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2006年9月30日 (土)

戦後の明るさ

終戦後 占領されて 気は軽く
 皇室もまた 米国配慮

独立し キリスト教も 離れたか
 主体形成 模索が続く

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2006年9月29日 (金)

陰徳

陰徳を 趣味になしたし 金はなく
 寄付を求める 振替用紙

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背後の武力

フスタ船 鎖国の因を 思う時
 背後の武力 ない時はない

フスタ船という言葉が日本史に初めて登場するのは、1587年(天正15年)、秀吉の九州征伐の時です。イエズス会のコエリヨ神父がフスタ船で博多を訪れた際、秀吉は大砲の威力に驚いて宣教師の追放を命じたのです。これがそもそものきっかけで、その後、1596年(慶長元年)にサン・フェリペ号事件が起きます。そこに宣教師がいたため、宣教師追放令に違反したものになりました。こうして26人の処刑となりました。

キリシタンの宣教が失敗したのは、もちろん、宣教活動と背後の武力が露骨に結びついていた、あるいは、そんな失言があったためでした。その意味では、鎖国も、当時としては仕方なかったかな、と思います。

しかし、異なる文明が衝突する時、武力がちらつくのは、ペリーの時もそうでしたし、マッカーサーの時は、もっと激烈でした。

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カウボーイ文化

カウボーイ 心の奥は 羊飼い
 聖なる歴史 継承者なり

想像です。

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仕事の時間

歩く時 人は仕事を しないけど
 それでもできる ことがありそな

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共産主義社会

旗の色 理想社会を もたらすに
 命引き換え 昔ながらに

共産主義の旗の色は赤です。なぜ赤なのか、その源はフランス革命だそうです。この革命の時、パリ市民が人民の血で染まった赤い旗を革命の旗印にしたのが起源だそうです。血は命だ、と聖書にありますが、命との引き換えでなければ、新世界はやってこないということでしょうか。

ということは、戦後日本の平和は、太平洋戦争で死んだ多くの人々の犠牲の上にもたらされたということなのかも知れません。

今、多くの日本人は戦後社会を享受し、評価しています。そのことを思う時、戦死者たちの死は無駄死にではなかった。そう思います。

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ネット社会

未知の国 ネット社会に 立ち入りて
 探検気分 満喫楽し

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回帰

西洋の 輝き失せて 回帰する
 足元学ぶ そんな時代に

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死の準備

死の準備 する人割りに 長生きで
 体信号 対話欠かさず

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永らえる命

後世の 人に知られて 永らえる
 私はいかに 知られるのかな

秀吉は私を知らない。しかし、私は秀吉を知っている。私の中で、ある意味で、秀吉は生きている。こんな命の説明を、放送大学で聞いたことがありました。もちろん、秀吉の例えは出てきませんでしたが。

永らえる命は「永遠の命」ではありません。だから、人間には不満が残る。講師はそんな指摘をしていました。

さて、逆に考えたら、私は無名といっても、それでも私を知る人はいる。どのように覚えられるのだろうか。後世の人々に、覚えられ方を配慮することも、現在の私の生き方にとって、大切なことなのではないだろうか。そんなことを思います。

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2006年9月28日 (木)

方向意識

般若心経にある色即是空・空即是色は、正反対の方向意識である。色即是空が不幸の、空即是色が幸福の方向意識である。

イエスは山上の垂訓で、心の貧しい者、悲しむ者を、それぞれ幸いと言った。それは恐らく、現実を見てのことではなくして、方向意識が幸福のそれであったという意味なのだと思う。そうすれば、納得できるのである。

空から色に行く道が幸福であるとすれば、色が形をとっていく時、その地点で、空を見たら、色即是空になって、不幸意識に転落してしまう。だから、空即是色で一貫していくためには、現在の色を見ないことが大切である。

美空ひばりが言った「今日の我に明日は勝つ」の言葉が、空即是色で一貫した生き方なのであろう。

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無抵抗

テロありて 無抵抗説く 主の言葉
 復讐心の なき故にこそ

身を守る 正義求める それはよし
 無抵抗とは 異なりたるも

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カント

啓蒙の 旗かかげしも カントには
 理性万能 その罪はなし

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煉獄

煉獄は 信ぜず死んだ 先祖への
 対策なりと 歴史は語る

『「聖書」で人生修養』(谷沢永一・渡部昇一著、到知出版社)の中で、渡部氏が「「煉獄」とキリスト教」の項目(72-75頁)で、そんなことを紹介しています。

日本にキリシタン宣教の開始のころ、信じる機会のなかった先祖は救われるのかといった疑問か出ていましたが、そこで煉獄という解決策を提示したのかどうか。

普通のカトリック信徒は、死んだら煉獄行きと思っている人が多いかも知れませんが、煉獄という教えの原点は、洗礼を受けなかった先祖の魂の行き場なのだと説明されています。

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米国の思惑

憲法と 日米安保 それでいい
 アジア経営 その緒につけり

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2006年9月27日 (水)

渡部昇一さん

上智大学名誉教授の渡部昇一さんは若い時からテレビに出て、盛んに評論活動をしていた。しかし、自分のキリスト教信仰については余り語らなかったと思う。

しかし、実は、上智大学在学中、ボッシュという神父の影響を受けて、「この人が言うことならよかろうということで入信した」(『「聖書」で人生修養』谷沢永一・渡部昇一著、到知出版、平成10年)と記している。

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読書の楽しみ

万巻の 書を読みたくて 乱読す
 驚きを得て 世界に発す

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記憶

時は謎 昨日のことは 忘れても
 昔のことは ハッキリ記憶

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権力

権力を 手にして夫婦 笑み涙
 そんなに魅力 あるのだろうか

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2006年9月26日 (火)

酔っ払い天国?

酔っていた 免責だった この間
 今は重罰 事故がなくとも

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天才

孤独には 耐えられないと ひたすらに
 知識集めて まぎらわすなり

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2006年9月25日 (月)

信仰と修行

信仰は 絶対他力 修行また
 必要である 矛盾はしない

絶対他力の信仰は、人間の努力で救われるのではないから、修行は必要ないと考える人がいるかも知れません。

救いを得るための修行は必要ないでしょうが、得られた救いの維持・発展のためには修行は必要、不可欠です。

そこで、どんな修行が必要なのかというと、単刀直入に救いの体験という原点を記憶させるための修行が必要となります。

その修行によって、原点の記憶が新たな着想を生み出すし、またそこに力と未来の方向性が生まれてくるからです。

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バルト批判

聖書論 バルト批判は あるけれど
 カントの説を 重ねてみれば

バルトは聖書論で、「聖書は神のことば」の客観主義に立っていないということで、プロテスタントの保守的な信仰者から批判されていますが、その聖書論には、何かカントの認識論と重なる一面があるように思います。そんな思いがしています。

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啓蒙期管見

中世を 完全離脱 啓蒙期
 それでも神を 求めるカント

啓蒙に 文化命令 思うなら
 近代やはり 続中世か

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戦前

戦前は 軍隊ありて 遠い国
 緊張感が あった時だよ

戦前は今から思うと、何か遠い国のようです。その理由は、きっと軍隊があったからでしょう。2・26事件など、今では、この国であったと想像できないくらいです。そのためか緊張感もあったと思います。そして、今よりも、人材が輩出していたと思います。

戦前よりも今の方がよいと思いますが、新しい課題も出ています。

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2006年9月24日 (日)

ソ連追憶

ソ連消え シベリア映画 ウソだった
 それでも見たい 映画と国を

シベリア映画というのは、かつての「シベリア物語」という映画です。最後の「映画」は「シベリア物語」で、「国」は、「シベリア物語」が歌い上げた「ソ連」という国です。今思えば、理想国=ソ連は、錯覚だったのかも知れません。国は見ることができませんが、映画は見ることができるはずです。しかし、最近はなかなか上映されません。

