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2006年8月31日 (木)

巡礼の勧め

200192720003 ロシアの亡命哲学者、ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ベルジャーエフ(写真)は、こんなことを言っていた。

「多くの理由で(その中には非常に重大なものもある)、私はずっと孤独な人間であったし、今後も孤独な人間であろう」

彼は自らの思想のために祖国から追放されたが、同時に精神の巡礼にも出かけた。孤独な人は巡礼に出かけたらよい。

彼によれば、巡礼は、西欧では不可解なほどに、特色あるロシア的事象である。
巡礼は、広大なロシア国土を遍歴するが、決して、どこかに定着したり、何かに執着したりはしない。
巡礼は真理、神の国を探求し、かけ離れたものを目指して闘う。
巡礼は、地上に永住の都を持たず、来るべき都を目指して前進する。
人民大衆は、常に、自分たちの階級から巡礼を生み出した。ロシア文化の最も創造的な代表者たちは、精神的に巡礼であった。
ゴーゴリ、ドストエフスキー、トルストイ、ソロヴィヨーフ、そして革命的インテリゲンチャも皆、巡礼であった。

普通、巡礼は聖地を目指すが、聖地はまた精神のうちにもある。
精神の巡礼は、有限なものに安息と平和を見出さず、無限なものを目指して闘う。未来には究極の真理が明らかになるという期待を持って。

一人の巡礼が生まれれば、巡礼は一人では終わらないであろう。

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ブレンド

高齢化 支えるために 活性化
 老には酷か むしろブレンド

ブレンドは 一神教には 無理という
 神理解には 矛盾ブレンド

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街の風景

街中が ごちゃごちゃしてて ふと思う
 人の頭も 混乱してる

作られた物には作った人がいる。その人のアイディアが原因である。アリストテレスは、そう言った。

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議論

本質を 論ずることは 大切だ
 周辺議論 それが多いよ

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宗教改革

公認へ さらに国教 変化あり
 質と思って 改革開始

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マルクスを 学ぶ人なく 時過ぎて
 フロイト学ぶ 人は続々

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マスコミ

有名な 人ぞくぞくと 製造す
 生きて会うこと ない人多く

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弾厚作

青春を 教えてくれて ありがとう
 明日に希望 生きる力だ

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啓蒙主義人間観

啓蒙の 人間観に 疑問あり
 共同体を 造れるのかな

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2006年8月30日 (水)

新企画

新企画 花鳥風月 めでないで
 自由に作れ 5・7守って

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無職

無職者の 体内時計 狂うなり
 解放の時 新たなくびき

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超越

中世の 教師が常に 言う言葉
 超越それは 救い・悟りぞ

神は超越。信仰の時代であった中世を語るに超越は欠かせない言葉。しかし、救い・悟りは、むしろ「超越即内在」ではないだろうか。「即」の重みを感じる。

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逆出島

ブログはね 我が逆出島 ささやかな
 世界に向けた 超越の基地

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2006年8月29日 (火)

断片重視

実存は 断片重視 寄せ集め
 体系はあと 自然に出来る

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共産主義社会

コミュニズム 物欲奉仕 誤解あり
 ユダヤ起源の 理想世界も

共産主義理論は、マルクス、エンゲルス、フォイエルバッハ、ヘーゲルと遡っていけば、ユダヤ・キリスト教世界観と接触しているのです。

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リアリスト・イエス

覚めた目で、社会を見つめ 冷酷な
 教えを宣ぶる リアリストかな

「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」(ルカ福音書8・18)と、イエスは言われる。
競争社会の現実を冷静に見ているようでもある。

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人生の選択

人生の 選択我に ありとても
 選択の善 祈るほかなし

人生の選択は、私における一つの決断です。しかし、その決断によって、他の人々が影響を受けます。それを思う時、責任を感じます。

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日本の理想

流行語 日本改革 目的は
 慈悲と愛との 満つる社会へ

競争社会は恐らく理想社会ではないと思います。その手段かも知れません。理想社会は端的に表現し続けるのがよいと思います。それは、私の言葉で言えば「慈悲と愛の社会」ということになります。ちょっと気障かも知れませんが。

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2006年8月28日 (月)

難問

風のごと いのちは吹くよ 自由にね
 自由のかたち 難問だよね

伝達のためには、かたちが不可欠。しかし、かたちができれば自由でなくなる。さて、・・・。

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司馬史観

虫瞰で 痛みの因を 尋ね来て
 飛翔鳥瞰 司馬史観賛

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必勝

メッセージ 持つ者が勝つ 人生に
 語らずば身の 破滅になるが

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2006年8月27日 (日)

寅さんの過去たち

朝日新聞(平成8年1月17日、朝刊)に、映画「男はつらいよ」の監督、山田洋次氏が、寅さんの故郷・柴又を訪ねた記事が載っています。そこで、山田監督は 、こういう感想を述べています。
   
「ヨーロッパの落ち着いた古い街へ行けば、日本人はだれだって、自分の故郷の変わりようが恥ずかしくなるはずです。僕たちの国は経済成長のために、美しい景色、習慣、人情、文化を捨ててしまった。もう捨てるなって、寅さんは懸命に言ってきた気がします」
   
ヨーロッパの落ち着いた古い街、そこでは、時間は、もっとゆっくり流れているのでしょう。人々は、分秒で生活を送るのではなくて、自然との、また過去たちとの対話の中で、ゆっくりと暮らしているのでしょう。その生活は、現代日本のそれと比べて、きっと精神的にははるかに豊かなものであろうと思います。日本は今、確かに大切なものを失いつつあります。
   
今は、どことなく騒々しい街になってしまったと、山田監督が言う柴又ですが、かつては、どんな所だったのでしょうか。
   
「第一作のころ、都心とは別の時間が流れていました。人通りは少なく、店は暇そうで。ほどほどに食っていければいい、といった穏やかさが、旅先でつらい思いをした寅さんがフッと帰ってきて、憩いの時を持つにふさわしいと思ったんです」
   
「ほどほどに食っていければいい」。なんという、うらやましい言葉でしょうか。こんな気持ちを取り戻して、物質的な成長を抑制して、もう一度、「人間にとって本当の幸せとは何か」を考えても、よいのではないでしょうか。
   
人は時間の中に生きています。こればかりは、どうしようもありません。流れていく時間、古いものは、もう、どこを探しても見つかりません。ただ、思い出として、人の記憶の中にあるばかりです。
   
