« 小泉人気 | トップページ | 家庭の崩壊 »

2006年8月26日 (土)

はるかなるヤマト

「大和は国のまほろば」(日本武尊)というが、この「大和」(やまと)は、古代に
朝廷のあった地方の名で、広く、日本の国名としても使われた。
   
この大和が、遠く、中央アジアに、その源があったかも知れないというお話。
   
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)によると、仲哀天皇(第十四代)の第
八年に、「弓月」(ゆづき)の王、功満(こうまん)が、日本の朝廷を公式訪問
したという。これは四世紀後半らしい。
   
この「弓月」(中国読みでは、クンユエ)は中国の史書「資治通鑑」にも記され
ていて、中央アジアにあったという。現在のアラル海とアフガニスタンとの間、
あるいは、バルハシ湖の南にあった、と言われている。景教研究者として知ら
れていた佐伯好郎博士によれば、この国はキリスト教の国であった。
   
この弓月から、功満王の子である融通王が1万8670人を率いて、応神天皇(
第15代)の第14年(372年かも知れない)に、日本に来た。そして帰化し
た。これが秦氏である。だから、1549年のザビエル来日以前にも、キリスト
教は日本に伝わっていたという説もあり、最近では、そちらの方も無視できなく
なっている。
   
当時は、万里の長城の建設に、中央アジアの人々も駆り出されていたが、その苦
役に耐えかねて、多くの人々が朝鮮半島や日本に逃げてきた。それは、朝鮮半島
の古代の石碑(好太王の碑文、5世紀)や、中国の史書(五漢書の東夷伝、5世
紀)にも記されているという。
   
弓月の人々も、その苦役を逃れて、朝鮮半島に逃れてきたが、その彼らを助けた
のが日本の天皇であったという。こうして、秦氏は日本に来た。
   
秦氏の故郷は、カザフ共和国東南部、キルギス共和国、新彊ウイグル自治区北部
あたり、「天山山脈」の北側のふもと、昔は「クルジア」といい、「弓月城」と
もいった。
   
ヨセフ・アイデルバーグというユダヤ人が書いた『大和民族はユダヤ人だった』
(たま出版)という本の中(202頁)で、秦氏の故郷であったクンユエ(弓月
)には、「ヤマトゥ」という地名があるという。
   
しかし、この地名は今はなくて、ヴァンミーター・美子さんが著書『幻の橋』(
レムナント出版刊)の中で、その位置を確認したという。英語の読み方では「ジ
ャマティ」というらしい。
   
それによると、ヤマトゥは、中央アジアのバルハシ湖の南側、イリ川上流にあり
、昔、中国人が「弓月」と呼んでいた地域と同じ。秦氏が、そこに住んでいた時
に、自分たちで呼んでいた名称かも知れない。
   
秦氏が日本に来た。彼らは、奈良や京都に多く住んで、そのあたりが「ヤマト」
(大和、倭)と呼ばれるようになった。そして、日本全体を表す言葉となった。
秦河勝という名前は聖徳太子の伝記には出てくる。   
   
アイデルバーグ氏は、日本を「ヤマト」と呼ぶようになったのは、この中央アジ
アの「ヤマトゥ」に由来するのかも知れないと述べている。
   
同氏は、「ヤマトゥ」をヘブル語で読めば、「神(ヤハウェ)の民(ウマトゥ)
」の意味であるという。ヴァンミーター・美子さんによると、アラム語でも、ヤ
マトは「神の民」を意味するという。
   
以上は「日本・ユダヤ封印の古代史2」(徳間書店)に書かれているもの。秦氏を
研究していけば、日本がよく分かるかも知れないと思う。

|

« 小泉人気 | トップページ | 家庭の崩壊 »

コメント

ヤマトという地名は、秦氏がいる前から存在するので違うでしょう?

投稿: | 2007年6月11日 (月) 14時04分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104898/11614421

この記事へのトラックバック一覧です: はるかなるヤマト:

« 小泉人気 | トップページ | 家庭の崩壊 »