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南無

日本の仏教には、南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経という言葉がある。南無とは帰依を意味する。

宗教の信仰を表現する言葉としては、私は南無阿弥陀仏の方に共感する。ストレートな表現であると思う。

一方、南無妙法蓮華経には宗派争いの背景を感じている。法華経に帰依するという意味なのだろう。だから、法華経至上主義である。しかし、信仰内容が直接に語られているわけではない。

キリスト教で言えば、法華経は宗教改革者ルターにおけるガラテヤ書に匹敵するのかも知れない。「南無ガラテヤ書」、それが宗教改革の旗印であった。具体的には、ストレートには、信仰義認の信仰なのである。

信仰義認は、ルターが訴えた16世紀以来、多くの日を経て、その主張が受け入れられる日が来た。ルターの信仰の後継者たちが、ルターが批判したカトリック教会との間で信仰義認で合意したからである。

日本の法華経至上主義教団には、大教団がある。しかし、救いの道を端的に、そのものずばりと教えているのは、浄土教、浄土真宗の南無阿弥陀仏ではないかと、私は思う。

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老人の使命

最近は 老人力の 言葉出て
 力発想 壮年続き

人生の 告解こそが 老人期
 その特有の 使命と思う

告解というのは、カトリック教会の言葉ですが、ここでは、もっと一般化して、自分の人生を振り返り、心残りのことにきちんと向き合い、整理する期間という意味です。

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2006年9月23日 (土)

安楽岡登馬

安楽な 岡を目指して 我は行く
 背に乗る馬は 登馬と言えり

「やすらおか・とうま」という名前の意味を記します。

「神共にいますことが最も良いことである」(ウェスレー)の「神共にいます」が安楽の意味です。それは人生の目的なのですが、同時に人生という旅の最初にもある経験でもあります。

その岡を目指す登山の中に、モーセがシナイ山を登るイメージが重なります。

その登山は馬に乗るのですが、その馬の名前が「登馬(とうま)」で、トマスと重なります。トマス・アクィナスのことです。

もちろん、自力救済とか、神人協力の半ペラギウス主義とか、それらが全体の基調をなしているのではありません。

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経験吟味

カイロスの 経験吟味 同じこと
 反復したら どうであろうか

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2006年9月22日 (金)

徒然

紀子さま
紀子さまの 満面の笑み 見とれます

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アンカーの声

アンカーの 声に聞き惚れ 今日もまた
 深夜便聞く 心満たされ

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風が吹く 勝ち組負けて 負け組は
 風にゆだねて 何とか生きる

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日ユ同祖論

日本人とユダヤ人は先祖が同じ、いや日本人の先祖のうちにユダヤ人がいた、という仮説が日ユ同祖論だが、その主張者にはキリスト教関係者が多い。ホーリネス教会の中田重治も、その一人であった。彼は再臨運動で内村鑑三と一緒に活動したが、内村も、この仮説を知っていたのだろうか。もちろん、知っていたのである。彼も日ユ同祖論者というわけにはいかないだろうが、好意的にこの説を紹介していた。1924年、『聖書之研究』に載った「日本の天職」という文章の末尾に、その言及がある。

今まで、余り関心を持たなかったが、内村の主張と日ユ同祖論との関係を比較してみるのも、内村研究のひとつの面白いテーマになるのではないだろうか。

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2006年9月21日 (木)

敵にも魅力

論争し 対立してる 両者だが
 共に魅力を 感じる私

かつて、ウェスレーとカルビン主義の信仰者の間に論争がありました。その影響は、今でも、それぞれの教派に残っています。しかし、ウェスレーの信仰にも、またカルビンの信仰を受け継ぐカルビ二ズムにも、それぞれ魅力があります。自分を一方に縛るのは、自分のアイデンティティのためには必要なのですが、対立している別の方が正しいのではないか。そう思う時、この思いをどう理解したらいいのでしょうか。

理解のより大きな包括性への志向がいいのかも知れません。しかし、それは今までの信念体系を壊すことであり、ある意味では苦痛でもあります。未来を切り開く、創造的・生産的視点を探しています。

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がん

人は言う がんは優しき 病なり
 死への準備 させてくれるよ

がんは怖ろしい病気だというイメージがありますが、人に優しい病気だという人もいます。

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教皇発言

教皇発言がイスラム教の人々の怒りをかっていて、国際問題になっている。問題は聖戦に関しての発言である。批判されているのは聖戦と暴力との関係に関してである。

最初、なぜ批判されるのか、分からなかった。暴力否定は当然ではないか。

しかし、暴力が聖戦と結びつき、その聖戦がイスラム教信仰の中で正当な位置づけを持っている時、この宗教は暴力を容認するのか、といった点で、議論が生まれる可能性がある。

イスラム原理主義者の行動は、この宗教の一部の人たちの行動で、全体ではない。全体的には平和志向なのだと、私は思う。それでも、聖戦という、相手にとっては「暴力」と見える対応が、この信仰の、どのあたりに位置づけられるのか、という点が問題である。教皇発言に怒っているイスラム教の人たちは、中心的な部分に結びついていると解釈したのではないだろうか。そう解釈した時、イスラム教の人たちの怒りというものが分かるのである。そして、事は重大であることが理解されるのだ。

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神の存在の証明

トマス・アキィナスに神の存在の証明がある。おかしいと思った。そんな証明があれば、無神論はなくなるはずではないか。しかし、現実はなくなっていない。証明というと、数学的証明を考えていたからだ。しかし、トマスの証明は、神の存在の要請というものであった。彼の師匠アリストテレスも神といったが、そこには要請されている神があるのだろう。デカルトにも、同じような神の存在の証明がある。内容は違っていても、存在が要請されている神という点では同じと思う。

アリストテレスの古代哲学、トマス・アキィナスの中世哲学、そしてデカルトの近代哲学も、みな神の存在の証明という点に関心があったのだ。しかし、その中で、トマスだけは、啓示の神というものを知っていた。啓示の神にまで至らなければ、私の語感では、神の存在の証明というものは不十分なのである。

啓示の神というのは聖霊における神とでもいえる。このような神は、すべての人の神にはなっていない。だから、信じる人もいるし、信じない人もいる。そして、現実は、有神論者もいれば無神論者もいる。だから、現実に適合している考え方なのだ。

神の存在の証明というものは、何か誤解されるような言い回しである。そこで現れてくるのは自然神学の神である。それに対して啓示の神が出てくるが、それは自然神学の神と同じである。そこで、理性は神を知ることができるが、理性だけでは知られない、という言葉も出てくる。存在だけは知られる、しかし、それ以上は無理ということである。

自然神学的な神の存在の証明があってもいい。しかし、それですべてだというと、デカルトに不満を感じていたパスカルの反応がうまれてくるだろう。パスカルは啓示の神について語っているのである。デカルトが啓示の神について語ることができれば、パスカルの不満はなかったろう。しかし、それでは中世哲学と同じになってしまう。デカルトは近世・近代の人であった。

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2006年9月20日 (水)

近代哲学

今、放送大学で、「近代哲学の射程」というラジオ授業が放送されています。講師は、円谷裕二・九州大学教授です。西洋近代哲学を非常に分かりやすく説明されています。驚きました。

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規制緩和

問いかけた 規制緩和 真意どこ
 動機支援 やる気回復

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出世

出世して 喜ぶ我に サタン来て
 ようこそ言われ 目が覚めた朝

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観想の目的

トラピスト 発信盛ん なぜだろう
 みことば分かち 観想目当て

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異端

教会は 目的手段 共にあり
 一つになすは 異端となれり

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日本の使命

国技では 勝負直ちに 決まるけど
 サッカー盛ん 日本いずこに

外人が 国技乗っ取り 首相まで
 外地で自嘲 国技外交

東西の 混合地点 それでいい
 日本の使命 まさにこれなり

内村は やはり先駆者 はっきりと
 日本の使命 歴史に刻む

国技とは大相撲で、小泉首相がモンゴル訪問の折、日本の相撲はチンギスハンに乗っ取られたと言ったら、モンゴルの人々は大喜びだったとか。内村とは内村鑑三のことで、彼は、生涯、日本の使命を考え続けていました。

