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2006年8月 5日 (土)

瞬間的回心

回心は瞬間的か漸進的か、という問いが、あるいはあるかも知れません。

ジョン・ウェスレーから始まるメソジスト教会は、回心の強調で知られていますが、その支流のひとつ、ホーリネス教会の信仰の柱は四重の福音といわれていて、それらは新生・聖化・神癒・再臨です。メソジスト教会からの別の支流である救世軍では新生・聖化の二つを教理としては認めていて、これは救い・潔(きよ)め、と言われています。

回心という言葉で何を意味するのか、それで瞬間的か漸進的かの違いが出てくるのだろう、と思います。普通は回心は新生、救いと結び付けられて語られているので、そこでは瞬間的ということになります。この関係は、こう説明されています。

「子供は瞬間的に、または少なくとも非常に短い間に女から生まれ、その後かれはだんだんと、ゆっくりと成長し、ついに大人になるのです。同様の仕方において、人は瞬間ではないにしても短い間に神から生まれるのです。しかし、彼が後にキリストの満ちみちた徳の高さにまで成長するのはゆっくりなのです。ですから、われわれの自然的な誕生と成長との間に存在すると同じ関係が、われわれの新生と聖化との間にも存在するのです」
(『ウェスレーの神学』野呂芳男他訳より)

この説明に賛成です。

仏教では悟りという経験がありますが、それも瞬間的なことと思います。

新生が誕生を意味するとすれば、それは人生で一回きりのことでしょう。その意味で洗礼は一回きりです。

宗教改革の初期に、幼児洗礼の是非が問われたことがありました。確かに、幼児に厳密な意味での新生・救いがあるとは思えないのですが、しかし、洗礼は、その幼児がやがて大人になって、その新生・救いに導かれるきっかけになれば、それでもよいのではないかと、私は思います。見えるものは見えないものを指し示しています。見えないものに支えられて、見えるものはあるのであって、その逆ではありません。もちろん反対意見もあると思いますが。

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