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2006年12月31日 (日)

問題児

人我を 問題児とは 言うなれど
 我を読み解く 言葉なき故

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近代病

自我肥大 近代病が はびこりて
 世界が動く 我の周りに

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自立

頼る人 批判もきつく 振り回す
 その関わりを 静かに避けん

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2006年12月30日 (土)

ハッピーホリデー

クリスマス ハッピーホリデー 言い換えて
 皆で祝おう 否定神学

肯定神学では、この言い換えは出来ないと思いますが、否定神学なら出来ると思います。否定神学の意味を、もう一度、考えてみるべきと思います。

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2006年12月29日 (金)

評論家

評論家 過去と未来の 旅人で
 現代語る 含蓄なくば

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神や国 永続ものに 自己つなげ
 ニヒルの炎 超える試み

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文化

文化とは 表現なのだ 形ある
 内容問えば 宗教かもね

宗教を 抜いた文化に 力なし
 そんな文化が 流行しても

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政治家

現代に 一番強く 生きる人
 選ぶもよいが 選ばぬもよい

過去に生き 未来に生きる 人もいて
 今では影の 薄い人らも

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2006年12月28日 (木)

職業

職業を 道楽にせよ 本多翁
 疲れも忘れ ゲーム感覚

本多静六翁のことです。

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認識

わが前に 価値あるものは 多けれど
 認識主体 生まれいでねば

死蔵せる 宝は多く ありとても
 宝を知らぬ 人にありては

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自殺対策

人生に 生きる意味なし 生きられず
 自殺対策 意味問う時だ

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はからい

はからいを 捨てよと言うが 捨てたなら
 どのようにして 生きていくのか

はからいで 人の世は出来 泣き笑い
 それが生なら 生ははからい

ピューリタン はからい極致 見えるけど
 深き諦観 予定を前に

はからいを 避けて生きたや 定年後
 恐竜やめて 仙人の道
 

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2006年12月27日 (水)

誕生日

誕生日 祝いの記憶 なけれども
 子育て思い 再考の余地

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希望

雨あがり 坂道登る 彼方には
 明るき空が 水の色して

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近世の終焉

近世の 終焉しるし 出来たけど
 誰も見向きも しない現実

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ゴール

どこへ行く 分からぬままに 時過ぎて
 いつの間にやら 今生別れ

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開国

ザビエルも マッカーサーも 試みた
 失敗だろう この国の壁

西欧の 芸術魅力 歓迎で
 その奥のもの 意識せずとも

ガラシャ能 禅研究の 神父あり
 開国の鍵 なんとか知らん

障害の 壁は文化か 形ある
 形の主張 開国作法

作法には 心はあるが 形式に
 心は自由 形式を見よ

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2006年12月26日 (火)

ぶざま

じたばたと あえぐぶざまを やめようよ
 まな板上に 鯛なのだから

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供養

死者のため 供養をすると 言うけれど
 霊魂なくば その意味いずこ

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一芸

一芸に 秀でるならば それでいい
 二芸手がける 余裕はないよ

人生は 一芸を追う 過程なり
 やがて形を とるであろうに

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イラク戦争

イラク戦 教訓は何 見つからず
 撤退できず あり地獄かな

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2006年12月25日 (月)

海舟言葉

べらんめえ 海舟言葉 懐かしや
 人の心を 溶かし明治へ

江戸弁は 口悪くとも 心良し
 情に篤くて 行動起こす

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人生

顧みて かくのごとく 生き来たり
 初めに知らず 不幸を散らして

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墓碑

墓碑のぞき 元禄の文字 見つけたり
 遠い昔を 今に伝えん

(谷中墓地散策の折)

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勝海舟の意思

Rimg0083 慶喜の 墓の隣に 木立あり
 勝家の墓に 海舟しのぶ

(このお墓には物語りがあります。当時はよく知られましたが、今では余り知られなくなりました。)

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彰義隊

Rimg0079 武士道も 譲歩に譲歩 限界だ
 やむにやまれず 彰義隊かな

彰義隊 墓の前には 西郷の
 銅像もあり 今は仲良く

Rimg0080 (写真は彰義隊の墓=上、と西郷の銅像)

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悲しみの家

真夜中は 悲しみの家 抑圧で
 昼に言えない ことが言えるよ

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2006年12月24日 (日)

静と動

動はなぜ 不安定から それ生ず
 静に目標 関わり通し

動に価値 近代は言う 合唱す
 静は停滞 克服せよと

されど色 色は空なり どれもみな
 近代の歌 仏に勝てず

新価値は 動中の静 近代に
 近代超える ものを見出す

中世を 近代の外 求めるな
 近代のうち それを求めよ

静に二種 動を離れて 一つあり
 動の中にも 静はあるなり

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2006年12月23日 (土)

近代の遺産

近代の 遺産忘れし 現代に
 明日(あした)を語る 資格はなしと

近代の 遺産伝えん その意義を
 やがて皆知る 時は来たらん

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私小説癒やし論

私小説 作家の防御 フロイトも
 認めてくれる 真相暴露

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規律

生活の 規律なくして 生きる人
 脳の奥から だらだら指令

禅僧の 生活学べ 簡素追い
 無の遊び来る 心は楽し

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ロボット時代

ロボットが 人に近づく 家庭にも
 人の代わりに なるのだろうか

ロボットと 人との違い どこにある
 妻もロボット そんな時代も

結婚は 同性同士 許される
 時代であれば ロボット婚も

ロボットは 人の自由に できるんだ
 主人は自分 面倒はない

創造の 始め見返す 時は今
 機械と違う 人の本質

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恥重し 死よりも重し 日本では
 恥を避けんと 死を選ぶ人