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2006年9月19日 (火)

カフカ賞受賞

春樹さん カフカ賞得る 人気者
 自分探しは 世界に及ぶ

春樹さんとは、作家・村上春樹さんのこと。『ノルウェイの森』は自分探しがテーマともいえる。世界中で、この作家の本は、よく読まれているのだという。次はノーベル賞かも、という人もいるらしい。

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言葉遊び

短歌ちょう 言葉遊びに 打ち興じ
 心の呼吸 健康法だ

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大相撲秋場所

毎日の 真剣土俵 あはれあり
 すがすがしさの 朝青龍よ

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2006年9月18日 (月)

世の子ら

目先のみ とらわれ生きる 世の子らよ
 神の忍耐 仏の手中

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哲学志望

父は言う 手に職つけよ 哲学を
 志望する子の 未来案じて

その思い やがて知る時 来たけれど
 哲学歴史 長さを思う

あはれ見て 泣く子になれり 表現の
 手段を得れば 糧が続けり

鳥は鳴く 人も泣きます 共に「なく」
 空の中にて 耐えられずして

子があれば やはり言うだろ 手に職を
 堅実ライフ 親なら誰も

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インターネット大学

ラジオ深夜便で、9月16、17日、吉村作治氏(エジプト考古学者・工学博士・早稲田大学客員教授)が、インターネット大学を構想し、まもなくスタートするという話を聞きました。初めて聞く名前でした。放送大学は既にあります。今度はインターネット大学ということで、教育環境はどんどん変わっていきます。キャンパスはない、登校する必要はない、皆に開かれた大学、期待しております。

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イスラム思想

イスラムを 視野に収めぬ わが国に
 世界平和を 語る資格は

十字軍 反省しのち 現れた
 ドミニコ会の 出番は今だ

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平和

聖戦で 殉教者出て よしとする
 いのち尊ぶ 教えはどこに

聖戦は 好んで為すと 思うかい
 西側知らず やむにやまれず

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現代とは

大事件 起きて歴史は 急転す
 気づかぬうちに 新中世へ

9.11のニューヨーク・テロ事件がありました。それから世界の歴史は新しい局面に入りました。それは何か。米国の大統領は最初、十字軍という言葉を使いましたが、不適切ということで、「テロの戦い」という言葉で、軍事的行為を説明してきました。相手が、どういう団体かは分かっています。そして、歴史的中世と同じような意識が世界に充満しているような気がしています。キリスト教とイスラム教との抗争のことです。

日本では、イスラム教については余り分からないと思います。その経験がありません。しかし、世界に目を向けた時、イスラム教を知らないでは、現代を語れないと思います。日本が本当に世界の問題を論ずるには、この欠けをどう補うのかが、課題ではないでしょうか。イスラム研究の先達であった井筒俊彦氏の本を読んだことがありますが、後継者が求められているのかも知れません。

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2006年9月17日 (日)

死の体験

道元の著書『学道用心集』の最初に、「無常を観ずるとき、吾我(ごが)の心(しん)生(しょう)ぜず」という言葉があるようです。

中野東禅さん(京都・竜宝寺住職)は、『ラジオ深夜便』10月号の65頁で、「無常とは、人が死ぬことです。死が「実観」できた人間は「吾我の心」=「エゴ」が壊れると書いてある。死を直接体験した人、命には終わりがあるという事実にぶつかったことがある人間は、変わるんです」と説明しています。

死を直接体験したら、その人はもう生きていないわけだから、変わることも出来ないと思いますが、この場合の死とは、肉体の死ではなくて、ニヒリズムのことだと思います。

道元には、人間が変わるということについて、大死一番とか、身心脱落とかいう言葉もあります。これなど、キリスト教信仰者の方でも同感なのではないでしょうか。

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もののあはれ

文学の 本質何か 問われなば
 もののあはれと 宣長は言う

あはれとは 感動を指す 悲喜共に
 悲の深さには 何もかなわぬ

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飼いならし

飼いならし 司馬さん使う 他律の意
 神律の意味 あるかも知れぬ

司馬遼太郎さんは、西洋の宗教を飼いならしの機関であると、言っていました。少し、ネガティブな意味を感じました。しかし、飼いならしの言葉には、もっとポジティブな意味が含まれていることを知りました。しかし、司馬さんが、そんなポジティブな意味を込めて、この言葉を使ったのかどうか、そこには疑問があると思いますが。

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世紀展望

中世は 神律なれど 聖俗の
 混合ありて 他律となれり

他律には 自律が続く 世のならい
 かくて近世 現れいずる

その自律 神律含み 進展し
 観念論の 歴史形成

観念論はドイツ観念論を指します。

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2006年9月16日 (土)

近代の超克

ヘーゲルで 近代終わり 現代が
 生まれたのなら 超克はなぜ

ヘーゲル(1770~1831)は近代哲学の頂点で、その後が現代哲学という定義があるようです。であれば、戦時中(1942年)、現代哲学の期間において、「近代の超克」が語られたのは、なぜなのだろうかと思います。

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短歌連想法

短歌にて 自由連想 してみたら
 日本の人の 心は強く

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慈悲殺人

どう見ても 慈悲殺人は おかしいよ
 そのおかしさが 良識だよね

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麻原被告死刑確定

麻原の 抗弁なしの 死刑には
 イエス裁判 似ているけれど

現実を 逃れたいのか 麻原は
 心を病んで 意味不明人

サリン犯 慈悲殺人と 言うけれど
 論理空論 現実去りて

教理をば 俎上に上げて 論ずべし
 ギリシャの出番 理性の立場

オウム真理教元代表・麻原彰晃被告の死刑確定に関して、次のような記事がありました。

「汚い世の中に生きる人たちを救いたいという究極の善意は、「命を奪うことで悪業が消滅される」との教義にたやすく反転した。新実智光被告が口にした「慈悲殺人」という言葉が教団の身勝手さを象徴している。」(東京新聞9月16日、1面、「教訓くみ取る努力これから」社会部・瀬口晴義)

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国柄

好きと言え アメリカナイズ された子ら
 サムライ日本 恥ずかしいワイ

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歌の効用

歌詠みは 心伝える 間接に
 直接なれば 反発起きる

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2006年9月15日 (金)

日伊比較

イタリアの 明るさ我に なけれども
 空(くう)の明るさ 見つめているよ

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日本文化

謝罪あり 殿様気分 してもらい
 日本はやはり カミシモ文化

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地球家族

教会は 地球家族だ その方が
 本質近く 浸透深い

底抜けの 明るさあって 家族でき
 地球家族は イタリア産か

家族であることを押し付け、強要するのではなく、その人間関係を通して、自己理解を深め、ふさわしい生き方に導かれるような、そんな家族でありたい。

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救われる人

人間の救いを目的としている宗教は、だいたい救われる方法を示している。その方法・道を歩んでいく人は、救いの恵みを経験して、それは、それでいいのだが、では、その道を歩んでいない人は、どうなるのだろうか。そんな問いが出てくる。

論理的に思考すれば、救われない。だから滅びるということになる。しかし、それをストレートに言った場合、感情的にもつれて喧嘩になるかも知れない。そんな喧嘩が歴史的にたくさんあったし、今でもあるだろう。

その場合、相手を知らないで、単純に断罪することだってあるかも知れない。それは危険だし、避けたい。

救いの道は、一応、知らされている。しかし、自分は、人を「救われている」とか「救われていない」とか言いたくない。そういうふうに言う人が、いるだろうと思う。熱心な信徒は、そうするかも知れない。しかし、自分としては、ただ自分の納得する救いの道を提供し、広げていけば、それだけでいいのだ。あの人は天国に行くとか、あの人は地獄に落ちるとか、そんなことは言いたくない。

