だな
 迷惑メール 退治の仕方

迷惑メールは、いちいち消していては煩わしいと思います。迷惑メールのフォルダを作って、いっぺんに自動的に処理することができます。そんな処理をすることに快感を覚えます。

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2006年7月 4日 (火)

親殺し

暗く、驚愕の世相が続く
実家を焼く少年少女たちがいる

親たちの焼死
親殺しの子どもたちの出現

40余年前に大学紛争があった
その時も、親に反抗した

ともに自己実現の出来にくい環境がある
飛び交う情報の中、心が伝わらない

それでも心を伝えようとする人たちもいる
聖なる使命感を感じさえする

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2006年7月 3日 (月)

暴君

暴君に 脅されし人 催眠で
 自立心は ついに芽生えず

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独り言

儲けたが 喜べないよ おかしいな
 世の中どこか 間違っている

福井・日銀総裁のつぶやき

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2006年7月 2日 (日)

徒然

盛り
夏が来て 汗にまみれて 冬になる

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2006年7月 1日 (土)

宇宙と人間

淮南子によれば、「宇」は天地四方、「宙」は古往今来の意味だという。三次元と時間で限定された場所ということであろうか。時間の意味が込められていることは、それまで知らなかった。

この宇宙の中で、人間は、まず現存在である。まず体だからである。この限定は、どうしようもない。

その中で、意識は現存在の場所を超越する。実存もそうである。違いは、意識における恣意性と実存における客観的価値という点であろうか。もちろん、それは逆と思う人もいよう。

哲学徒は、意識・実存に関心を向けている。現存在を、時に忘れる。しかし、この規定は、なくならないのである。実存的価値を現存在においてどう表現したらいいか。そんなことを考えてもいいのでないだろうか。

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