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2006年8月11日 (金)

二重予定

予定が二重予定となる時、神の中に悪の原因を確定する危険に近づくが、神を悪の原因にすることは許されない。神を存在の彼方にあって、存在を呼び出すもの、悪とは存在の欠如と考えれば、神と悪とは対極のものとして理解できる。
二重予定擁護論の中では、誰が予定から漏れたか、それは死の瞬間までは分からないという理由で、予定論の危険を避けようとする議論もある。しかし、それでも、選ばれた人々と、それに漏れた人々という人類二分割の中で、それと神の全能性を合わせ考え、「悪」の原因としての神を考えるとしたら、神を謎としてしまう。そこでは、再び、人間の良心と神の予定の「えこひいき」との葛藤が始まる。この葛藤に対して、神の主権に訴えて、議論を中断するという聖書の姿勢を、我々は知っている。ヨブにあり、パウロにもある。
しかし、人間の強められた良心、あるいは救われた理性は新たに宇宙との調和感覚に生き始める。その調和感覚が、新たなレベルでの実存意識であり、それは合理を超えたところにある。
イヴァン・カラマーゾフの訴える無神論擁護の心情を受け止めつつ、神観の深化が要請されている。二重予定と神の性質を人はどう調停できるか。それは神を存在論的に考えるよう促すが、その過程で、予定の二重性に言及しなければならないのだろうかという問いが生まれてきそうである。

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コメント

神の話しをするときには、一義的に明確で確定的な神の存在証明も必ず合わせてして下さらないと、「太平洋を牛蒡でかき回す」感になります。
 

投稿: 一般法則論者 | 2006年8月16日 (水) 23時36分

「一義的に明確で確定的な神の存在証明」と言われています。

かつて、中世の神学者トマス・アクィナスによる「神の存在証明」というものがあり、関心を持ったことがありました。しかし、それは「証明」といえるものなのかどうか。少なくとも反論を拒否する数学的証明ではないように思いました。

このあたりは、山田晶氏の『トマス・アクィナス』に詳細な解説があると思います。そして、カントの純粋理性批判は、理性による神の存在証明が不可能というのが結論だったのではないでしょうか。中世と近世の立場の違いがあります。

本当は、ここで、トマスによるカントの再批判というものが必要なのですが、死んだトマスが生き返るわけにもいかず、常識的に望むべくもありません。しかし、トマス学派の課題ではあると思います。

神は証明されるものではなくて、要請されるものである。その存在が、どうしても要請されるものである。それが神の存在の証明である。放送大学で「自己を見つめる」という講義があり、15回、全部聞きましたが、講師の最後の言葉は、そう言っているように思いました。

投稿: | 2006年8月17日 (木) 06時11分

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