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ニートの原因

父不在 ニートの因は ここにあり
 父子の対話 復活願う

「こころの時代」で放送された宮川さんの話を聞いて、そう思った。父が子どもと向き合うこと、それがニートの若者たちにとって大切なことだ。父がいなければ、だれかが父の役割を代行すればいい。宮川さんは、そう思っているのだろう。

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紀子さまご出産

こうのとり 二人揃って 歌い上げ
 何か予感が したのだろうか

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2006年9月14日 (木)

愛の爆発

子どもらに 愛の爆発 言い残す
 岡本画伯 思い出すなあ

宮川秀之さんのイタリア人妻が、亡くなる7年前、地球家族の子ども達に残した檄文の中に「愛を爆発させなさい。お互いに愛の火花を飛ばしなさい」という言葉があったそうです。「愛の爆発」とは、すごい言葉ですねえ。岡本画伯は「芸術は爆発である」と言いましたけれど。(9月14日、NHK深夜便「こころの時代」から)

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若者に

長崎を 紹介したい 若者に
 なんとかしたい 軟弱心

長崎はキリシタンの弾圧・殉教の事実のこと。

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日本の短詩

読むけれど 意味が分からぬ 立ち止まる
 日本の短詩 不可解続く

短詩型 内村を継ぐ わが形
 日本の人に 語り続けん

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地球家族

深夜便 地球家族を 作ろうよ
 宮川さんの 体験に聴く

9月13日と14日の深夜便「こころの時代」は、宮川秀之さん(ワイン製造業・イタリア在住)の「地球家族を生きる」という話。スケールの大きな話にびっくりでした。こんな人もいるのだなあ、と感心もしました。本が出ているようで、読みたいと思いました。

亡くなった夫人がカトリックの信徒で、その信仰の実践が夫妻の生活の基本だったようです。夫人の、子らへの遺言は、他の人にも大きな感動を呼ぶと思います。

異文化体験と、その克服は大変と思います。時間厳守しない人にはいらいらする、その気持ち分かります。

地球家族はカトリック的構想なのでしょうが、日本文化が相対性の中で維持されないと、われわれにとっては生きにくい家族になるでしょうけれど。

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有閑

有閑が 学の条件 なりとても
 学にはならぬ 有閑もある

有閑は 誰でも不安 身の破滅
 心は常に 感じているよ

創造は 有閑ありて 可能だが
 対価なくして 路頭に迷う

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大志

大志持て 大思想家を 表せよ
 生活の中 短くとても

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自衛隊違憲

自衛隊 違憲といった 党ありて
 その成立に わが師関わり

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ほくそ笑む

昼重視 深夜便のみ ほくそ笑む
 諸新聞に こころ欄失せ

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自分

自分とは まず自意識で 関係が
 続くのだけど 吟味はしない

関係を吟味することが大切ということなのですが。

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2006年9月13日 (水)

教派争い

聖書にも 教派争い  あったんだ
 痛みと共に 功罪なかば

正統と 異端論争 したとても
 線引き難し 区別と拒絶

転勤で 教派転々 移るなら
 根なし草だと 言われてしまう

「実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている」(第一コリント1・11)と聖書にありますが、教派争いは、実に今に始まったのではなく、原始教会の中にもあったということでしょうか。

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遺物

美喜さんは 苦しい時に 遺物見る
 比べてみれば 何でもないさ

戦後、孤児のためにホームを作った沢田美喜さんは、ホームの近くにキリシタンの遺物を集めた建物を作っていました。苦しい時に、その遺物を見ながら、自分を励ましていたという話を聞いたことがありました。

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2006年9月12日 (火)

探求

認識は 同一者にて 探求は
 我の中にて 我超ゆるもの

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背筋

背筋はね 少しはピンと 伸ばそうよ
 伸ばし過ぎると 怖いけれども

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福音

福音は 空気と同じ ただなのさ
 皆に平等 神のみこころ

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発見

発見は 楽しいけれど はかないよ
 止めておかねば すぐ消えるんだ

筆記具は常時携帯が絶対条件。

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自分の鏡

表現は 自分の鏡 自分見て
 初めて進む 自己実現へ

箱庭療法も、自分の表現、自己を対象化する作業なのでしょう。

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ニューメディア

ニューメディア 関心持った 人がいた
 未来予感の 確かな勘だ

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翻訳文化

近代の 翻訳文化 限界で
 主体構築 模索は続く

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表現

臨床心理学の分野で、自己実現ということが関心を持たれていますが、それは、表現活動を抜きにしては困難なのではないでしょうか。そんなことを考えています。

表現活動には、内容と形式が必要です。内容をどのようにして獲得するか、またどんな形式で表すか。

内容は着想・アイディア・直観といったものでしょうか。形式は、簡単な文章がいい。短歌形式がいいかと思います。

人間も長く生きていると、いろいろな経験をします。それらの経験に縛られています。しかし、悪く縛られていると、発展性がありません。そこで、経験を乗り越えたいのです。その時、経験を表現することで乗り越える道があります。

恐らく、自己実現を成し遂げてきた人たちは、こんな手段で達成したのだと思います。

自分が少しずつでも、自己実現の方法を実践していけば、周囲の人たちに伝染して、自己実現、個性的人格に向けての手段の実践に心を向ける人も出てくるかも知れません。

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ書10章10節)とありますが、「口で告白して」という部分が表現活動を意味しているかも知れません。「心に信じて」とは、着想・アイディア・直観を得るための心の持ち方、着想・アイディア・直観は価値あるもの、と理解すれば、分かりやすいかも知れません。

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2006年9月11日 (月)

天正遣欧使節

4人の天正遣欧使節については、教科書で習った。西洋を見た最初の日本人たちだった。それは、日本人側からの視点である。西洋人たちにとっては、初めて見た日本人であった。少年たちは西洋人たちに、どう映ったのか、それは余り知らされていない。少年たちが知ることは、同時に知らせることでもあった。

もう一つ、少年たちが日本に帰国して、どういう人生を送ったか、それも知らない。ただ、その一人が殉教したことは知られている。しかし、他の3人は、どうしたのだろうか。棄教した人もいる。しかし、殉教か棄教かの選択を迫られて、棄教した人たちを、われわれは責めることができるだろうか。

今、『旅する長崎学』という冊子が長崎県の企画、長崎文献社の制作で発行されている。副題は「キリシタン文化」で現在3冊出ている。その第一巻で、稲富裕和・大村市教育委員会学芸員は、こう言っている。

「キリスト教の禁教と鎖国は文明の衝突を避ける知恵だったかもしれない。すでに400年の時が流れた。そろそろ時の番人も許してくれるだろう。真実を求める旅に出ることを」

キリシタン史は今を生きるわれわれに何を語っているのか、その光と陰のすべてを解明する時が来ていると、私も思う。

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小泉劇場さらば

修羅場にて ふっと風吹く 無の風が
 小泉さんの 絶妙なわざ

小泉首相は間もなく退任、ご苦労様と言いたい。特に、郵政民営化法案の時の対応、お見事、と言いたい。

あの時、どう対応するか、皆見ていたが、悪あがきせず、無の風に自分を委ねた。その冷静な姿勢に感動して、国民世論が動き、その空気の中で逆転したように思う。無は神に通じたのかも知れない。間違った手法ではなかった。

これからは功罪の罪の方が指摘されて、その克服が志向されると思うが、功は長く記憶されると思う。それは甘い見方と言う人がいるかも知れないが。

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26聖人

長崎で、キリシタン26人が処刑されたという秀吉時代の史実があります。

26人は、のち聖人にされました。どういう人たちであったのか。16人がフランシスコ会系(司祭・修道士・同宿)の人たちであって、イエズス会系(修道士)は3人に過ぎません。その他、7人はどうかというと、4人は何かの形でフランシスコ会との関係があります。