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2006年12月22日 (金)

障害個性論

障害は 個性と人は 言うけれど
 反省なくば 深き沈黙

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人生の選択

プッツンの 多き人生 梶難く
 引きこもりつつ 深き歴史へ

帯刀の 時代もあった 今禁止
 心の刀 武士道を今

一編の 劇を見せよう 誰にても
 表現の道 役者でなくも

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行動論

行動は 思い立ったら すぐやろう
 明日があるとは 限らないから

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町田市民文学館

Rimg0078 町田市民文学館(写真、町田市原町田4-16-17、電話042-739-3420)では、ことし10月27日から来年3月4日まで、開館記念展「ことばの森の住人たち-町田ゆかりの文学者」が開催中です。紹介されているのは23人で、キリスト教関係者は、八木重吉、田河水泡、北村透谷、遠藤周作の4人でした。

遠藤周作は、佐藤朔著『フランス文学素描』(青光社、1940年1月)を、下北沢の古本屋で見つけ、この本で仏文科進学を決意、またフランス留学につながったといいます。この本も展示されていました。

また、遠藤の執筆時の机、ランプ、洋服などの展示されていました。

遠藤は、目黒区駒場の借家から転居して、昭和38年3月末から昭和62年暮れまで約25年間(40歳から64歳)、玉川学園に居住したといいます。その後、東京に住んでいました。

文学館は入場無料。月曜日は休館日。12月29日から1月4日までは休館とのこと。

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遠藤周作との「戦いと和解」

 文春文庫『遠藤周作のすべて』(中村真一郎著、文藝春秋)に「戦いと和解と」という題の真剣な小品があります。それは、遠藤周作との出会い、彼からの入信の勧め、それに対する日本人的感性からの応答など、キリスト教との関わりについての中村の「信仰告白」的な、貴重な証しです。初出は「文學界」1996年12月です。

 中村は、冒頭、「遠藤周作との60年にわたる精神的交渉を今、ふり返ると、それは親しい友人というにとどまらず、お互いの人生観、宗教観の根本での戦い合いと、彼の最期の時期における和解の歴史であった」と言うのです。

 この「最期の時期における和解」の意味しているのは、もちろん、遠藤の最後の小説『深い河』の出現を指しています。

 中村は、ジャック・マリタンの影響で、「聖トマスを深く崇敬する」人でした。しかし、遠藤からキリスト教への入信を勧められたのに対して、一夫一婦制の強制、自殺の禁止の二つの理由で断ったというのです。

 それに対して、遠藤の対応は、まず、自分が信者になって、教団の中で、その二つの信念を同信者の間に持ち出して、賛同を得るようにしたらいい、というものだったようです。そこに中村は遠藤の危なさを感じています。

「…私は彼のそのカトリックの教義を異常にまで拡大してみせる態度に、単に私を説得するための方便ではなく、真剣にそう考える傾向があり、それが彼の日本人的な優しさの本質に根差しているが故に、正統的な信仰に対する離反であると、教会の保守的な立場からは異端視されはしないかと、ひそかに惧れた」

 この恐れは『沈黙』の発表のときに現実のものとなりました。その時のことを、こう書いています。

 主人公の神父が踏絵を踏んで棄教するのを是認する遠藤の考え方に、「私は作者の主張に共感を覚えたのだが、果してローマ内部の反潑は強く、『沈黙』は禁書のリストに加えられる危機を迎え、スウェーデンのノーベル賞委員会内にも、授賞反対の声が上がった」。その時に強い支持者となったのが、英国の作家グレアム・グリーンでした。

 中村は、東大生時代からカトリック世界の近くにいましたので、遠藤の危なさがよく分かっていたのです。
 
 中村は、カトリック信仰に近いところから近代インドの聖者ラマクリシュナヘの信仰に移っていき、そのまま亡くなりました。
        
 遠藤のカトリック入信への勧めに対して、中村は「汎神論的無神論の日本の風土に育った私には、やはり仏教的な慈悲に通じる聖者の下にある方がふさわしい」と答えたとのこと。その聖者、ラマクリシュナヘの帰依は神学的な厳密なものではなく、直観的信仰であったといいます。

 『沈黙』の発表から長い月日がたち、遠藤が言い続けた「カトリックを日本的に」という言葉も浸透していき、多くの人達の共感を得ています。

 個別的信仰は「普遍」が現れた時には、常に「修正」の可能性の下に置かれるのですから、日本やアジアの主張というものは、「西洋偏重」ではない真の「普遍」への意志の中でのみ「是認」されるのでしょう。しかし、最初、西洋が見いだした「普遍」を見過ごすところで、日本の個別的主張が展開する時には、その主張への危惧はいつまでもつきまとうと思います。遠藤の主張の中に、そんな危惧があるのです。

 中村は、小説『深い河』で遠藤が自分に接近してきたというのですが、同時に、それがカトリックの枠を超えているのではないかと、危惧しています。

 その個所は、恐らく、「六章 河のほとりの町」の中にある「大津から美津子への返事」ではないでしょうか。この短い個所は、これからも議論されていくと思います。

 そこで、大津は、「ぼくの無意識に潜んでいる、彼等から見て汎神論的な感覚」が批判されたと言うのです。「彼等」とは、ここでは西洋的・正統的キリスト数なんでしょう。

 しかし、不思議なのは、この大津の考え方が「危険なジャンセニズム的で、マニ教的な考えだ」という修道会からの叱責を受けたことであり、そのすぐあとに、「善と悪とは不可分で絶対に相容れぬ」という善悪二元論的思考を是とする考えが示されていることです。少し理解しにくいです。

 大津の「汎神論的」感覚が、どうして「ジャンセニズム的で、マニ教的」なのか? 両者は正反対ではないでしょうか?