こんな思い出を大切にしたいと思います。そして、過去、我々が生きてきた、いろいろな価値というものが、今も生かされていくようにしたいと思います。
   
過去を振り返らないのも、一つの生き方でしょう。しかし、過去と対話し、過去を現在に呼び戻す努力も、また大切なのではないでしょうか。

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体験

宗教は 体験なくて 成り立たず
 特異体験 我にあらねど

聖霊体験と異言体験を結びつける立場を横目で眺めています。

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宗教学教授法

気づきなく 宗教教え 効はなし
 心理学から 始めるがよい

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素材

アイディアを 書き留めておけ 短歌にて
 素材なくして 建物建たず

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みことば

みことばは みことばに成る バルト説
 実存思想 影響のあと

カール・バルトは改革派神学者てすが、「神のことば」の解釈で、もっと保守的な改革派神学者から批判されてきました。しかし、そこに実存思想の影響を見ることができるのではないでしょうか。彼は、初期、キェルケゴールの影響を受けたのです。ウェスレーなどの信仰に共感を覚える人たちは、バルト説にも一定の共感を覚えることができるのではないかと、私は思いますが。

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情報化

情報化 絆求めて 血眼に
 主体を映す 鏡忘れて

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寝床にて 涼しい朝を 満喫す
 今が一番 いい時だろう

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2006年8月26日 (土)

憎しみ

憎い人 やがて白骨 それを見て
 憎さ残らず あわれ噴き出す

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我思う 社会の中に 美があれば
 生きる楽しみ 増えるだろうに

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大志の誤解

サタン言う 大志抱けよ 少年よ
 我に仕えよ 栄えあげるよ

大志とは 自己実現の 意味なのだ
 サタンも使う 神のみ言葉

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沖縄の音色

沖縄の 子らと母らが やってきて
 踊り歩くよ 癒しの音色

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家庭の崩壊

心配だ お人形さんと おままごと
 子ども出来たら いのち危ない

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はるかなるヤマト

「大和は国のまほろば」(日本武尊)というが、この「大和」(やまと)は、古代に
朝廷のあった地方の名で、広く、日本の国名としても使われた。
   
この大和が、遠く、中央アジアに、その源があったかも知れないというお話。
   
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)によると、仲哀天皇(第十四代)の第
八年に、「弓月」(ゆづき)の王、功満(こうまん)が、日本の朝廷を公式訪問
したという。これは四世紀後半らしい。
   
この「弓月」(中国読みでは、クンユエ)は中国の史書「資治通鑑」にも記され
ていて、中央アジアにあったという。現在のアラル海とアフガニスタンとの間、
あるいは、バルハシ湖の南にあった、と言われている。景教研究者として知ら
れていた佐伯好郎博士によれば、この国はキリスト教の国であった。
   
この弓月から、功満王の子である融通王が1万8670人を率いて、応神天皇(
第15代)の第14年(372年かも知れない)に、日本に来た。そして帰化し
た。これが秦氏である。だから、1549年のザビエル来日以前にも、キリスト
教は日本に伝わっていたという説もあり、最近では、そちらの方も無視できなく
なっている。
   
当時は、万里の長城の建設に、中央アジアの人々も駆り出されていたが、その苦
役に耐えかねて、多くの人々が朝鮮半島や日本に逃げてきた。それは、朝鮮半島
の古代の石碑(好太王の碑文、5世紀)や、中国の史書(五漢書の東夷伝、5世
紀)にも記されているという。
   
弓月の人々も、その苦役を逃れて、朝鮮半島に逃れてきたが、その彼らを助けた
のが日本の天皇であったという。こうして、秦氏は日本に来た。
   
秦氏の故郷は、カザフ共和国東南部、キルギス共和国、新彊ウイグル自治区北部
あたり、「天山山脈」の北側のふもと、昔は「クルジア」といい、「弓月城」と
もいった。
   
ヨセフ・アイデルバーグというユダヤ人が書いた『大和民族はユダヤ人だった』
(たま出版)という本の中(202頁)で、秦氏の故郷であったクンユエ(弓月
)には、「ヤマトゥ」という地名があるという。
   
しかし、この地名は今はなくて、ヴァンミーター・美子さんが著書『幻の橋』(
レムナント出版刊)の中で、その位置を確認したという。英語の読み方では「ジ
ャマティ」というらしい。
   
それによると、ヤマトゥは、中央アジアのバルハシ湖の南側、イリ川上流にあり
、昔、中国人が「弓月」と呼んでいた地域と同じ。秦氏が、そこに住んでいた時
に、自分たちで呼んでいた名称かも知れない。
   
秦氏が日本に来た。彼らは、奈良や京都に多く住んで、そのあたりが「ヤマト」
(大和、倭)と呼ばれるようになった。そして、日本全体を表す言葉となった。
秦河勝という名前は聖徳太子の伝記には出てくる。   
   
アイデルバーグ氏は、日本を「ヤマト」と呼ぶようになったのは、この中央アジ
アの「ヤマトゥ」に由来するのかも知れないと述べている。
   
同氏は、「ヤマトゥ」をヘブル語で読めば、「神(ヤハウェ)の民(ウマトゥ)
」の意味であるという。ヴァンミーター・美子さんによると、アラム語でも、ヤ
マトは「神の民」を意味するという。
   
以上は「日本・ユダヤ封印の古代史2」(徳間書店)に書かれているもの。秦氏を
研究していけば、日本がよく分かるかも知れないと思う。

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小泉人気

政治とは精神の規定のもとに置かれているのではない
それは生命の規定のもとにある
   
政治家であれば、
それは誰もが知っていること
   
しかし政治の世界でも精神の息吹を感じたい時もある
たとえ生命的原理・欲求に反していようとも
   
小泉人気は、そこにあるのだろう
サムライ的言動は日本人好みなのである

批判はあれども
「よくやった」という感想もあるだろう

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2006年8月25日 (金)

神観

最近、一神教という言葉が批判的に使われているようです。イスラム教原理主義者たちによる政治的に極端な活動、一方イスラエルの政治活動も共に世界平和を乱すといったことで、その背景にある一神教批判が続いています。

キリスト教も一神教ということで同じようにみなされているようです。しかし、キリスト教の正統教理は三位一体の神観です。父は「超越」、聖霊は「内在」、イエス・キリストは、「超越」と「内在」の間の「橋」という意味でしょうか。批判者たちは、「超越」のみが神と見ているようですが、伝統的には、それは異端とされています。ものみの塔は、そんな立場のようですが、経験的には、イエス・キリストの信仰という橋を通って内在の聖霊に触れ、そこで神を知るのではないでしょうか。「超越」の立場を絶対化、合理化して、内在、風とも表現されている聖霊の実感を考えないのは、神観の偏りと思われます。

