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2006年8月20日 (日)

釈迦とイエス

釈迦の実存意識(生老病死という壁の前に立つ意識)は出家の動機であった。その共有が出来る弟子たちにとっては、仏教は、その点で分かりやすい宗教でもあろう。その後、悟りがあり、布教が続く。そこには連続性があり、断絶はない。

しかし、イエスの場合は、少し分かりにくくなる。彼にとっての実存意識は十字架の上での、「なぜ、見捨てたのか」という、あの言葉に見られる。彼の生涯の最後に出てくる。しかし、実存意識と、その解決が宗教の最初に来るべきだという理解からすれば、イエスの宣教というものは、釈迦の布教とは違う性質のもののように思える。

聖霊降臨が教会の誕生日と言われる。そこから宣教が始まる、という理解だってありうる。イエスの十字架は、実存意識と、その解決(「すべては終わった」)で、聖霊降臨後の教会の、弟子たちによる宣教の前提であったとすれば、理解できる。であれば、イエスの宣教活動と弟子たちによる宣教との関係は、どうなのだろう。そして、イエスは、いつごろから十字架を意識したのだろう。彼の宣教の最初から意識したのではないだろうが、その意識したころから、彼の宣教は限界を感じたのではないだろうか。

釈迦の最初に、イエスは最後に、実存意識を表明している。そこに仏教とキリスト教との違いがありそうだ。

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