 「汎神論」も「ジャンセニズム的で、マニ教的」も「異端」だ、両者は「異端」の範疇では同じだから、それでいいじゃないか、というのでしょうか。それも、一つの読み方でしょうが-。

 「ジャンセニズム的で、マニ教的な考え」を退ける根拠は、それが「善悪二元論的」だからです。「善悪二元論的」を是とするのであれば、そこからはジャンセニズム的で、マニ教的な考えへの批判は起きてこないでしょう。

 この遠藤的「理解」を「誤解」と思う背景には、「キリスト教は善悪二元論ではない」という視点があります。

 キリスト教の「正統」は、遠藤が、西洋的・正統的キリスト教から批判されたと思っている汎神論的真理契機を十分に認めるものではないでしょうか。「悪の全くない善 (神)はあるが、善の全くない悪(披造物)はない」という聖トマスの言葉を「正統キリスト教的」なものと認めるのであれば、その影響下にある「西洋的キリスト教」は、大津の手紙の中では、正確に理解されていないのではないでしょうか。

 『深い河』は、遠藤を一躍有名にした『沈黙』とは違い、キリスト教界に批判はなくなり、一般社会にも好感をもって迎えられているのではないかと思います。そんな時、中村は、この小説の内容にも一抹の不安を抱いています。

 それは、『沈黙』の時と同様、「カトリック教会から批判されないだろうか」というもので、このような配慮が出来るのは、中村が、カトリックとは何か、ということにおいて、深い認識があるからだと思います。特に、「西洋偏重の批判」が、教会の「教義」にからんでいる時には、動機がどれほど正しくとも門前払いなんでしょう。それは「教義」に「普遍」がからんでいるからです。

 中村は、遠藤の終生の課題が形成された過程を、こう言います、「リヨンに留学することで、本来、普遍を意味するカトリックの思想が、著しく西欧的に片寄っていることを、人種差別と同時に実感するに至った」。この片寄りの是正については、中村は遠藤に共感を持つことができるのです。遠藤の最後の精神的境地を中村は、こう言います。

 「ところが、一方で遠藤君は、その遺言となった『深い河』において、保守的な教会から別れて、ガンジス河で死体運びをする神父を、真の宗教者として描き出した。この遠藤君の思想は、私には半ばキリスト教の境界を踏み越して、仏教的な慈悲の方に、『沈黙』よりも更に強く一歩を踏み出しているように思え、思いがけなくも彼が私のラマクリシュナのすぐそばまで歩み寄って来たことで、私は生涯の終りに遠藤君と同じ精神的風土に立つことになったのを喜ぶことができた」

 そして、こう結んでいるのです、「彼の最後の小説に対するローマの反応には、深い危惧の念をもって注目しながら、彼の『昇天』に私なりの祈りを捧げている」。

           

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夢の中での“回心”

 フランスに長くいて、哲学的作品を発表してきた故森有正氏について、気になっていることがあります。

  森は、暁星中学校を卒業して、東京高等学校に入学、更に東京大学文学部仏文科に進みました。卒業後は第一高等学校教授になり、母校仏文科の助教授になりましたが、1950年秋、戦後初のフランス政府留学生になってパリに行き、ついに母校東大には戻りませんでした。

 森有正が東京大学文学部仏文科助教授の時に、故中村真一郎氏は講師であり、個人的な交わりがあったとのことです。

 森について、中村は、こう言っています。

 「微醺を帯びると、天窓から屋根へ這い出て、瓦に腰を下して丘のしたの景色を見下しながら、隣りに坐った妻に向って御機嫌に話しかけて、私をひやひやさせた。が、森さんの心に潜むデモンは、もうその頃、次第に生長をはじめていた。森さんは絶えず奇行を演じて、私たちを茫然とさせたが、そのデモンはパスカルやドストエフスキーによって栄養を与えられて、いよいよ肥え太ってきた」(『森有正全集』付録「森有正をめぐるノート」1、4頁)

 森は、小学校3年生の時を振り返って、自分の性格分析もしていますが、外部には「秘密といえば、大袈裟になるが、わからないところがたくさんある」(伊藤勝彦氏、『森有正全集』付録「森有正をめぐるノート」7、5頁)とも思われています。

 その複雑な性格形成の解明の一つのヒントは、あるいは森が少年期に、カトリックとプロテスタントの双方に深く係わってしまったということではないだろうか、と思うのですが。

 森の妹の故関屋綾子氏は、1913年(大正2)の秋ころ、兄が富士見町教会で佐波亘牧師から洗礼を受けたようだと言っています。それは2歳の時の幼児洗礼でした。この富士見町教会は、植村正久と森一家とのつながりで、森有正にとっても深い関係を持つ教会です。(岩倉具視の子孫とキリスト教の関係は興味ある課題ですが、森有正は、その中にいます)