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年とりて 少欲知足 標語なり
 姨捨山に 行く日を延ばす

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呆然

風が吹く いのちを運ぶ 吸うだけだ
 その力さえ ないと言われて

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幼児の死

子らが死す 世に出る前に なぜと問う
 答えを知らず 不可解残る

事故のため、また事件のために、生まれて間もなく亡くなる幼児たち。最近、そんなニュースが多いように思います。その幼児たちの存在の意味を問う時、回答が分かりません。その現実を前にして、「人生不可解」との思いを持ちつつ滝から身を投げるのではなくて、耐えて生き続ける、われわれは、そんな選択をしているのかも知れません。

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吉満義彦

Rimg0040_1 「吉満義彦を偲ぶ会」は、今でも年1回、行っています。提唱者は、始まった当時、上智大学教授であられた垣花秀武先生たちでした。府中のカトリック墓地には垣花先生の家の墓がありますが、そこには「かかわる霊魂ここに憩う」という文字が刻まれています。

私は、最初からのメンバーではありませんでしたが、その会の案内を大学の中で見た覚えがあります。そして興味を持ちました。

私が垣花先生と最初に出会ったのは、故岩下壮一神父の記念会の時でした。それから、垣花先生に誘われて、「吉満義彦を偲ぶ会」にも参加しました。毎年の会には欠かさずに出席しています。垣花先生が病気で倒れられてから、会の出席者はこじんまりとしたものになりましたが、それでも最近は、新しいメンバーが参加するようになりました。

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利と公

利に走り 公を破るは 身近なり
 憲法違反 日本に満ちる

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2006年8月24日 (木)

吉満義彦之墓

Rimg0036 今日、府中のカトリック墓地で吉満義彦の墓を発見しました(写真)。以前から、あるとは言われていたのですが、見つけることができませんでした。墓は二つあり、左側には「吉満家之墓」、右側には「ヨハネ エヴァンジエリスタ 吉満義彦之墓」と書いてありました。

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自己改革

人間は 関係なんだ 関係の
 見直しこそは 自分改革

自己規定 関係規定 同じこと
 自分を安く 売らずともよい

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墓が泣く 故人のためか いや違う
 残った人の 成長のため

過去はない 未来もないが 今はある
 墓は歴史の 今突入だ

過去は舵 今船長の 手にかかり
 確かな未来 日々近づくよ

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2006年8月23日 (水)

不適応

価値観の 相違があれば 不適応
 心を閉ざして 何も起こらぬ

対話とは 価値観理解 求めつつ
 了解の時 好奇心満つ

好奇心 独学の父 これあれば
 すべてが師にと なる日は近い

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共存

孔子いて 老子もいるよ 社会には
 気分は違う 共におれるか

壮年は孔子、中高年は老子に親しむことができる。うまく共存できればいいのだが。

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巡礼

人生は 旅だというが 巡礼も
 人生要素 祈りつつ行く

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進路

進路問う 飯食うために 決めたなら
 それで人生 決まってしまう

自分を限定しなければ生きていけない。その限定の決定において、その人の意識の中に反乱が起きなければ、それで人生は決まりである。

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カルト

昔、盛んだったシュプレヒコール調で
訴えるなら
   
「宗教は自由意志を犠牲にするな!
宗教は理性を犠牲にするな!」
   
自由意志と理性とは
人間であることのしるし
   
この二つからなる「リトマス試験紙」で
その宗教がカルトかどうかが分かる
   
しかし、この二つを葬りたい欲求も
人間の中に根強くある
   
そこから生まれる狂気の快楽
その伝道者はいくらでもいる
   
外なるカルトを生み出しているのは
内なるカルトなのかも知れない

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根なし草

根なし草 風に吹かれて 使命感
 コンプレックス それも吹かれて

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2006年8月22日 (火)

塔とパソコン

人が傲慢になった時
高い塔を造った
   
バベルの塔といわれたが
神の怒りに触れて、破壊された
   
言語が乱れ
互いの話す言葉が分からなくなったという
   
バベルの塔は人が造ったものだが
インターネットは天からの贈り物のように見える
   
言語は、ここでは再び一つになる
「人類は一つ」の夢を叶えられそうだ
   
まさか、再び、バベルの塔を造っているのではないと思いつつ
新ミレニアムの入口を入った

ところが、なんというミレニアムだ
期待はどこかに吹っ飛んだ

聖なる時間に入ったと思ったが
歴史は何も変わらなかった

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健康

バイキング 少量ずつを 多品種で
 健康のもと 恩師の教え

銀座の中華料理店で、バイキングによるクリスマスの祝いがあった。その時、M先生が、皆の皿にテーブルを回しながら、「少量ずつ、多品種がいい」といいながら、料理を取った。
その後、これが健康の秘訣なのだと、いろいろなところで教えられた。食物のリスクを回避する道だとも。誰にでも出来る、ちょっとした心がけによる健康法である。

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2006年8月21日 (月)

イマジン

イマジンは 観想なのか 念仏の
 行につながる 勧めのようだ

ジョン・レノンの曲「イマジン」は、浄土宗の観想に似ていると思う。浄土の観想。オノ・ヨーコさんとの「合作」というが、オノさんの中に、浄土宗の考え方に近いものがあったのではないだろうか。

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2006年8月20日 (日)

空即是色

8月20日早朝のラジオ深夜便で、作家・新井満さんが、般若心経の話をしていた。最近、自分で新訳を作ったのだという。その中で、色即是空はよく知られているが、それは半分の真理、もう半分の真理は空即是色、といったことを話されていた。空即是色という言葉と、その内容を私が最初に知ったのは、角川文庫『般若心経講義』(高神覚昇著)を通してであった。

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釈迦とイエス

釈迦の実存意識(生老病死という壁の前に立つ意識)は出家の動機であった。その共有が出来る弟子たちにとっては、仏教は、その点で分かりやすい宗教でもあろう。その後、悟りがあり、布教が続く。そこには連続性があり、断絶はない。

しかし、イエスの場合は、少し分かりにくくなる。彼にとっての実存意識は十字架の上での、「なぜ、見捨てたのか」という、あの言葉に見られる。彼の生涯の最後に出てくる。しかし、実存意識と、その解決が宗教の最初に来るべきだという理解からすれば、イエスの宣教というものは、釈迦の布教とは違う性質のもののように思える。

