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2006年7月 8日 (土)

生の未完成性

こんな讃美歌があった。
「ああ、うれし。わが身も、主のものとなりたり。憂世だに、さながら、天つ世の心地す。歌わでや、あるべき、救われし身の幸。たたえでや、あるべき、み救いのかしこさ」

こんな瞬間があるのである。そして、こんな瞬間では生の目的は達成されているのである。だから、死んでもいいのである。しかし、死なないで、生きている。なぜなのだろうか。それが問題である。それで生の未完成性を考えることになる。

人の人生の中で、救いというものは既に実現されたという面と、まだ実現されていないという面の二つの面を持っているのかもしれない。生きているという事実は「まだ」の面ほ示しているかも知れないが、それは「既に」の完成が不十分という意味に取られてはいけないと思う。この二つの関係を、正しく表現することは、はなはだ難しいのである。

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