 しかし、その後、どんな理由でかは分からないのですが、森は、カトリックの暁星小学校に入学してしまうのです。そして中学を卒業するまで11年間、フランス人の神父や教師たちと寄宿舎生活を送るのです。当時の中学校長は、東大仏文科開設者の一人で、岩下壮一にカトリックの洗礼を授け、またラファエル・フォン・ケーベルをもカトリック改宗に導いたエミール・エックでした。

 森は、ここで、カトリックヘの回心を強く勧められたこともあって、プロテスタントとカトリックとの間にあって苦悩したようです。この苦悩が表現されれば大いに参考になるのですが、「何回も精神上の危機を経験したにも拘らず、結局、僕は回心しなかった」(『森有正全集』13、239頁)というのです。ここでの「回心」とは、恐らく、カトリックになることを意味しているのだと思います。

 森は、東大を捨てて、カトリックの国・フランスに26年も住むことになるのですが、カトリック教会への転入をしませんでした。しかし、54歳の時の日記に「夢の中で僕はカトリックに回心していた」(『森有正全集』13、239頁)と言っています。これは何を意味しているのでしょうか。

 晩年、プロテスタント教会とカトリック教会の関係などのテーマを抱いていたようですが、どんなことを考えていたのか分かれば、大いに参考になると思いますが。

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2006年12月21日 (木)

矢内原教授辞職の真相

 戦前、東京大学経済学部教授の矢内原忠雄が東大を追われた理由については、一般には筆禍事件ということで語られていると思いますが、実際は違うそうです。南原繁が、その真相を語っています。

 「昭和12年の12月1日です。冬の朝陽が静かに射していた経済学部の3階の廊下で彼に会った。『学問以外のことで、御迷惑をかけてすみません』といって、心持ち頭を下げて、さびしく笑った矢内原君の顔が、いまだに忘れられません。
 この事件の真相はね、彼の信仰にあった。もちろん、土方成美経済学部長が矢内原教授弾劾のために教授会に『中央公論』をもち出したというのは事実です。紫の風呂敷に包んでね。しかし、『中央公論』に書いた論文『国家の理想』だけならば、問題は防げた。大学としては学問の自由に関することとして擁護しなければならぬという空気がまだ強かった。これは長与又郎総長も、その限りではわかっていた。長与さんはお医者さんですから、折にふれて前任者である小野塚先生の助言を仰ぎ、その点では強く先生から影響をうけているところでもあった。大内君や舞出長五郎君の奔走もあり、蔭ながら高木八尺君の尽力があったから、長与総長も矢内原君を擁護することで、木戸(幸一)文部大臣の同意をえていた。ところが、矢内原君は藤井武さん-この人は、私より数年先輩の法学士で内務省の役人だった人で、ある日、啓示をうけて内村先生の門に入り独立伝道に専念した立派なクリスチャンですが、若くして亡くなった-、その記念会、純粋な宗教的集会で講演した。彼は日本の現状を憂えて、藤井さんの言葉『日本の現状には愛想をつかす。こういう日本の国は滅びよ。きょうは日本の国を葬うべき日である』をひいて、自分も同感である、日本は滅びよという話をした。それが警視庁の耳にはいった。内務省にゆき、文部省に伝達された。これで木戸文部大臣はサジを投げた。長与さんを呼んで、唖然としてこれはとても助けられないといった。長与さんも同様だった。これはいかにも木戸さん、長与さんらしいところですね。本来からいえば全く次元の違う問題なんだな。信仰上の、宗教の世界の問題です。現実の日本とも学問とも、次元の違う純粋な信仰の世界での発言ですから、むしろ擁護しやすいと思うのですが、あの人たちにとって『日本国滅びよ』の一句は、戦争中に言うべからざることである、もう弁解の余地はないというんですね。そういう知識の程度、教養の程度なんだな」(『聞き書 南原繁回顧録』丸山真男・福田歓一編、東京大学出版会、178-180頁)

 小野塚喜平次・前東大総長は、矢内原が自らの言論活動により東大を去る時、「破廉恥罪ではなく、公けの問題でやめたのだから、これからもここにやって来給え」と言って慰めたそうです。矢内原は「その温情は忘れない」と『私の歩んで来た道』に書いています。

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小石川植物園

Tatemono 養生所 跡地散策 清涼の
 空気はうまく 井戸跡もあり

静かにて 酸素供給 植物は
 命養う 感謝せねばと

東大の 医学始まる この地から
 貧への心 忘れるなかれ

(写真は小石川植物園内にある旧東京医学校本館=重要文化財指定)

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2006年12月20日 (水)

高橋是清はキリスト教徒か

 時事通信社から日本宰相列伝8として「高橋是清」という本が出ている。細川隆元監修で、著者は今村武雄氏である。今村氏は新報知新聞主筆、日本経済新聞社論説委員を歴任、女子学院理事長も務めた人。日本キリスト教会柏木教会の会員でもあった。今村氏は、2・26事件の前、高橋が蔵相であった時、記者団の一人として、蔵相官邸で高橋に会見したそうだ。

 この本には高橋是清の略年譜が載っていて、その明治2年(16歳)の時には、こんな記述がある。

「フルベッキ師につき歴史書の回読をうけ、聖書の講義をききキリスト教信者となる」

 しかし、本文では、この言葉が否定されているのである。「高橋はとうとうキリスト教徒にはならずに死んだ」(29頁)。

 また、「キリスト教思想の影響」という項目があり、そこでは、「かれ(高橋)の宗教観は当時の功利主義の流れにそった浅薄なものだったにちがいない。けれども、プロテスタントらしい考え方が、かれの思想の系譜の中にくっきりとした年輪を画していることは事実だ」ともある。