聖霊降臨が教会の誕生日と言われる。そこから宣教が始まる、という理解だってありうる。イエスの十字架は、実存意識と、その解決(「すべては終わった」)で、聖霊降臨後の教会の、弟子たちによる宣教の前提であったとすれば、理解できる。であれば、イエスの宣教活動と弟子たちによる宣教との関係は、どうなのだろう。そして、イエスは、いつごろから十字架を意識したのだろう。彼の宣教の最初から意識したのではないだろうが、その意識したころから、彼の宣教は限界を感じたのではないだろうか。

釈迦の最初に、イエスは最後に、実存意識を表明している。そこに仏教とキリスト教との違いがありそうだ。

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使命

不満だよ あなたの使命 そこにある
 大切にして 育てていこう

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裏切り者

ゴルバチョフと勝海舟は似ていると指摘するのは、電子工学者の西澤潤一さん。司馬遼太郎さんとの対談の中で言っている。(文春文庫『司馬遼太郎対話選集4 近代化の相剋』)

では、どこが似ているのか、裏切りの点だという。

「ゴルバチョフはソ連の指導者でありながら、従来の独裁体制を破壊して、産業構造でも競争方式の大幅導入などをやってのけた。ロシア人の幸福を志向してやっていることはよくわかりますが、ソ連の従来の国家体制から見れば多くの反対を押し切って体制破壊をやったことで裏切り行為になると思うんです。先生がよく書いていらっしゃるように、勝海舟のやったことも、幕臣でありながら幕府への裏切り行為でしょう」と西澤さんが言うと、司馬さんは「史上無類の裏切りでした」と応えている。

西澤「ゴルバチョフだって、あれは、社会主義体制に対する裏切者です」
司馬「だけど勝海舟もゴルバチョフも、なんか無心、無私の感じがするから、ソ連でもかれの旧原理への背反そのものについては議論ができない」

この二人については、何か、とんでもないことをしているような気がしていたが、その思いは、率直に言えば「裏切り」である。「裏切り」という最大の罪が罪でなくなるためには、無心、無私の心で、事を進めることだという。勝は自分を「幕臣」と言っていたが、見方を変えれば、幕臣どころか裏切り者。しかし、歴史が流れていって、二人は「よくやった」と思われている。

時に、歴史に判断を委ねることも必要だ。

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宣教の背後関係

ザビエルの宣教は確かにキリスト教福音の紹介であったが、同時に領土的野心とも、どこかで結びついていたのではないだろうか。宣教師たちは純粋な心であったとしても、どこかで地上的野心と結びついていたのではないだろうか。だから、地球の果てにまで、宣教が及んだのではないだろうか。

改宗者をつくることがスパイをつくることと、どこかで結びついているのであれば、時の為政者は警戒するであろう。

宣教の背後に地上的権力が存在している時、日本文化と妥協するといった配慮は生ぬるい姿勢とも感じられるのではないだろうか。そして、そんな姿勢がキリシタン禁制の背景にあったとしたら、秀吉の決断にも理があり、その後の鎖国にも同じ理を見ることができるのではないだろうか。

福音宣教は、被宣教国の文化を別の文化で置き換えることではなくて、その文化の完成に資するという要素でアプローチすることが、宣教のためには必要ではないだろうか。そんな視点の発見をしたのが内村鑑三であったとすれば、彼の発見はキリシタン宣教の失敗に対する反省を意味しているとも言える。

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2006年8月19日 (土)

自殺予防

死を思う 自殺をせずに その思い
 打ち明けてみよ 使命になるよ

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ユダヤ人

ユダヤ人 いつまで続く 戦闘ぞ
 約束の地に 安住遠く

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歴史のイフ

本能寺 少し遅れて 信長は
 パードレたちと 如何になるらん

信長はキリシタンとは友好的であったと歴史は伝えていますが、もう少し長く生きていたら、その友好関係は維持できたかどうか。あるいは、秀吉のキリシタン禁制と同じような処置をとったのではないだろうか。そんな思いがしています。

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よき国

よき国を 造らんとして 街中に
 老人多く 見かける日々よ

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キリスト教宣教の失敗

日本におけるキリスト教宣教の失敗は、日本文化の無視・軽視からくるのだろう、と思う。西洋的押し付け文化で、日本古来の文化が否定されてはたまらない、と、秀吉はキリシタン禁制の決断で思ったのではないか。そんな意識は、現在でも生きているのではないだろうか。

仏教でも教えられることは多い。それを異教として排斥する狭い意識が、外国人の宣教師的意識にあったのではないだろうか。それでは、日本での宣教は出来ないのである。内村鑑三は、そのことを直感的に知った。それは、あるいは今でも感じることがある。

諸宗教との対話は宣教の前提である。その意味では、最近は、仏教に造詣の深い神父が多いのは、心強いことだと思う。

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2006年8月18日 (金)

いい感じ

司馬遼太郎さんは、樋口陽一さんとの対談の中で、「日本がたとえ滅んだ後も、いい感じの国だったということを、あるいはいい感じの国民だったということを思われないと、何のために人間として生まれてきたのかと思いますよ」(文春文庫『司馬遼太郎対話選集4 近代化の相剋』167-8頁)と言っています。

「いい感じ」という言葉が、いいと思いました。生活に美学が必要ということと解釈しました。人間にとって、一番身近なのが生活です。自分に任されている生活に価値を付与すること、それは毎日の心がけと思います。

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2006年8月17日 (木)

日本の8月

日本の8月は、平和を祈る特別な時
いつまで続くか知らないが
この習慣はなくなりそうもない
   
戦争を知らない世代が
退廃した命の謳歌を続けている現代に
死はこっそりと隠れて近づいてくる
       
いや、その接近は既に
あちこちで知らされているが
その処方箋を誰も知らない
   
戦後半世紀も過ぎて
戦争の響きは遠のいたが
なぜか軍歌には引かれるものがある
   
だれも歌わなくなった軍歌だが
死を身近に生きた世代の遺言のようで
現代にはない調べが、そこにはある
   
必勝への決意表明を、この平和祈願月には歌えないが
今、見えない敵の攻撃を受けている魂には
一番慰められる歌でもある
   
死を前にして、どう死ぬかは
今の我々にとっては
生きる覚悟に通じる

武士道とは死ぬことと見つけたり
生死を日常的に問う生き方が
今、見直されている   
   

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終戦の日

死者想い 決意新たに 日が過ぎる
 夏も終わりと 活動準備

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ドイツ観念論

神論ず ルターの国に 始まりし
 観念論は 世界議論に

「神論ず」は「ルター」と「観念論」にかかる言葉。カントからヘーゲルまでの議論を考えていますが、ヘーゲルからフォイエルバッハ、マルクスの線とキェルケゴールの線は共にヘーゲルの展開でしょう。近世の哲学の中では、この観念論が一番重要なんだと思います。

