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2006年10月16日 (月)

癒やし

宗教が 聖化忘れて 進む時
 巷に溢る 癒やしの叫び

癒やしというのは聖化の一部なのだと思います。ホーリネス教会の「新生・聖化・神癒・再臨」は信仰の4本柱として、よく知られていますが、そこでは聖化と神癒が区別されています。しかし、救世軍やナザレン教会の中では新生・聖化が強調されています。それは、この二つが確実にあれば、あとの二つ、神癒・再臨も、そこから健全に引き出されるという理解があるのかも知れません。少なくとも、聖化に含まれている神癒の要素を無視して、「奇跡的」神癒のみを追求するのは、どうなのかな、と思います。

カトリックでは、ルルドの奇跡が、よく知られています。これなどは、「奇跡的」神癒というものとして知られています。著名な医学者が、それを肯定しているのですから、真実なものがあるのかも知れません。しかし、聖化を無視して、それにのみ走るのは健全ではないと、私には思えます。

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コメント

北村透谷は明確な信仰の表明をしていた。だから、聖化の中を歩んでいたと思われる。しかし、自ら死を選んだ。その原因が、よく分からない。聖化は、心の病に効く薬だったのではないだろうか。

投稿: | 2006年10月17日 (火) 16時03分

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