 一方、新堀邦司氏は『愛わがプレリュード カナダ人宣教師G・E・バットの生涯』(日本基督教団出版局、99頁)の中で、こう言っている。

 「高橋是清は、青年時代にフルベッキやヘボンから指導を受けてキリスト教徒となった政治家である」

 さて、高橋とキリスト教との最初の出会いは、ヘボン博士であった。元治元年(1864年)、高橋と鈴木六之助(和雄、日銀出納局長)の二人は、仙台藩から選ばれて、横浜で英仏の学問を学ぶことになり、ヘボン夫人のもとで、英語をならった。その時、少しばかり宗教的な話を聞いたらしい。ヘボン博士が帰国すると、塾生は宣教師バラ夫人の宅に引き継がれ、そこでも英語の勉強をした。

 その後、高橋と鈴木は仙台藩の意向でアメリカに修行に行くことになる。そこで、高橋は一時、だまされて奴隷に売られるということになったが、それも解決して帰国したのが明治元年12月のこと。

 高橋は、洋行帰りの少壮官僚、森有礼に引き取られ、神田錦町の屋敷に住み、橋和吉郎と改名させられた。その森の勧めで、明治2年大学南校に入学、そこで南校教頭として赴任してきたフルベッキと出会い、その書生になった。

 高橋はフルベッキから聖書の講義を受けるが、高橋は、そこで「かわき切った大地が水を吸うように、博士の説く神のことばをうけ入れた。もし、環境がよかったならば、高橋はまじめなキリスト教徒としてその一生を貫くことができたであろう」(「高橋是清」23-24頁)という。

 高橋はフルベッキの役宅に同居したが、そこで仲間とどんちゃんさわぎを始めて、外に下宿することになった。その時、フルベッキは、ファミリー・バイブルという注釈付の聖書を高橋に渡したのである。それは、黒い皮表紙の大きな本で、フルベッキがキリスト教の講義をする時に、いつも自分の前に置いて見ていたものであった。

 「これはあなたにあげる。どんな場合でも一日に一度は見るようにしなさい」というのが、その時のフルベッキの言葉だった。

 高橋は、この一冊の聖書を大事に持っていた。彼が死んで、昭和12年の春、日比谷の旧議事堂跡で政治博覧会が開かれた時、高橋家から、この聖書が出品された。

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岩倉具視とキリスト教

 岩倉具視は、最初はキリスト教ぎらいでしたが、明治6年のキリスト教解禁は彼の指示によるところが強く、子孫にはキリスト者が多いのです。

 明治学院院長であった故武藤富男氏が判事であった時、一人の若い女性にめぐり合ったことがあります。

 武藤氏が一高から東大を卒業して、裁判官となり、東京地裁刑部第一部の判事として共産党関係の事件の公判を担当していた時でした。昭和8年秋、審理の参考にするために、市ケ谷刑務所を訪れ、「山村良子」という名前の女性を紹介されたのですが、実は岩倉具栄(ともひで)侯爵(岩倉具視の曾孫)の妹、岩倉靖子でした。

 武藤氏は、靖子の兄、具栄とは一高時代からの同級生でした。
    
 靖子は共産党シンパとして活動、治安維持法違反の容疑で検挙され、約8か月の聞、獄中にいました。昭和8年11月11日に保釈されましたが、その年12月21日早朝、靖子は、東京渋谷区鉢山町の岩倉侯爵家の一室で、横たわったまま、かみそりで右頚動脈を切り、自殺したのです。満20年の生涯でした。

 岩倉具視の5女の寛子は森有礼の2度目の妻となり(寛子の最初の夫は有馬頼万<よりつむ>で、子に、のちの農林大臣・有馬頼寧がいます)、その子には明(中渋谷教会牧師)、孫には有正、綾子がいます。

 寛子の子孫だけでなく、具定(子)、具張(孫)といった子孫からもキリスト者が多く、具張の妻は、西郷従道の長女、桜子で、その長男が具栄、三女が靖子でした。

 この岩倉家に大事件が起きます。靖子の生まれた翌年でした。当主、具張が35歳の若さで隠居してしまったのです。具張が高利貸しから巨額の借金をしていたためでした。桜子に離婚を勧める声も多かったのですが、その時、寛子と明の母子が桜子に精神的に、大きな影響を与えたらしいのです。

 明は1904年に植村正久牧師(市ケ谷教会)から洗礼を受けました。大正3年創立の中渋谷教会は最初は、中渋谷日本基督教会講話所といい、富士見町教会の肢教会でした。なぜ、渋谷の地が選ばれたかというと、「桜子をキリスト教に入信させるために、その住まいのそばに講話所を設けた」というのです。その願いがかなって、桜子は大正4年10月に、植村正久から洗礼を受け、続いて、長男の具栄、次男の具実も十代で、植村正久牧師から洗礼を受けたのです。

桜子は息子3人、娘4人を産みましたが、その時から、キリスト教の家庭になったというのです。靖子も16、7歳までは、その日曜学校に通いましたが、やがて信仰から離れ、死の直前、獄中で再びキリスト教にめぐり合うことになりました。

桜子の依頼で、救世軍の山室軍平、また本間誠牧師が靖子に面会し、靖子は母にキリスト教信仰を告白したそうです。

 『侯爵家の娘-岩倉靖子とある時代』(浅見雅男著、リブロポート)に詳しい事情が書かれています。その他、新潮文庫『明治・大正・昭和 華族事件録』(千田稔著)にも、当時の新聞記事の紹介などがあります。

