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2006年10月24日 (火)

「異言」管見

聖書に「異言」という現象が記されている。ペンテコステ教会は、その現象が現代でもあると主張する。「聖霊のバプテスマ」のしるしとも言う。異言には聖霊の働きの一つという意味と、聖霊を受けたという意味の両方があり、「受けた」という意味で「聖霊のバプテスマ」を主張しているのだろう。そうなると、異言の現象がない場合には、聖霊を受けていないということになり、別の教派からの反発を受けることになるかも知れない。

初代教会への回帰を求めて、ルターに始まる宗教改革はルーテル教会を生んでいったが、一方、カルビン系の諸教会は、その徹底を叫んだ。そこには、第二の宗教改革、あるいは宗教改革の徹底が自分たちの側にあるという自負がある。しかし、教会組織を否定したわけでもないし、また、初代教会が経験した「異言」に力点を置いたわけでもなかった。その結果、多くの教会組織が出きて、教派主義が生まれた。

日本の無教会には、その教派主義への批判があり、その意味で、第二の宗教改革、あるいは宗教改革の徹底といった意識が無教会の中にもあった。しかし、そこでも、「異言」については触れられていなかった。

初代教会の「異言」が現代に回復するとすれば、それは聖書が、それだけ真実にものとして現代人の心に蘇ることを意味するのかも知れない。しかし、それでも非神話化が無用になったわけではないだろうと思う。

ペンテコステ教会が、宗教改革の徹底の意味を担っていると思うのは、筋が通っていると思う。理論的のみならず経験的にも聖書時代に戻る主張だからである。しかし、すべての信徒に異言の経験を求めるのは、どうなんだろうか、と思う。新生経験を異言経験とすべて同一化することには、メソジスト、ホーリネス系教会などは多少の抵抗を感じるのではないだろうか。

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