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2006年11月 1日 (水)

問い

ザビエルの時代、日本人は初めてキリスト教に接した。その時に、日本人はすでに教義の根本に関わる深刻な問いを発していた。護教書を書いたあと、棄教したハビアンにおいて、棄教の理由というものは、実はアウグスチヌスの悩みと同じ類のものであった。神の全能とは何か、どうして神の全能の中に、人の不幸があるのか。それはハビアンだけの問いではないのであった。恐らく、いつの時代でも、またどこにおいてもある問題であろう。

放送大学で、日本政治思想史が「真実が汝らを自由に為すべし」 をテーマして、宮村治雄氏(成蹊大学教授)により講じられている。「真実が汝らを自由に為すべし」の言葉は国会図書館のカウンターの上にも見ることができる。

10月31日の講義では、ハビアンの棄教の理由となった神の全能性に対する不信が紹介されていた。キリシタン史の本質的な問題提起なのである。講義は、ハビアンの入信の吟味にも触れていたが、実に重大な問題が語られているのである。

日本におけるキリスト教の宣教は古いのであり、昔を想起すれば、現在の問題もたくさん、ころがっているのである。想起は大切である。

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コメント

ハビアンの批判は、結果的には無神論的批判なのだろうか。小田垣雅也氏によれば、むしろ、否神論と言うかも知れない。批判は有神論に向けられている。あるいは有神論の限界性をついているのである。その限界性を思う時、むしろ、積極的意義を持っている。その積極性を、私はいくらか感じている人間である。ハビアンの批判に対して、キリシタン側から有効な反論がされなかったということではないだろうか。そのため、問題は残ったのである。ハビアンの批判が、なお妥当するような有神論の宣教が続けられているとしたならば、それは歴史から何も学んでいないということを意味しているの過ぎない、とでもいうべきであろうか。対話はここでも必要とされている。

投稿: | 2006年11月 2日 (木) 11時04分

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