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ヤワラちゃん

ヤワラちゃん 笑顔と感謝 絶やさずに
 巻き込む力 誰も憎めず

彼女の類まれな上昇志向は、時に人に憎まれるリスクを生むのだが、その笑顔と感謝と、それによる人々を巻き込んでいく力で、憎しみの出番はない。

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幸田露伴とキリスト教

 明治17年(1884年)、露伴の父は、下谷教会の植村正久牧師から受洗した。「それで、幸田家は露伴以外は全員クリスチャンになった」(『日本キリスト教歴史大事典』)という。

 と言うことは、露伴の妹で、延子、幸子の姉妹もクリスチャンになったということであろう。延子はのち、東京音楽学校の教師になり、また、ケーベルの弟子でもあった。延子、幸子の姉妹も洗礼を受けていたというのは、新しい発見であったが、幸子はのち、カトリックになっている。2度、洗礼を受けたことではないと思うけれど、どういう関係か、いまは分からない。

 延子はケーベルの弟子であったから、キリスト教の影響はあったと思っていたが、実はケーベルに出会う以前にクリスチャンであったのだ。

 一方、露伴も、20代の初め、父の勧めで、聖書を読み、教会に通ったが、植村正久牧師と大論争して、洗礼は受けなかった。しかし、初期の作品は、キリスト教ヒューマニズムの影響が見られるという。

 時がたち、露伴夫人は明治43年4月、病没した。露伴は、その後、明治45年10月、児玉八千子と再婚しているが、式を植村正久の教会で挙げた。なぜ、植村正久の教会でかということも、合点がいく。植村正久に導かれて、「幸田家は露伴以外は全員クリスチャンになった」からである。

 さて、その結婚に関しての、内村鑑三の感想が『恩師言』(斎藤宗次郎著)に出てくる。

 「植村君の教会で式を挙げた幸田露伴の新妻の如きは真に驚くべきものなり。時来らば一と騒動を起すなるべし、木村熊二君や其他彼女を知る者は皆斯く思えり」(『恩師言』)

 露伴の新妻は、どんな人であったのだろうと、興味は湧くのだが、分からない。

 勝海舟と巌本善治から『海舟語録』が生まれ、内村鑑三と斎藤宗次郎から『恩師言』が生まれたのである。

 さて、露伴には、1873年3月9日に弟・成友(しげとも、1954年5月15日没)が生まれているが、成友も、『日本キリスト教歴史大事典』の記述によれば、洗礼を受けていたのである。彼は、日本経済史家、日欧交渉史家ということで、東京商科大学、慶応義塾大学の各教授を歴任した。1941年(昭和16年)には『聖フランシスコ・ザビエー小伝』の出版もあり、キリシタン研究にも貢献している。1972年に中央公論社から『幸田成友著作集』8巻が出ている。

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谷中墓地

徳川の 世を偲ばんと 谷中墓地
 墓の形に 死者は語らん

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2006年12月18日 (月)

日米安保条約

日米の 安保条約 憲法と
 同じくらいに 重い現実

九条を 守れと人は 言うけれど
 安保素通り おかしくないか

憲法は それだけならば 政治家に
 国政をとる 自信ないだろ

被爆国 なぜ怒らぬか 不思議なり
 安保の前に 反米はなし

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信時潔

 日本の戦争映画でよく歌われた「海ゆかば」の作曲者が信時潔(のぶとき・きよし)です。
                   
 信時潔はキリスト教との濃密な関わりのある人物です。『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)には、「信時潔」の項目があります。そこには、「幼児から賛美歌に親しみ」とだけ書かれ、キリスト教の信徒であるかどうかは明記されていません。しかし、同書の「大阪北教会」の項目では、「また若き日にこの教会で信仰を養った著名人に信時潔(吉岡弘毅三男)、北村徳太郎がいる」と書かれているので、若き日に洗礼を受けておられたのでしょう。

  この大阪北教会は現在の日本キリスト教会大阪北教会です。『日本基督教会大阪北教会百年誌』が出ています。

 吉岡弘毅は1875年(明治8)、築地の東京公会で、タムソンから洗礼を受けて、本郷教会の創立に尽くし、長老になりました。その後、大阪北、高知、京都室町、伊賀上野の諸教会で牧師として過ごしました。吉岡家の養子になった吉岡繁氏(元神戸改革派神学校校長)によれば、吉岡弘毅は「名誉、栄達を望まず、無欲、自由な信仰者」であったと言います。

 さて、信時潔がキリスト者であったという記述は吉岡繁著『実践的伝道論研究』(新教出版社)にあります。それには、信時潔の父は吉岡弘毅牧師で、「--三男潔(大阪北教会の長老であった信時家に養子に入った作曲家)へとその信仰は継承されましたが、--」(15頁)とあります。

 信時潔は、吉岡弘毅の三男として生まれ、大阪北教会の長老であった信時家の養子になった人です。

『日本基督教会大阪北教会百年誌』には、同教会の信時義政長老の名が多年にわたり記載されています。信時義政は1888年(明治21)年に執事に選出され、1891年には長老となり、以後、1909年(明治42)まで19年間も連続して長老でした。その多くは吉岡牧師の時代でしたので、吉岡牧師の信任厚かったのだと思います。