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日米関係

思えば、米国は日本の「鎖国」を二度もぶち壊した。象徴的に言えば、一度目はペリー提督によって、二度目は原爆によって。

戦後の日本は米国の圧倒的影響下にある。一つは憲法によって、もう一つは安保条約によって。

米国の原点は欧州からの移民である。メイフラワー号でやってきた。移民の彼らは母国に帰ろうとは思わないであろう。再び、大西洋を渡って欧州に戻ろうとは思わないであろう。

彼らにとっての新天地は、今度は太平洋を越えた地、アジアである。そこで日本の開国は是非必要なことであった。日米関係は、米国の精神がアジアに渡るための道案内なのかも知れない。米国の目的は日本ではなくて、アジアなのだと思う。中国なのだろうか。

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2006年8月16日 (水)

靖国神社問題

現在の靖国神社問題はA級戦犯合祀や太平洋戦争に縛られている。しかし、この神社は、思えば、もっと歴史が古い。明治体制・近代日本の形成と結びついている。近代日本の終焉は敗戦、明治憲法の廃棄で形式は整ったが、一方、内容・精神に関しては靖国神社の「処置」の問題が残ったと思う。

首相・天皇が、現在のままで靖国神社に参拝したら、明治体制の継続を意図している、あの平和憲法体制は破られると、誤解されるかも知れない。

いくつかの解決案があるかも知れない。靖国神社の精神の相対化である。個別は個別としての権利はあるが、全体の中では相対化されなければならない。その全体が見えなくなると、個別が絶対化されてしまう。日本だって、アジアの中の日本、世界の中の日本という全体の中での視点が必要だ。靖国神社が日本の神社、日本の近代を形成した神社であることは、否定しなくてもいいが、それだけとなると、平和憲法体制の精神的中心が見えなくなってしまう。敗戦後の、その平和思想を前進させる精神的支柱をどこに求めるか、それが問われている。そして、今は、政治の問題になっている。この解決が見えた時、靖国神社は、その静謐を取り戻すことが出来るであろう。

それは、日本武道館での追悼式典かも知れない。天皇、首相などが出席しているのだから、日本としては公の事柄である。その意味では、すでに、解決案は実施されている。

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生活の秩序化

PHP文庫『なぜか、「仕事がうまくいく人」の習慣』(ケリー・グリーソン著)という本に、こんな記述があった。

「あなたは、毎日の生活の一部を変化させる作業のただなかにいる。その変化の指揮をとれるのは、あなたしかいない」(270頁)
「単純な生活を望むなら、毎日の仕事に秩序を取り入れよう」(258頁)
「環境とは、放っておけば、無秩序な方向に動いていくものだと認識すること。そうならないためには、整備された秩序を保持するよう努めることだ」(258頁)

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2006年8月15日 (火)

空の鳥

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■写真は、東京・杉並区の善福寺川ジョギングコースで見かけた、
「空を見る子供」の像



大空が青一色で染まり
宇宙が透明になったようだ
   
ひんやりした冬の一日
空に美しい音楽が流れる
   
口を尖らせた、お茶目な
小鳥たちの合唱だ
   
空の鳥は
我らの教師だというが
   
しかし、お前たちには悲しむ人の
心は分かるまい
   
愛を引き裂かれた人の
心は分かるまい
   
日々、昔の傷がうずいている人の
心は分かるまい
   
それでも、お前たちは
我らの教師なのだろうか
   
我らの捨てたものを再考すべし
と、小鳥たちはさえずっている
   
墓石に「無」の一字を残した
映画監督を想う時

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2006年8月14日 (月)

近代の狙い

近代の推進力に「自由と民主主義」があるだろう。それらは個人の自覚に向かっている。神はイスラエルを選ばれたが、それは旧約の時代のこと。新約の時代では、選びは個人に向けられている。それは民主主義によってもたらされる。
近代は実存意識を招来するのである。恐るべき決断の前に立たされる個人、それが近代の目的なのではないだろうか。この地点に立ち、この地点に人々を招く人は、この地点から超越していなければならないのである。

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ポストモダン

信仰を失った近代は立ち行かない。「近代は立ち行かない」、そんなため息をよく聞く現代を、人はポストモダンという。この雰囲気は次代に引き継がれていくだろう。

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定年後

定年後 生きる目当てを 失いて
 その問いかけに 老いは深まる

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お化け

お化けはね 自由意思から やってくる
 人間だけの 不可解さだよ

お化けでも 理解されれば 怖くない
 心理療法 目指すはここだ

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2006年8月13日 (日)

戦前

終戦の日が近づくにつれて、戦前の記録映像の放映される機会が多くなっている。5・15事件、2・26事件など、今の日本の中では、「どこの国のことなの」といった感想も出てきそうだ。

しかし、日本の戦前のことを今も教育されている外国の子供たちは、こんな状況が今も日本で続いていると思っているのではないかと、考えたりする。そして、「日本嫌い」にも大いに共鳴できるのである。

今は、日本でも戦前のことが自由に語られる。しかし、意識のギャップを感じる。それは、戦後が定着して、再び、戦前には帰らないという意味なのだろうか。

 

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故・小津安二郎監督の墓にある文字は「無」の一字。
「無」は、関が原の戦いで、山内一豊の将旗に書かれていた文字。その戦いで、一豊は、「無」の将旗を初めて使ったという(「功名が辻」4、司馬遼太郎、文春文庫、80頁)。

山内一豊の宗旨は最初、日蓮宗だったが、禅宗に宗旨がえした。

「無」は、単に無いという意味ではなく、多くの実りをもたらす「無い」という意味なのだろう。

だから、戦場で死ぬ時でも、その死が無駄にはならないという励ましの意味が、あるいは、そこに込められているのかも知れない。違うかも知れないが。

日本の無教会も、単に「教会否定」という意味ではなく、それも「制度教会批判」という意味では、ある程度主張しつつ、同時に、そこには、豊かな教会を生み出す原理が隠されているとの示唆が込められているのかも知れない。

無とか空とか、これは日本人の美学の中に定着しているのではないだろうか。

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成長

外界は 内と感応 できる場所
 秩序をつけて 内に取り込め

この秩序をつけるということが哲学の働き・使命なのでしょう。ですから、人間の成長には哲学的要素が働いているといってもいいと思います。これがないと、人間は成長できません。人生観・世界観は、人間が大きく成長するために前提であり、この前提をまず問うことから、人生を始めるべきと思います。