ということは、キリシタン弾圧といっても、実態は、フランシスコ会に対する弾圧であったように思います。

戦時中、日本キリスト教団の中の旧ホーリネス系教会が弾圧されました。しかし、それで、日本キリスト教団全体が弾圧されたわけではありません。同じような構図が、26人に対する弾圧・処刑にもあったのかも知れません。

日本のプロテスタントは、どちらかと言うと、イエズス会よりも、フランシスコ会に親近感を持っているのではないでしょうか。イエズス会は、対抗宗教改革の旗手であったわけで、歴史的にはプロテスタントとは対立・抗争関係にあったでしょうから。

26聖人の多くがフランシスコ会系であったという事実は、フランシスコと同会への親近感と、どうつながるのでしょうか。その親近感は、日本におけるフランシスコの弟子たちの殉教に、どう向き合えばいいのでしょうか。

キリシタン宣教史は、ザビエルとイエズス会だけが担ってきたのではなくて、26聖人殉教という形で、フランシスコ会も、深く関わっています。しかし、今、日本のフランシスコ会は、こういう重い歴史を、どう受け止めているのか、私は知りません。

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仏か基か

仏教か キリスト教か 選ぶべし
 日本の中は 両者を要す

個人の信仰は仏でも基でもいいのですが、別のものの理解が、日本では必要という意味です。

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2006年9月10日 (日)

歌詠み

歌詠みは、反省願い 入り混じる
 我が祈りなり 我が呼吸なり

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自立

自立せよ 人への求め 少なきが
 幸いの道 心穏やか

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こころの時代

じっくりと 人生語る 番組は
 昼にはないな こころの時代

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巡礼

我は行く 日本の聖地 長崎へ
 巡礼の道 祈り続けて

今は気持ちの中での巡礼です。

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評判

評判で 変わるわけでは ないけれど
 それでも何か せずともよいか

人の目につく人は評判から逃れられません。中には誤解もあります。ほっとおいていいのでしょうか。

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改革

改革は 人物がいて 進むもの
 人なき今を いかに進めん

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絶望

道程に 絶望を聞く カイロスだ
 再生の時 友共にいて

みなみらんぼうさんの深夜便の歌「道程」から

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共同体

確かにね 共同体は 大切だ
 法の正義も なければならぬ

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リセット

敗戦は リセットの時 はて思う
 どこで落ちたか 歴史検証

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見えるもの

見えるもの 規定し区別 するけれど
 どうにでもなる 手の内にある

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2006年9月 9日 (土)

生き方

利己主義と個人主義と人格主義という三通りの生き方がある。
   
利己主義は自分の保存と拡大のために、他者の権利を吸収していこうとする。個人においても、国においても、容易に観察される生き方だ。ニーチェの超人思想も巨大な利己主義ではないのだろうか。戦前の日本は利己主義だった。他者の権利を侵害したことで、今でも抗議を受けている。
   
個人主義は「自分は自分、他人は他人」といった生き方。少し冷たい気がする。
   
家庭の崩壊、地域社会の崩壊、学校の崩壊と、今の日本では当たり前の生き方になっている。
   
そして、人格主義は、人間における永遠なるものに目覚めて、それを中心に考えようとする。人間が人間であるのは人格のためだ。自分が自分であるという意識は不滅のような気がするが、死が、その意識を阻む。
   
そんなことを考えると、利己主義も個人主義も、人間の自覚という点では不十分で、途上にあるようだ。大正3年に『三太郎の日記』を書いた阿部次郎の人格主義は、まだ訴えるものを持っているように思う。しかし、死を突破しないと、人格は確立しないと思うが、そこが、阿部次郎の思想の中で十分に捉えられていたかどうか。彼の教養に邪魔されて、読者が、そこに実存的性格を読み取れないという不幸があるのかも知れない。
   
日本の桜の季節に、西洋の復活祭もある。しかし、死が自分のことではないならば、復活祭もまた意味ないことではある。

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臨終

臨終に ウェスレー思え 神共に
 いまさば死をも 幸となるらん

聖霊の満たし、世界宣教のビジョンなどを語った言葉によって、ウェスレーはやはり、忘れられない人物です。

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2006年9月 8日 (金)

中世研究の原点

中世の発見
 一冊の古ぼけた小冊子を、上智大学中央図書館の片隅で見つけた。表題は「神學及中古哲學研究の必要」とあり、1910年(明治43年)2月に教学研鑽和仏協会(ドルワール・ド・レゼー神父の主宰)から発行されたものである。内容は、教学研鑽和仏協会の依頼を受けて、1909年(明治42年)、ラファエル・フォン・ケーベルが、その年の冬季に、東京帝国大学の学生たちに講義する中古(中世)哲学史についての自身の見解を述べたものである。この年は、ケーベル61歳であり、彼がカトリックになってから10年の歳月が経っていた。小冊子(宗教的な教えを述べたもので、トラクトと言われる)の翻訳は山口鹿三、野口英世にフランス語を初めて教えた人であった。
 この小冊子が日本における中世哲学研究の原点というのである。その伝統はカトリック側では岩下壮一神父によって受け継がれ、その後、吉満義彦らが続いた。また、プロテスタント側では石原謙が中世哲学への関心を抱いていたが、ケーベルに最も期待されていた波多野精一は、その領域に深入りすることを弟子には避けさせた。しかし、「近代の超克」が、今もなお課題とすれば、中世再考も、その可能性の一つであろうし、この学問の伝統は大切と思う。
 世界に目を向ければ、この学統の中には、吉満の師匠であるジャック・マリタンや、中世哲学史の碩学、エチエンヌ・ジルソン、そして英国の歴史家、クリストファー・ドーソンらがいる。この人たちは日本でもよく知られたカトリックの著名な知識人なのだが、今でもなお魅力を失っていない。
 ジルソンの『中世哲学の精神』(上・下、筑摩書房)などは、何度読み返しても、新たな発見の喜びを与えてくれる。彼らの紹介する西洋というものは、教科書的な、一般の歴史とは違った響きを持っている。学校ではルネッサンスと宗教改革によって開かれた近世というものに光が当てられて、中世は「暗黒」の時代で、批判・克服の対象のように教えられてきたが、先人たちの努力により、このような歴史観も克服されてきたと言えよう。哲学を専攻したマリタンやジルソンは中世の神髄に迫ろうとした。その成果は、理性と信仰の関係を考察するように導かれた魂には、どんな時にでも古くなることはない。
 昭和40年代の初めに、第二バチカン公会議があり、カトリック教会の姿勢ががらりと変わった。中世至上主義は捨てられ、かわりに初代教会への関心が高まり、カトリック教会の中で聖書が注目され、聖書研究がプロテスタントをも超えるかの勢いを見せるようになった。エキュメニズムの名のもとに聖書の共同訳も試みられた。かつてのような中世至上主義は姿を消した。
 しかし、問題はないのか。第二バチカン公会議のあとの教会一致運動(エキュメニズム)は、中世を避けて、カトリックとプロテスタントが共有している聖書と初代教会に帰ろうとしているようだが、それは対話の手段としての選択なのではないのか。もちろん、対話できない所から対話できる所への前進は認められるべきだろう。
 日本ではエキュメニズムに関する深刻な神学的対話は始まりそうにないが、世界では対話が進んでいる。対話の場として、初代教会への回帰が言われても、古カトリック教会であれば、そこには中世の教会の論理が見えている。あるいは、この古カトリック教会以前に帰るというのであれば、そこでは、もう一度、ヘレニズム文化との出会いと葛藤を経験しなければならなくなるであろう。日本にはヘレニズムはないと言っても、その言葉で、何か人類に普遍的なことが含意されていたのであり、その普遍性において日本も関係せざるを得ない。そして、古カトリック教会形成の是非が論じられ、それを前提とする道がカトリックでは当然の如くにして選択され、プロテスタントでは、その時に新たな決断を迫られるのではないであろうか。
 ヨーロッパ中世の意義はなくならないのではないかと思う。平成8年には、印具徹氏が『カトリックとプロテスタントとの思想的母体』(日本キリスト教団出版局)を書いて、カトリックとプロテスタントが西洋中世のスコラ思想を共有できることを指摘した。カトリックの信仰・思想について、昔は神父から教えられたが、今ではプロテスタントの学者から教えられるのだ。しかし、この書物はプロテスタントに向けたメッセージで、その関心をルター、カルヴァンを遡って中世スコラ思想に向けた。新たな視点の提示という意味では画期的であると同時に、議論を呼ぶのではないかと思われた。
 いずれにしても、キリスト教は、それ以外の宗教思想と無関係には長くおれないし、折衝が始まるのは時の問題なのである。この両者の折衝の中に、中世思想の意義というものは不変なるものとしてあり続けるのである。それは言葉を変えて言うならば、信仰と理性の関係であり、それは人類史の中では常にある課題、従って、今の日本の課題でもあるのだ。
 こうして中世思想の重要性が分かれば、日本における中世思想研究の歴史に関心が向くのも当然である。その時に、ケーベルの「神學及中古哲學研究の必要」が注目される。今では誰も見向きもしないであろう、この小冊子に注目することは、中世思想のもつ世界的意義を思う時、一つの見識ではないであろうか。

