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2006年9月21日 (木)

神の存在の証明

トマス・アキィナスに神の存在の証明がある。おかしいと思った。そんな証明があれば、無神論はなくなるはずではないか。しかし、現実はなくなっていない。証明というと、数学的証明を考えていたからだ。しかし、トマスの証明は、神の存在の要請というものであった。彼の師匠アリストテレスも神といったが、そこには要請されている神があるのだろう。デカルトにも、同じような神の存在の証明がある。内容は違っていても、存在が要請されている神という点では同じと思う。

アリストテレスの古代哲学、トマス・アキィナスの中世哲学、そしてデカルトの近代哲学も、みな神の存在の証明という点に関心があったのだ。しかし、その中で、トマスだけは、啓示の神というものを知っていた。啓示の神にまで至らなければ、私の語感では、神の存在の証明というものは不十分なのである。

啓示の神というのは聖霊における神とでもいえる。このような神は、すべての人の神にはなっていない。だから、信じる人もいるし、信じない人もいる。そして、現実は、有神論者もいれば無神論者もいる。だから、現実に適合している考え方なのだ。

神の存在の証明というものは、何か誤解されるような言い回しである。そこで現れてくるのは自然神学の神である。それに対して啓示の神が出てくるが、それは自然神学の神と同じである。そこで、理性は神を知ることができるが、理性だけでは知られない、という言葉も出てくる。存在だけは知られる、しかし、それ以上は無理ということである。

自然神学的な神の存在の証明があってもいい。しかし、それですべてだというと、デカルトに不満を感じていたパスカルの反応がうまれてくるだろう。パスカルは啓示の神について語っているのである。デカルトが啓示の神について語ることができれば、パスカルの不満はなかったろう。しかし、それでは中世哲学と同じになってしまう。デカルトは近世・近代の人であった。

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