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中東危機

キリスト教保守派の聖書解釈から米国のイスラエル支持は分からぬもないが、アラブの人たちの気持ちも大切である。

紀元70年以来、世界を放浪してきたユダヤ民族への偏見・迫害はキリスト教世界のイスラエルに対する負債ではないのだろうか。謝罪だけでなく、償いが必要ではないのか。それは米国のように、単にイスラエル支持の表明で示すのではなくて、パレスチナのアラブの人々への正義の政策を前進させることでもあるのではないのだろうか。アラブの人々の、イスラエルに対する憎しみの感情に対して、キリスト教世界はユダヤ民族に対する償いという観点から、アラブの人々の福祉のために何事かをなす責任があるのではないのか。

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祈り

祈りはね 独り言では ないんだよ
 その誘惑は 常にあるけど

祈りは対話 神と世界と
 応えはね どこから来るか 分からない

祈ったら 応えの期待 なけりゃ駄目
 対話への道 心がけよう

独語から 対話への道 目指すなら
 静から動へ 歴史は動く

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2006年8月12日 (土)

金言の効用

金言は、自分で作らなければ意味がない。自分で作って、発信しなければ、これも意味はない。作成はブログを使えばいい。既に発信されているが、裏面糊付けの用紙に印刷して、手紙などに添えれば、面白い。

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2006年8月11日 (金)

二重予定

予定が二重予定となる時、神の中に悪の原因を確定する危険に近づくが、神を悪の原因にすることは許されない。神を存在の彼方にあって、存在を呼び出すもの、悪とは存在の欠如と考えれば、神と悪とは対極のものとして理解できる。
二重予定擁護論の中では、誰が予定から漏れたか、それは死の瞬間までは分からないという理由で、予定論の危険を避けようとする議論もある。しかし、それでも、選ばれた人々と、それに漏れた人々という人類二分割の中で、それと神の全能性を合わせ考え、「悪」の原因としての神を考えるとしたら、神を謎としてしまう。そこでは、再び、人間の良心と神の予定の「えこひいき」との葛藤が始まる。この葛藤に対して、神の主権に訴えて、議論を中断するという聖書の姿勢を、我々は知っている。ヨブにあり、パウロにもある。
しかし、人間の強められた良心、あるいは救われた理性は新たに宇宙との調和感覚に生き始める。その調和感覚が、新たなレベルでの実存意識であり、それは合理を超えたところにある。
イヴァン・カラマーゾフの訴える無神論擁護の心情を受け止めつつ、神観の深化が要請されている。二重予定と神の性質を人はどう調停できるか。それは神を存在論的に考えるよう促すが、その過程で、予定の二重性に言及しなければならないのだろうかという問いが生まれてきそうである。

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愛の構造

愛するとは、自分の別のあり方を欲すること   
なぜなら、今の自分は不幸だから
   
やがて死んでしまう、このちっぽけな存在に
自分は我慢できない
   
死んでしまう自分だが、
そんな自分に頑強に反対する自分がいる
   
この頑強に反対する自分にこそ、
何か、本当の自分がいるような気がする
   
私は存在
ちっぽけな存在
   
しかし、だから
大きな存在にあこがれる
   
大きな存在と共にいたい
それが愛するということだ
   
この大きな存在を神という
だから、人は神を愛する
   
神を愛さないでは、
人は生きていけない
   
そう言わない人たちは、
本当の神を知らないだけ
   
死を前にして、
人は、神を思わざるを得ない

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北朝鮮

北朝鮮の内部で不満がくずぶっている、という報道が出始めた。今までなかったことだ。何かが始まるかも知れない。これほどまで、連日、周辺国の異常意識の的になっているのだから、今のままで立ち行かないことは予想できるのである。民主主義の国であれば、選挙で新しい政権を作ればいいのだが、この国の明日を作るには、どんな手段があるのだろうか、と思う。

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2006年8月10日 (木)

逆説

通勤の 時間に学ぶ 今流行り(いまはやり)
 無為を避けんと 老子の学徒

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自覚的生き方

自覚的生き方というのは、自分なりの人生観・世界観を構築していくことである。その公表によって、客観性を高めていくことである。素材はたくさんある。哲学史・思想史の中に詰まっている。

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2006年8月 9日 (水)

対話

改革派の信仰の中では、改革が中途半端ということで、ルター派の信仰への批判があるのだが、その根拠として持ち出すのはアウグスチヌスである。特に、ペラギウス論争におけるアウグスチヌスの恩恵論である。

「我々の信仰の流れはパウロ・アウグスチヌス・ルター・カルビンである」と、プロテスタンティズムの信仰の系譜を、ある牧師から説明されたことがあった。
しかし、パウロもアウグスチヌスも、カトリック教会において聖人とされているのであれば、その教えについても権威を持つといえるだろう。であれば、あの16世紀の信仰的加熱は、どこか異常であり、対話は可能であるのだと思う。恐らく、改革者たちも、教会の革命を意図したのではなくて、教会の改革を求めたのであろう。

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鎖国と開国

鎖国は、今から思えば弊害をもたらした、と思える。鎖国とは、部分であるものが、正当な手続きを拒否して、全体を呼称すること、といえるかも知れない。もちろん、動機には同情する部分もあったのだが、結果的には「内弁慶」的意識を発達させてしまったのである。

鎖国の弊害は、自分の正確に位置づけを見失うということである。そのツケを払わされたのが幕末であった。

鎖国・開国、その揺れの中で日本の歴史は進んできた。戦後は開国の建前できた。しかし、日本思想の真の普遍性の自覚を欠いたところでの開国は、内部崩壊の危機をはらんでいる。その危機は現実になってきている。その課題に日本は今、直面しているのである。

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非神話化

ルドルフ・ブルトマンによる実存哲学の影響を受けた聖書解釈の新しい展開を「非神話化」という。放送大学では、「脱神話化」と言っていたが、最近は、この方の言葉が使われているのだろうか。

「非神話化」に対しては、保守的神学者たちから批判があった。聖書物語は神話ではない、事実なのだ、と、その真実性を守りたいという意図があったのだろう。ブルトマンは、そういう意図をあっさり、挑戦的に否定したので、聖書の確実性を否定する輩とみなされて、対立意識が高じたのかも知れない。しかし、「非神話化」の真理性は、今、新しく、臨床心理学の分野で見直されているのかも知れない。

河合隼雄氏の近著『神話の心理学』(大和書房)は、興味深い本である。「非神話化」と一脈通じるアプローチだと思う。ブルトマン学派の人たちは、当然、興味を持つことだろうと、思う。