『神學及中古哲學研究の必要』を読む
『神學及中古哲學研究の必要』の内容を紹介したい(以下、引用個所は現代かなづかいに変更し、用語も分かりやすくした)。
 まず、ケーベルは冒頭、「神学」の定義を行う。それは「最も広い意味に用いたもので、実は理論的実際的基督教全体及び旧新両約全書の聖史を指す。これ一語で言い表すべき適当の語がないからである」と言っている。今で言えば、組織神学、実践神学そして教会史を指しているのであろう。
 本文は第一篇で「神学研究」、第二篇で「中世哲学研究」の必要が説かれている。
 まず「中古哲学は日本帝国大学に於ては従来全く閑却せられたりしが今日もなお閑却せられつつあるなり」という。これまでの講義の時間が少なかったことを省みて、それは、自分がこの時代の哲学を重要視せず、また興味がないためではなく、自分にとっては、最も大切で、興味のある問題であった、という。では、なぜ講義時間が少なかったのか。その理由を次のように述べている。
 一つは学生が、この問題を嫌っているので、いやなものを研究はしないであろうし、また教師としても、そんな学生の影響を受けるというもの。
 二つ目は、大部分の学生が基督教の初歩も全く知らないので、徹頭徹尾、基督教に関係している中世哲学は、その全体がなければ不可解であろうというものである。
 しかし、学生の間に、次第に、そのような傾向も少なくなって、講義を聞くのも嫌ではなくなりつつあると思う、というのである。
 そして、ケーベルは、講義の目的を、学生たちが、次第に神学と中世哲学とに対する、これまでの先入観による偏見を全く脱却することに貢献したいという。その方法として、ケーベルは、「間接の方法」を最良と考えている。その方法とは、基督教神学の知識は、すべての教育ある人々、基督教信者であろうとなかろうと、歴史、哲学、文学あるいは芸術の研究をしようとする人々にとっては必要不可欠であることを示すことにある、という。それは神学の知識のない者は、基督教国(基督教時代)の広大な文物を理解することができないから、である。「諸君の熟知せらるる如く過去二千年間の欧州文明の全体はその微細なる点に至るまで悉く基督教にその基礎を有することは歴史上明確なる真理なり」。
 このような観点は、講義のあり方にも現れることとなる。それは、講義が、しばしば本題から離れて、他の学問の領域に入ることを説明する。それは学問の有機的に一体性の指摘であり、特に「心意の学問」と呼ぶところのものにおいて、あてはまるとしている。「各個の学問は他のすべての学問によって支持せられて従って直接間接にこれに関係し相総合して一体、一機関を構成するために、その一部分、一支体を切断すれば全体に傷害を及ぼすことを免れないからである」。そして、神学こそ、この真理を明白に表明しているという。「神学は一方に於いては哲学と詩文学(例えば聖会が用いる古代の外教から採用した標号=象徴、シンボル=のようなもの)、及び数千年来の宗教、文物、教化及び歴史の全発展の総計であり、結果である。また神学は他の一方に置いては新文化、人類歴史の新時紀の揺籃であり、新学問、新哲学、新芸術、新文学の源泉である」。
 従って、この事実こそが、神学研究の興味を喚起して、それが、ただ基督教徒と宗教家にのみ必要という謬見の打破に十分だと言っている。
 ケーベルは、カンタベリーのアンセルムスにならって、信仰するところのものを理解する義務に同意しつつも、神学なくしても立派な信仰者のいることを指摘して、「神学は信仰の母ではなくて、むしろその反対に信仰が神学の母である」と言う。
 しかし、ケーベルは、宗教家として神学を説くのではなくて、哲学、文学、歴史、芸術の研究者として講義する、それは神学研究は、世俗の学問と芸術を一層よく理解し、一層よく、これを玩味するためという。そして神学は、ローマ公教会(カトリック教会)が教えるままに神学を研究するとしている。
 この神学研究にあたって、なぜローマ公教会を推薦するのかについて、ケーベルは次のような指摘をしている。
 それは自分が、その教会の信者だからではなくて、天主公教は基督教の純正な形式であるから、基督教の模範であり、根幹であるから、という。これに反して、新教及びギリシャ教(正教会)のような異端及び離教はすべて、その枝葉だから、という。しかも、そのあるものは不具不完全で、そのすべてはことごとく変質している、この変質したものについて、変質させられたもの、純正なものを研究するのは正当ではない、仮にこれを研究しても、これを理解することはできない、それは、河川の本流を離れて成形した濁った池沼を見ても、その河流の観念、その河水の色、性質及び純粋なものの観念を得ることができないようなものだ、という。これに加えて、変質させられたもの、すなわち純正なものの知識がなければ、それらの変質したものも明らかに正しく了解できないからである。仮に、それらの変質したものが原始の教えよりも一層純潔に基督教を代表したとしても、そうなのだ、と指摘する。
 また中世の哲学は神学の肩によって立っていることは我々の既に知っていることであり、中世哲学の最大の代表者は、神学上の信条を科学的に、論理的に証明したものである。それだけでなく、この歴史的基督教の教義に通じないのであれば、近代哲学の研究においても挫折するであろう。
 文学と芸術においても、基督教の神学に通じないのであれば、十分にこれを解し、これを味わうことができない。そこで、例としてダンテ、シラー、ゲーテの場合を挙げている。また音楽における基督教の影響も説明している。
 これら第一篇全体で言われていることは、西洋文明を理解するにはキリスト教理解が不可欠であるということである。
 次に第二篇においては、特に思想問題が取り上げられ、中世哲学研究の必要が説かれている。またキリスト教の受容問題も触れているが、教学研鑽和仏協会の注などを読むと、第二バチカン公会議の精神に符号する点も少なくない。
 中世については、暗黒時代、知的停滞の時代、僧侶の束縛に人類が屈服した時代と言われていて、これらが絶無とは言いがたいが、これらのことの他に、中世の歴史はまた多大の光明赫々たる点を有している。哲学及び宗教上の大人物を出したことを忘却しているか、または知らない。中世にも人類はほとんど間断なく、知的自由と光明とに向かって一般に進歩しつつあった。
 ケーベルは中世に近世の萌芽があり、二つは断絶したものでないことを言う。「私は、人がもし、中世の文明、歴史及び哲学をよく知得するなら、近代のものを尊重する、しかも往々にして過度にこれを尊重する弊害を根本的に矯正できることを確信する」。 そして、ギリシャ哲学とキリスト教との関係については、「我々はギリシャ哲学なくしては全くキリスト教を理解することができない。もちろん、そうは言っても、イエス彼自身の人物と教訓を理解できないというのではなく、イエスの後に研究されてヤソ教と関係するに至って、また次第に発展して第13世紀に至って完全な形体を具えた教義、宗教上の組織を理解できないというのである」。
 この部分には注があり、こう言っている。「イエスの後に研究されたということで、信者自らがキリスト教を組織したというように理解すれば大きな誤謬である。キリストの教訓がキリスト信者を作ったのであり、彼らはその教訓を真正の基準として継承したのだ。彼らはキリストの聖言を基礎として哲学者らの説の真偽を判定した。かの哲学者などの説の中で、東洋諸国やギリシャ、ローマに広まった説の中に含まれた真理は捨てる理由がない。これを自然に知得した真理として採用したのである。キリスト教の学者たちは、これらの哲学者たちの説いた真理とキリスト教の真理とを一致させて、キリスト教的哲学、神学という広大な事業を論理的に建設したのだ。それを知りたければ、トマス・アクィナスの神学大全を見よ」
 またケーベルは改宗による異文化の宗教内混入に触れるが、そこにも注がある。「この世には、謬説のみで満たされている宗教はない。いかに不完全の宗教であっても、多少の真と善を含んでいる。だから、人がキリスト教を信じるときも、先に信じた宗教の捨てるところは、その宗教の偽と悪の点のみである。その宗教の善良な道徳部分は採用すべきだ。またその国の不良でない習慣を採用してもよい、これまで行ってきた善徳はこれを行ってもよい。要は、その動機が違うだけ。これまでの信仰心はよいといっても、その信仰の標的が違う。信仰の形状は同一でも、信仰の内容が違う。換言すれば、信ずるところの神が同じではない」
 この第二篇ではケーベルは、ギリシャ思想の宗教的性質を指摘して、キリスト教につなぐ。そこでは当然、ケーベルのキリスト教理解が語られているが、注が多く付されている。特に、「イエス自らは我がキリスト教の信条を、そのようなものとは定めなかった。信条というものは、その後、キリスト教会の内で信徒の間に次第に発展したものである」というところでは、「その教えのすべての信条はキリスト及びその使徒たちの教訓の中にことごとくが含まれている」と言い、キリストと教会の一致と発展に区別をつけることを避けようとしている。