 信時潔が吉岡弘毅の子であったというのは、非常に興味深いことですが、残念なことに、信時潔の信仰がどんなものであったかについては、余り記録が残っていません。

『キリスト新聞』1972年1月29日から5月6日まで、鈴木伝助が「戦える清教徒」という題で、吉岡弘毅の伝記を連載しています。その9回目(4月1日)で、著者は大阪北教会の信徒の横顔をこう書いています。

「伊東、宇賀、信時という長老さんたちの温顔、奥田夫人、信時夫人などのいつもニコニコした年輩の婦人会のおばさんたちの顔が、60余年後の今日でも私の目の前に浮かんでくる」

 また、12回目(4月22日)には、信時潔を含む吉岡の家族の写真もあり、こう書かれています。

「吉岡は妻とりとの聞に、三男三女を恵まれていた。…三男潔(きよし)は信時(のぶとき)家の養嗣子となり、東京音楽学校を卒業して、ドイツに留学した後、母校の教授に就任して、名作曲家として多くの作品を残した。中でも戦時中、国民のすべてに歌われた『海ゆかば、みずく屍(かばね)、山ゆかば、草むす屍、大君の辺(へ)にこそ死なめ、かえりみはせじ』の作曲は傑作の一つといえよう」と書いています。

 日本歌曲「海ゆかば」(大伴家持・作詞)は1937年(昭和12)10月13日から行われた「国民精神総動員強調週間」の際、日本放送協会の委嘱により、当時、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)講師であった信時潔(50歳)が作曲したもので、翌年、同協会から合唱曲として放送されました。

 この曲が生まれた経緯は、團伊玖磨が文春文庫『好きな歌・嫌いな歌』で、「信時先生に直接伺ったところによると」として、こう紹介しています。

「だんだんに戦時色が放送にも反映し始めた頃―昭和13年は日華事変勃発後1年目である-総理大臣や、重臣のような人達が放送で講演するような場合、その開始に先立って演奏するテーマのような音楽があった方が良いと言う事になって、この曲はその目的のために作られた」

 歌詞は「万葉集」巻18の大伴家持の長歌の一節から取られたものです。『日本大百科全書』(小学館)には、こんな説明があります。

「(歌詞は)天平21年(749)4月1日、陸奥国で金が初めて国内から産出したことを賀した詔が出され、そのなかで、大伴氏が先祖代々『海行かば』を家訓として忠誠に励んだことに触れてあったのに対し、家持が感激してつくったものである。
 荘重な調べの歌曲は、昭和初期の軽薄な世相を正し、非常時態勢下の国民の自覚を高める意図があったが、太平洋戦争末期には玉砕や戦死者のニュースのテーマ音楽に使われ、弔歌の色合いを濃くしていった」

 團は、「海ゆかば」に関して、こう言っています。

「『海ゆかば』は、その雄渾でナイーヴな旋律と、荘重な和声が人の心を動かし、戦争中には、『君が代』に次ぐ準国歌としての役割を果たした。どれだけ多くの場所で、どれだけ多くの人にこの歌は歌われただろうか。

 信時先生は、その性まことに明治の日本人であった。漢詩や短歌を愛好される東洋的な性格と、ドイツで習得された西洋音楽の伝統への傾倒が、仲々一つになれずに、そしてたまさか一つになり得た時に名作が生まれたのだと言える」

 彼は、またこうも言っています。

「信時先生は、明治・大正・昭和を孤高に生きられたが、あまたの依頼があったに拘らず、軍歌を一つも書かれなかった。山田先生がその方向にも稍々協力された事を思うと、信時先生の孤高さは立派である。先生は、若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者だったのである。『海道東征』も『海ゆかば』も、軍国主義に同調して書かれたものでは無く、日本人としての先生にとっては、真剣に、自然に生まれた作品だったと言える」

「(『海ゆかば』は)作った先生にとっての『海ゆかば』と、世間の『海ゆかば』の受け入れ方、使い方の間に、どうにも仕方の無いギャップがあったように思われてならない。然し、そうした事が戦争なのだと思われなくも無いのである」

 今、「海ゆかば」はCDなどでは、「軍歌」の中に収められていますが、「(信時先生は)軍歌を一つも書かれなかった。若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者であった」という團伊玖磨の指摘は覚えられてよいのではないかと思います。

 信時潔の資料は多く残ってはいません。

『日本の作曲家』(富樫康著、音楽之友社、1956年)の信時潔の項目には、「明治43年、上野卒業、大正9年ドイツに留学、ゲオルク・シューマンの教えをうけて帰った信時潔は、山田耕筰と並んで日本の作曲界の礎石となり、上野に長く教鞭をとってその道における有為な人材を養成した。しかし信時の活動はきわめて地味だったので、山田の一人舞台が相当長く続いた」(14頁)とだけ書かれています。

 ちなみに、山田耕筰は母の影響で、幼児から讃美歌に親しみ、14歳の時に洗礼を受けています。婦人運動家のガントレット恒は姉で、キリスト教的な家庭で育ったようです。今は歌われていない同志社大学歌の作曲者でもあり、その作詞者は北原白秋です。

 さて、B5判の小冊子『信時潔・橋本国彦』(土肥みゆき著)には、信時の略歴と年表などがあります。その中に、こんな紹介があります。

「日本楽壇の大御所であった山田耕筰氏の華麗さに対して、信時氏は、母校(現在東京芸術大学音楽学部)の作曲科教授として後進を育成される一方、古典を尊重する保守的作曲家で、作品は殆ど『歌曲』『合唱曲』内攻的で質朴・しかも格調高い作品、日本人の血に根ざした単純な形の中に最高の芸術表現の究極を求めた作曲家として知られています」

