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2006年10月25日 (水)

自殺論

自殺には 傲慢がある 彼岸への
 乗り物なれば 賜るものだ

人間は遅かれ早かれ死ぬものです。そして、死が「彼岸への乗り物」であれば、自殺によって、その乗り物に乗ろうというのは、少し虫が良すぎるような気がします。もちろん、自殺者には、そんな心の余裕がないでしょう。それはそうでしょう。しかし、やがては健康な人でも多くは病気で死ぬのですから、死を急ぐ必要はないと思います。生ききってから死ねばいいのです。

死が彼岸、あるいは天国への乗り物であれば、それは、彼岸、あるいは天国から差し出されたものでしょう。でなければ目的地には行かないと思います。そんな思いの中には、死は不安、恐れというよりも、ある種の喜びといったものがあるかも知れません。

死は自分の問題です。自殺できるということは、自分の死を自分で選択できるということです。しかし、確かにそうなのですが、それは同時に、自分の周囲にいる人たちの問題でもあります。この点が、自殺者には見えていないかも知れません。自意識というものは、自分の原点であり、そこでは自分のことしか見えないかも知れません。しかし、自分というものが、周囲の人たちとの関係の中に置かれていることも、自分にはよく見えないかも知れないけれど、事実です。自分は知らないけれど、自分が知られている、そんな多くの人たちがいます。自殺は、その人たちの心にも何事かの影響を残します。生きるということは自分のことですが、同時に、自分が見ていない、しかし自分を見ている多くの人たちの問題でもあるということ、そんなことをちょっと考えてみてもいいのかな、と思います。

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