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勝ち組への道

必勝の 土俵を持とう 人生の
 その繰り返し やがて勝ち組

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歌詠みて 旅行けよかし 無にならず
 奥の細道 我も行くなり

旅に出る時、短歌を作ることも目的にすれば、旅は無駄にはなりませんよ、という意味です。

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日本のかたち

政権の ゲゼルシャフトに 皇室の
 ゲマインシャフト 日本の二本

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2006年9月 7日 (木)

神と警官

自分は弱いと思った時
強くなろうと、修行を始める
   
しかし、弱い、強いは
比較の問題
   
強さを求める人は
孤独になる
   
弱い人たちをさげすむ眼差しは
サタンの一番の好物だ

こうして、人は孤独になる
世界との交わりがなくなる
   
孤独は怖い
それは、まこと地獄の体験
   
しかし、地獄に落ちる前に降参すれば
世界は開ける
   
降参は敗北のしるし
だから、修行者には思いつかない
   
だが、この関門を
一度、過ぎると
   
無数の弱い人たちが
あいさつに来る
   
神は一警官よりも
弱いという
   
ロシアの亡命哲学者は
そう言っていた
   
いじめ世界での強い人よりも
一度、降参した弱い人に未来はある

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写生

自然詠む 自然に生きる その意なら
 写生の真意 いかに生きるか

「自然に生きる」とは、「自然と共に生きる」ということではなくて、親鸞の自然法爾(じねんほうに)の自然です。

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2006年9月 6日 (水)

紀子さま男児出産

皇室に 男児生まれて ほっとする
 列島おおう もやもや失せて

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あの人の追想

昭和5年の春
あの人は逝った
   
無類の愛国者であったが、
「日本は世界のために」とも言った
   
葬儀が終わると、
日本の空気が変わった
   
「世界を日本のために」と、
国中の合唱が始まった
   
そして、15年の戦争のあとに、
祖国は火の中で滅んだ

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2006年9月 5日 (火)

車椅子

車椅子 笑顔絶やさず 人の輪も

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バプテスト

バプテスト 形こだわり 伝えられ
 グラハム生んだ 精神いずこ

プロテスタント教会の一つの教派にバプテスト教会という教会があります。幼児洗礼は認めない、滴礼は認めない(浸礼のみ認める)といった主張で知られた教派です。普通、そのように伝えられていると思います。しかし、それでは、この教会の真実の信仰は分からないのではないかと思いました。

カトリック教会には、聖体奉仕者という役目があり、ミサの中で聖体を信徒に渡すことで、信徒が司祭の手伝いをしています。共同体のための奉仕です。しかし、洗礼は、共同体の外にいる人たちのための奉仕であり、教会活動の当然の射程にある活動です。しかし、そのために洗礼奉仕者という職は、カトリック教会にないと思います。しかし、プロテスタント教会には、そこに固有の使命を感じている教会があったのです。それがバプテスト教会です。そして、そのような使命感の中から、ビリー・グラハム氏が生まれたのだと思います。

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真理体系

体系に 真理があると 教えられ
 実存意識 どこ吹く風か

体系は あとから来るよ 縛るなよ
 まずは断片 真理のかけら

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人生

人の世に 崩れぬものの なかりせば
 流れに乗って 旅するまでだ

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大和心

宮城に 向かいて土下座 する人ら
 敗戦の日に 普通の人も

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視界

カテゴリー 目指して進む 抽象の
 道を登りて 神の峰へと

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回心のこと

知り合いの神父さんが本を出した。『バンカー、そして神父』(亜紀書房、2200円)。

面白くて、というと、妹さんの深刻な病気のことが書かれているので、軽い気持ちで言っていると思われると心外で、決してそうではない。考えさせられるものを多く含みつつも、次はどんな展開になるのかな、といった興味が途絶えず一気に読んでしまった。表現にも「面白い」ものが多かった。

回心のことかも知れないが、改心と書いてあった。最近は、カトリック教会も「回心」という言葉を使っている。改心は間違いですよ、と言いたい気持ちもいくらかあったが、いや待てよ、とも思った。

伝統的にはプロテスタント的信仰においては回心の強調があったし、逆にカトリック的信仰においては改心が普通だったかも知れない。

改心だって、あれは自力救済さ、いや、神人協力さ。自力救済はペラギウスだから異端だし、神人協力だって、純粋な信仰ではないよ。そういった反論、批判が、プロテスタント側から聞かれるような気がする。私の中にも、実はいくらかあるのである。

しかし、待てよ。回心は基本的には一回限りのことではないか。何度も回心なんかできないではないか。パウロはダマスコ途上で回心したが、その回心は一回限りであった。何度も出来るのは改心ではないか。であれば、改心を呼び掛けるのは信徒向けなのであり、回心は未信者向けなのである。

カトリック教会が回心の言葉を採用しているのは、それなりに評価しても、改心の要素も必要なのである。その認識を得た時、私は、回心か改心ではなくて、両方、必要と思うようになった。教会には洗礼と聖体拝領(聖餐)の両方があるのである。洗礼が最初で聖体拝領は、それに続くのである。回心が最初で、改心は、それに続くのである。

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2006年9月 4日 (月)

全能

意志は成る 神の全能 その意味で
 その思い知り 心合わせよ

神の全能の信仰というのは、神の意志は必ず実現するという、聖霊体験における思いであって、その思いから離れたところでの論理学的議論のためではないと思います。

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不幸

信じつつ 牢屋で生を 終えた子を
 不幸とあなた 言うのですかね

キリシタンの信仰の故に、牢屋で生涯を閉じた子どもがいたと、芥川の小説かなにかにあったように思います。普通であれば、不幸な一生でしょう。しかし、ウェスレーと共に、「神が共におられることが最もよいこと」という信仰があれば、どうなのでしょうか。