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靖国神社

靖国神社は今では1宗教法人である。しかし、意識は、そうではない。靖国神社国家護持の動きがあり、宗教界では反対運動が起きた。建前としては当然である。しかし、本質・意識は、この神社は国家と固く結びついている。

この意識を重視して、問題の抜本的解決を図ろうというのが、麻生外相の提案なのだろう。宗教法人を返上して、特殊法人になればいい、という。靖国神社側としても、いつまでも1宗教法人の堅苦しい枠におさまり続けるのは面倒なのではないだろうか。傍から見ていても、もうそろそろなんとかして欲しいと思うのである。

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台風

水害をもたらす台風は歓迎されない。しかし、台風のおかげで、猛暑は一息つく。その点ではありがたい。

病気も歓迎されない。しかし、その病気のために、助かっている部分も、あるいはあるのかも知れない。その人が知らないだけなのかも知れない。

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摂理

摂理という韓国人教祖の女性に対する行為が社会問題になっている。その教祖は、かつて統一教会に所属したいたという。かつて、統一教会にも、同じような嫌疑がかけられたことがあった。その部分だけ、摂理は教祖によって引きずっているように思える。

大学紛争の前後の時期、統一教会の話を何度か聞いたことがある。教祖が再臨主、そんな前提がなければ成り立たないような内容であったように思った。カトリックもプロテスタントも、まだ再臨待望の時を共有しているのである。その点では同じ歴史認識だ。再臨主が来たら、教会の歴史は終わるのである。教皇も、その役目を終えるはずだ。ドストエフスキーが、その時、教会の主と、どんな議論が展開するか想像して、「カラマーゾフの兄弟」の中で描いている。しかし、再臨主の到来の時、そんな議論はないだろう。

統一教会は、イエスが来た時、ユダヤ民族が、彼を受け入れなかったことで、イエスの事業の「失敗」を指摘していた。今、再臨主が来ている。ユダヤ民族の相当する教会が再臨主を受け入れること、それが教会の選択すべきことで、そのことで、再臨主は使命を達成し、教会も待望信仰の実現の時に入る、そんな議論の展開であったように思う。教会は、そこまで大胆にはなれないであろうし、教会の待望する再臨主は、もし現れたならば、教会は、それを直ちに受け入れるに違いない。初臨の時には、匿名の中で現れたが、再臨の時には、匿名ではなく、栄光の顕現の中での現れであろうから、教会への説得など不必要なのではないだろうか。そんな疑問を感じていた。

統一教会は、そのような下心を抱きつつ既成教会へのアプローチを続けていたが、既成教会のガードが固く成功しなかったようだ。今は、余りマスコミの話題になっていない。しかし、再臨主への信仰のあり方を問うという点では、既成教会に対する、一つの問題提起であったように思う。再臨は、今は信仰である。しかし、いつかは実現するであろう。その時は知らない。どんなことが起きるのかもよくは分からない。あたかも肉体の死の時がいつか、またその時、何が起きるのか分からないように。

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見えない船

目をつむると見える、この船は
いったい、どこに行くのだろう
   
歴史という大河を
大勢の人間たちを乗せながら
   
ノアの方舟だった時には
船には動物の方が多かったのに
   
今では人間たちばかりの
異常な社会
   
一人だけの人間は
生きられないが
   
船の中では共鳴を糧にして
多くの人々がひしめき、生きている
   
それもまた
一つの生き物のようでもある
   
この見えない船は
いったい、どこに行くのだろう
   
船長とおぼしき人に聞いたら
「片道航路なので、誰も知らない」と言われた
   
それでも船中の人々に
不安の陰もない
   
共鳴に浮かれつつ我を忘れて
不安が目覚める時もない
   
集団から疎外された人間は
深淵を覗きこんだめまいを知っているのに
   
そして、めまいは
恐怖の予感なのに
   
今日もまた狂乱踊りで
日が暮れようとしている

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2006年8月 8日 (火)

愛国心

戦後の日本で「愛国」と言うと、
一部では「反動的」と誤解されるかも知れない。
   
その言葉が強く響いていた戦前に戻りたくないという気持ちが強く、
戦争の悲惨を経験した人たちの叫びが、そこに込められているともいえる。
   
「戦争はもう嫌だ」
その思いが「愛国」という言葉を葬っている。

しかし、「愛国行進曲」は、いい曲だ。
軍艦マーチの作曲者が作った曲で、元気が出る。
       
思えば、自分の祖国を愛せないというのは不幸に違いない。
では、祖国とは何か。
   
内村鑑三は、昭和2年9月4日の日記にこう書いている。
   
「この日また、ある事よりして、日本をわが愛人として愛するの幸福に気付いた。これは青年時代においてわが心を燃やした愛であるが、老年に至ってこれを復活するの必要を感ずる。日本とは、日本政府でもなければ日本人全体でもない。日本という、ある Mysterious personality である。これを愛し、これに仕えて、われは無上の幸福を感ずるのである」
   
Mysterious personality は、訳せば、「神秘的な人格」となる。
そんな日本を、誰が見せてくれるだろうか。

今、司馬遼太郎の本を読んでいるが、どれも面白い。
彼は愛すべき日本と日本人を描いている。

最近は、五木寛之さんと藤原正彦さんも
そんな日本を描いているように思える。

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2006年8月 7日 (月)

リセット

生きていて、人生をリセットしたいと思う時があるかも知れない。しかし、リセットできるのは1回限りである。それは洗礼・新生という言葉で表現されている。その後、そのようなリセットの時はない。

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終戦直後

8月6日からNHKラジオ深夜便で、五木寛之さんのアンコール番組が放送されているが、戦後の混乱のことなど、終戦の時期にぴったりだ。重い内容でもあり、長く、伝えていきたいものである。藤原ていさんの『流れる星は生きている』を思い出した。

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2006年8月 6日 (日)

洗礼

イエスは無罪であった。これは信仰であるけれど。従って、イエスは罪の許しのための洗礼を受ける必要はなかった。しかし、洗礼を受けた。なぜか。

それは他者のためかも知れないが、同時に、歴史の中に自分を関係させるためではなかったか。彼は洗礼によってヨハネの教団の一員となった。自己限定である。彼の展望が広がっていく時、彼はヨハネを解釈する。乗り越えるために。

16世紀の宗教改革は、このような乗り越えをしたのだろうか。アウグスチヌスを権威と認めているのだから、乗り越えではなく、その一部の強調というのが真相ではなかったのだろうか。

