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2006年11月14日 (火)

自殺考

わが命 わが持ち物か 至宝なる
 自殺続きて ふと思う時

償いや 諌めの意味も ありそうだ
 命投げ出す 日本文化に

物ならば 取り替えられる 命でも
 そんな問いかけ 答えはどこに

絶壁に 立ちて問いたる 人数多
 実存知らぬ 人らあたふた

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コメント

日本には切腹文化とか、滅びの美学といったものがありますね。そういうものに魅せられると、ちょっとやっかいなことになります。イスラム原理主義者たちの自爆テロで、原理主義者側の志願犠牲者に動かされ、自爆を続けさせる意識が、日本の中にも少年たちの中にあるのでしょうか。ちょっと、突然、ふってわいたような事件が続いて、これは一体、何だろうという思いが強いのですが。傍観者的です。傍観者は犯罪だ、と大学紛争の時も言われました。今も何か、そんな雰囲気です。

投稿: | 2006年11月15日 (水) 09時58分

井上洋治神父が、その著作『人はなぜ生きるのか』の中で、オーストリーのユダヤ系精神医学者が、絶望の淵にいるアウシュビッツ収容所内で、ユダヤ人に語った言葉を引用されておりますので、それを紹介します。
『わたしたちは、殆ど全員この収容所で死んでゆくこととなるだろう。これから私たちを待ちうけているものは、発疹チフスによる死か、過労による死か、ガス室での死か、いずれにしてもいま一度外の空気をすえるということはまずないと考えなければならないだろう。私たちの人生は、これからの何日間あの苦しみの後に、この収容所で終るだろう。それなら、その死までの何日間かの人生に一体何の意味があるのか。どうせ死ぬならそんな何日間かの無意味な苦しみはやめにして、一刻も早く死んだほうがいいと考えている人たちがあなた方の中にいることは私は知っている。またそこまではいかないまでも、自暴自棄になり、絶望的になっている人も多いだろう。しかしそれは、あなたたちが、死ぬまでの苦しみの人生のなかから、何をまだ得ることができるか、というふうに発想しているからいけないのだ。そうではない、視点を転換することが必要なのだ。これからの苦しみの人生から何を期待できるか、という視点をやめて、人生がこれからのあなたたちの生涯に何を期待しているのか、という視点に立つことが肝要なのだ。大げさにいえば、精神世界のコペルニクス的転換が必要なのだ。この視点の転換をできた人が、死にむかっての苦しみの中にも、なおかつその意味を見つけることができる人であり、その苦しみを前向きに背負って生きてゆくことのできる人なのだ』

投稿: | 2006年11月15日 (水) 23時54分

コメント、ありがとうございます。一番、重要な部分ですね。「精神世界のコペルニクス的転換」を解明することが今、最も求められていると思います。

投稿: | 2006年11月16日 (木) 08時37分

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