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2006年7月20日 (木)

十字架の瞑想

賀川豊彦の著書に『十字架の瞑想』というのがあったように思う。

大死一番という言葉は禅の言葉なのだが、大死とは十字架の死と関連があるように思う。洗礼という言葉が世俗の中でも使われている。諸宗教の言葉も、その中には共通要素があるのだから、その共通部分に関しては、共用してもいいのかも知れない。十字架もまた、いろいろと世俗的にも使われるのである。

仏教の空・無は、仏教固有の主張なのだろうが、そんな気分をキリスト者が味わってもいいのだと思う。それは十字架への道の味わいでもあるのだから。十字架は、まずは死である。しかし、単なる死ではない、大いなる死である。煩悩の死である。そこには、だから諦観がある。究極の諦観がある。妥協のない諦観がある。

キリスト教は「死と生の弁証法」なのだと思う。十字架は完全な諦観であり、そこには、希望の一点も残してはいけないのである。その完全な諦観と共に復活がある。両者の質的な違いは弁証法という言葉で語られている。だから、自力救済も、両者の弁証法の破棄を意味する半ペラギウス主義も拒否されなければならないのである。これは、もちろん、人間の側の意識に即して、言われているのである。

教育というものは、基本的には自力救済か、半ペラギウス主義であろう。「自己実現」という言葉にしても、完全な諦観とは矛盾するだろう。だから、自己実現への道を歩もうと志す人たちは、本当に自己実現を達成するには、どこかで、それを葬る瞬間がなければならないはずだ。自己実現という教育プログラムを提供しつつ、その挫折と高次的統合という契機(瞬間)の紹介があれば、それはそれでいいのかも知れないけれど。

生きることは価値であり、目的であるかも知れない。しかし、その主体が煩悩であれば、そのような生の充溢は不幸の拡大再生産ではないのか。自殺者の多さが社会問題となっているが、煩悩の死ということは、肉体の死で達成されるものではない。自殺志願者たちが、煩悩の死という目的を見出すのであれば、それによって肉体の死という危機を回避することができるかも知れない。それはまた、喜ばしい生き方をもたらしてくれるだろう。

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