幸せというものは、どこにいても手に入るものではないでしょうか。

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悪魔

生き物と 悪魔を指して 定義する
 エクソシストは 真面目な世界

エクソシストの世界観は、エクソシスト当人にとっては、本当に真面目なものと思います。悪魔も天使も実在である、という点は、それでいいと思いますが、形のあるもの(3次元のもの)ではないでしょう。しかし、形ないものを、どうやって伝えられるか、そんな問いの前で、普通にされているように、あえて形を持ち出すのは、いいのでしょうか。

心理療法家、精神療法家も、ある意味で、エクソシストかも知れません。心理療法家、精神療法家には、現代では、ある一定の信頼が寄せられていると思いますが、エクソシストには、なにやら呪術的要素、迷信的要素が付着しているように感じてしまいます。カトリック教会ではエクソシスト養成の学校があると、いつか新聞で読んだことがありました。

イエスはエクソシストであった、といえば、確かにそうでしょう。あの当時の世界観の通りに生きることが純粋な信仰なのだという理解もあると思いますが、私は、どこかで非神話化しています。そして、聖書のすべてを理解はできないと認めつつ、しかし、全く理解できないとは思いません。

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噛む健康法

健康の もとは噛むこと 精神も
 過去を噛まなきゃ ひ弱なままで

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秋のたより

風運ぶ 秋のたよりは ひんやりと
 酷暑を生きた 肌にしみ込む

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足裏健康法

足裏に サロンパス貼り 朝起きて
 どこか調子が いいのが分かる

最近、「足裏をもむ」という店がたくさん出現しています。それよりも簡便なのが、サロンパスによるものです。なぜ、と言われても困りますが、実感すれば納得されるのではないでしょうか。理屈はあるのだと思います。

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2006年9月 3日 (日)

解体工事

Rimg0044 建物の 解体工事 眺めつつ
 空が新たに 見える楽しさ

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自主独立

高調す 自主独立の 精神を
 これなかりせば 救いもなしと

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戦前

戦前を 知るにつけても 遠い国
 何か異国の 感じがするよ

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IT公衆トイレ論

ITは 公衆トイレ そのわけは
 投稿をして 気分すっきり

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年金暮らし

年金者 社会の富に 居候
 三杯目には そっと出そうよ

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生活改善

生活を 立て直す時 そは今だ
 何から如何に 着手すべきか

実存短歌は手段です。その短歌は、普通の日常の言葉でいいのです。ただ、自己観照でなければなりません。

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復習

復習の 快感あるよ やってみな
 理解と支配 すぐに手に入る

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写生

俳句はね 写生目指せと 言うけれど
 自己の写生も あっていいかも

写生では 絵が語られて 立ち止まる
 夢も絵のこと イメージの謎

実存短歌は自己の写生でしょう。写生は端的に世界(自然)観照を意味していると思いますが、そこには自己観照が含まれていると思います。

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2006年9月 2日 (土)

厭離穢土欣求浄土

NHK大河ドラマなどで、徳川家康の合戦の場面を見ていると、家康の側に「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗が翻っていた。これは「えんりえど・ごんぐじょうど」と読み、「現世(穢土)をきらい、死(浄土)をあこがれよ、という浄土宗の言葉」であるという。

浄土宗は家康の宗旨であり、彼の家来の中にも、この信徒が多かった。「南無阿弥陀仏」という念仏の効能が、この宗教の創始者たち、法然、親鸞らにより提唱されているのだから、むしろ、死に直面している人々のためには、ストレートに、この言葉を掲げた方がよいのではなかろうかと思う。しかし、そうしたら、後世のわれわれは、これは宗教一揆かと思うかも知れないし、また戦場の人たちは、その言葉の厭世気分に引きづられて、戦う意志を失うかも知れない。「厭離穢土欣求浄土」には、それほどの宗教性、純粋性はない。彼らは穢土のために戦っているのだから、少し考えれば矛盾していることが分かるはずだ。

だから、「厭離穢土欣求浄土」は、戦いで死に直面した者たちに、死を恐れるなとの励ましを与えるという、言ってみれば方便として使われているのではないか。あの、現世的な家康が、熱烈な「厭離穢土欣求浄土」の信徒とは、どうしても思えない。家康が幕府を置いた江戸が発音に関しては穢土と同じであるのも暗示的ではないか。

それでも、この言葉「厭離穢土欣求浄土」は、関が原から400年たった今も、多くの共鳴者を持っているに違いない。浄土が現実のものであれば、その時は、「厭離穢土」は、当然のことなのだから。そして、浄土の現実を疑わない人が日本には多数いる。疑う人は、もはや信徒とは言えないであろう。

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2006年9月 1日 (金)

過去へのまなざし

「君たちはどう生きるか」
そんな本があった
   
不思議な感動が残った
哲学各分野の解説のようだった
   
そこで思った
生きるとは何だろう
   
「どう生きるか」の選択の前に
生の理解を深めよう
   
それは過去・現在・未来の理解のこと
生は、その舞台で演じられるもの
   
人は現在を見ることはできない
見る対象はすべて過去のこと
   
現在で出来ることは
ただ生きることのみ
   
生きる時は
過去でもなく、未来でもない
   
生とは、人の自由意思である
自由意思の活動が現在なのだ
   
人は過去を見て
現在を生き、未来に望みを置く
   
人の可能性は現在の生のみなのだが
過去の素材なしに現在はない
   
過去の何を見るのか
その視線を信仰という
   
だから信仰とは
過去を見る眼差しでもある
   
その眼差しは
現在において変えることができる
   
その時、その人の
未来も変わるだろう
   
だから大切なのは
過去の何を見るかだ
   
人とは
その人が見るところのものである
   
だから、人はみな、ある意味では
過去に生きているのかも知れない
   
しかし、過去を見る眼差しが違うので
みな生き方が違っている

        

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「君たちはどう生きるか」

一人の雑誌編集者の書いた本
それは『君たちはどう生きるか』
   
青少年に人生を問いかけ
名著の賛辞が寄せられた
   
主人公のコペル君は中学生
コペルニクスから取られた、あだ名
   
中世から近世への世界観の大転換
その意味を込めた著者の志は大きい
   
純哲、倫理、宗教と
気づいたら哲学の道しるべ
   
今でも問いかけている言葉
それは、君たちはどう生きるか

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公開日記

ブログは、言ってみれば、公開日記である。日記は、公開を目的とするものではないが、公開日記には興味深いものがある。

内村鑑三の『聖書之研究』にも、公開日記があった。無教会の人たちは、内村にならって文書伝道の独立伝道を志す人たちが多いが、定期公刊冊子に日記を公開している場合も多いと思う。公開日記がなかったら、冊子の魅力も半減するのではないだろうか。

そんな個人による独立伝道にブログを使ったらどうだろうか。そんな試みもあるのかも知れない。紙のよる冊子とは違い、膨大な情報量を扱うことができるのである。そうなれば、万人伝道者の時代が来る。メッセージがありさえすればいいのである。そんな時代が来ているのかも知れない。

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犯罪多発

現代は 蛇にかまれて 興奮し
 犯罪多発 不気味日本

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フロイト

隣人を異常と思うことは
自分の理解の限界を示すのみ
   
異常の中に秘められたメッセージを読む時
異常は消え、己も益を受ける
   
フロイトの着眼は納得できるが
現代、異常なことが多すぎる

親子同士の殺害は
現代の悲劇

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魂のSOS

魂が
おぼれそうになったなら
   
心の中で叫ぼうよ
「私を救ってください」と
   
人の心を知る方は
きっと、助けてくれるだろう
   
生きることは苦しいよ
それが宿命なんだから
   
生の中に死があって
やがて生を飲み込むよ
   
だが、死ぬ前に死んでしまったら
死は、いつまでもやってこないだろう

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