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普請中

普請中 建てる人なく 中休み
 人輩出の 時は遥かに

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病人の心

病人は 二つの心 持っている
 治りたいけど 治りたくない

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弱さ

人は言う 神信心は 弱さ故
 それでもいいよ 弱さに生きよ

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人生の目的

成長の 目的尽きず いつまでも
 死の間際まで 生きてる限り

生きている限り、人は成長し続けることが可能ではないかと思いました。

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避暑

暑き日に 涼みに入る コーヒー屋
 都会の避暑は 180円

ドトール店で、アイスコーヒーは1杯が180円也。

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プール事故

事故起きて 原因探る 数々と
 それも遺族の 癒しにならず

プールでの事故で原因探しが行われたが、なぜあの子が、という遺族の問いには、答えが見つからない。遺族の方々に慰めあらんことを。

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原爆忌

原爆忌 なぜあの人が 理由なく
 不条理の前 ただ黙すのみ

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2006年8月 5日 (土)

瞬間的回心

回心は瞬間的か漸進的か、という問いが、あるいはあるかも知れません。

ジョン・ウェスレーから始まるメソジスト教会は、回心の強調で知られていますが、その支流のひとつ、ホーリネス教会の信仰の柱は四重の福音といわれていて、それらは新生・聖化・神癒・再臨です。メソジスト教会からの別の支流である救世軍では新生・聖化の二つを教理としては認めていて、これは救い・潔(きよ)め、と言われています。

回心という言葉で何を意味するのか、それで瞬間的か漸進的かの違いが出てくるのだろう、と思います。普通は回心は新生、救いと結び付けられて語られているので、そこでは瞬間的ということになります。この関係は、こう説明されています。

「子供は瞬間的に、または少なくとも非常に短い間に女から生まれ、その後かれはだんだんと、ゆっくりと成長し、ついに大人になるのです。同様の仕方において、人は瞬間ではないにしても短い間に神から生まれるのです。しかし、彼が後にキリストの満ちみちた徳の高さにまで成長するのはゆっくりなのです。ですから、われわれの自然的な誕生と成長との間に存在すると同じ関係が、われわれの新生と聖化との間にも存在するのです」
(『ウェスレーの神学』野呂芳男他訳より)

この説明に賛成です。

仏教では悟りという経験がありますが、それも瞬間的なことと思います。

新生が誕生を意味するとすれば、それは人生で一回きりのことでしょう。その意味で洗礼は一回きりです。

宗教改革の初期に、幼児洗礼の是非が問われたことがありました。確かに、幼児に厳密な意味での新生・救いがあるとは思えないのですが、しかし、洗礼は、その幼児がやがて大人になって、その新生・救いに導かれるきっかけになれば、それでもよいのではないかと、私は思います。見えるものは見えないものを指し示しています。見えないものに支えられて、見えるものはあるのであって、その逆ではありません。もちろん反対意見もあると思いますが。

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風が吹く 聖霊が吹く 神が吹く
 神に逆らう それはきついよ

五木寛之さんのエッセイ集に『風に吹かれて』という題のものがあります。いい題と思います。風は聖霊の意味でもあり、聖霊は神ですから、「風の吹くまま」というのは「神の意思のまま」という意味にもなります。五木さんは、仏教徒なので、「他力のままに」という意味で、風という言葉を使っていると思います。

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2006年8月 3日 (木)

塩野七生さん

書店に、塩野七生さんの著書が並んでいる。この人の本で、驚いた経験がある。

宗教改革関係の本は、よく読んできた。だいたいは、ルター側の情報が多いのである。当時の教皇の感想などは、全然、知らなかった。しかし、塩野七生さんの本には、その当時の教皇の気持ちが書かれていたので、びっくりしたことを覚えている。

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2006年8月 2日 (水)

信仰の二様態

信仰とは他力、絶対他力への態度であれば、自分の側では絶対受動となろう。浄土真宗では、それでいいのだろうが、日蓮宗の信仰は別の意味ももっているように見える。

同じことはキリスト教にもいえる。自分の側に、疑わないで信じ続ける「強さ」を持て、そんな意味のイエスの言葉もある。信じて疑わなければ、山も動く、と言うが、そこには他力ではない別の信仰が語られているように見える。

信仰の二様態とでも言おうか。私は他力で生きたいのではあるけれど。

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新宿を臨む

新宿を 遥か眺めて 中間に
 真田堀あり 城の内外(うちそと)

堀近く 城の内には 聖堂が
 風景のごと 沈黙の船

城の外 庶民の心 場違いか
 武家旗本の 屋敷跡なり

そのもとい 日露戦争 勝利なり
 国家の思い 働きてあり

視点変え 城より見れば 戦国の
 遠い昔の 回想さそる

個と普遍 その関係は 逆転も
 中間にいて 初めて知らる

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辺境の力

倒幕で力があったのは薩摩・長州であった。この二つには、ある共通項がある。共に辺境ということである。薩摩は日本の辺境、長州は本州の辺境である。辺境の力を思い知らされた次第。

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神国

日本は神国だ、と、かつて森氏が首相の時、そう言った。顰蹙を買った。

しかし、このことを言った人は、以前にもいた。秀吉である。キリシタン弾圧の理由に使った。どういう意味なのかは知らない。キリシタンの外国側の隠れた計画として日本を奪う意志を察して、最大限の反論をしたのが、この言葉であったのだろう。

その意味は皇室をいただく国という意味なのか、いざという時には神風が吹く国という意味なのか。

神国日本論とキリシタン宣教は、悪い関係になれば喧嘩になる。しかし、両方を生かす道が最善なのである。内村鑑三は二つのJと言ったが、それはJAPANとJESUSであった。彼はキリシタンの間違いも、秀吉の間違いもおかさなかったのである。

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2006年8月 1日 (火)

皇居1周ジョギング

皇居1周ジョギングをしている人たちを、よく見かける。距離が適当なのでしているのだろうか。それだけではないような気がするのである。

皇居は日本のシンボルの一つである。富士山と同じように。富士山を登りたがる人たちがいる。日本の象徴に自分を関係づけたい意識があるのだろうか。同じような意識が皇居1周ジョギングにないだろうか。

皇居は、ある意味で日本の中心である。日本の中心でジョギングをするという「快感」があるのではないだろうか。私は、まだしていない。しかし、いつか、そんな気分になるかどうか、試してみたいという思いはある。

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矛盾を生きる

平和憲法と日米安保条約は矛盾である。しかし、両方とも現実である。(象徴)天皇制と国民主権は矛盾とも思える。しかし、両方生きている。

日本の体制は矛盾の総合である。総合だから、揺れることもあるし、崩れることもあるだろう。しかし、この総合に生きる人たちが歴史を造っていくのだろう。

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