「氏の父吉岡弘毅氏は色々な経歴の持主で、元佐幕派の藩士、漢文を学び後に公卿の家臣に転じ、明治維新後外務省に入り明治3年国交を求める正使として朝鮮に赴き彼の地で漢訳聖書に心打たれ、生涯をキリスト教布教にと転じた過激性を持った人物であります」

 信時潔は18歳の時、東京音楽学校予科に入学、10年7ヵ月も同校の学生でした。その間、21歳の時には、突然、退学届を出して救世軍兵士となったようですが、植村正久牧師に相談して復学したそうです。

 子供たちの名は、長男が太郎、次男が次郎(日本画家)、三男が三郎、そして長女がはるでした。いかにも日本的な命名と思います。

 1965年(昭和40)、逝去、78歳でした。

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ついのすみか

いま流行り ついのすみかを 作らんと
 死の手前にて それは誤解ぞ

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死を学ぶ

死を学ぶ ことができない 人ならば
 どうして生きる ことができよう

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2006年12月17日 (日)

近代日本キリスト教思想史研究

かつて、関西学院の久山康さんが、明治から現代までの日本のキリスト教を検証しようと座談会をして、それがやがて創文社から本になりました。3冊出ていました。内容のある、今でも読みごたえのある本だと思います。

今、このような企画を立てる人も、語れる人材もいないのではないでしょうか。しかし、情報を提供しなければ、ますます思想的貧困をきたすと思います。

一般の日本近代史の研究は本が続々出ています。その中で、知らず知らず、キリスト教が排除される空気が出ているかも知れません。それは怖いと思います。「近代日本キリスト教思想史研究」を手がける必要があると思います。

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棄教

近世を 生き延びんため 信仰を
 捨てし武将ら 誰が責むるか

殉教の 人ら顕彰 その中で
 近世史への 新たな問いも

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教育基本法改正案

教育の 基本法変え その狙い
 日本伝統 回帰は良しと

日本の伝統とは何か、それは問われなければなりませんけれど、その否定は、もう限界なのだと思います。

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この世

ぎらぎらと 欲深のみが 闊歩する
 人を傷つけ 阿修羅の世界

ふと見れば 道端に咲く 一輪の
 小さな花に あの世の気品

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2006年12月16日 (土)

伝統

万葉の 昔から今 歌い継ぐ
 この伝統の 中に明日あり

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君が代

君が代は 短歌なりとて 今知れり
 一首歌いて 国想う民

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社会批判

野党あり 与党批判は 常なれど
 権力土俵 相対批判

この世見て ああ相対の 世であるよ
 一喜一憂 退屈まぎれ

権力に 絶対批判 どの点で
 生を裁く死 死にて語らん

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生と死

死は生の 目標ならず 目標の
 位置にある謎 この謎を解け

死を避けて 生の目標 どこにある
 ニヒルの火にて 焼かれてしまう

死の中に 生の目標 あるのかな
 誰にもそれは 思えないのだ

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2006年12月15日 (金)

縁と運

縁がない いい言葉だね 傷つけない
 運にはどこか 暗さが宿る

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2006年12月14日 (木)

12月14日

忘れない 忠臣蔵の 討ち入りだ
 いじめ反撃 判官びいき

思えば、いじめは江戸時代にもあったのだ。

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小津安二郎監督

無の一字 墓に刻んで 後世に
 美学伝える 日本の人だ

こんな美学の持ち主になりたいものだ。

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江戸と上方

そっと消え 江戸の生き方 上方は
 関わりやめず 不可解なりと

私はやはり江戸がいいです。

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2006年12月13日 (水)

らち問題

国家意思 らちに及びて 被害者も
 公務の人に 思われてくる

政治家が 国家の意思を 左右する
 危険な職と 思うが普通

革命の 北にとりては らちもまた
 手段なのだろ 大義の前に

らち前に 譲れぬ日本 国家意思
 議論の余地は なくなりにけり

革命と 対峙する国 わが国に
 選択余地は ないと知るなり

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秀頼

名と実の 分離の悲劇 身に受けし
 秀頼あはれ 生の意味問う

秀吉は 最期に知った 子の定め
 律義者らに 哀願せしも

秀頼に いかなる罪が あるのだろ
 これからなのに 花と散るらん

淀殿も 悪しく言われて 来たけれど
 過去知るならば 誇り高き出

秀吉を 憎しと思い 仕方なく
 秀頼生まれ 権力意識

近世の 成り立ち問えば 因果知る
 レッテル背後 同情もあり

秀頼よ 静かに眠れ 薄幸の
 汝に思いを 寄する者あり

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2006年12月12日 (火)

老婆の意志

老い迫り 子に背負われて 山登る
 姨捨山は 老婆の意志ぞ

自殺問題が起きているが、「自殺はだめ、命を大切に」というだけでは、問題は解決しない。

姨捨山を登る老婆は自殺の意思を持っているし、また、老婆を背負う子は殺人を犯しているのかも知れない。この問題は、老いの問題の中に必ず起きるのである。さて、どう考えたらいいのか。

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清純

濁り世に 一本の花 いつもあり
 目にする時に 天地は不動

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吸い込まれ 忘我の境地 教えるが
 神の犠牲に 流るるも愛

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人生の目的

いつの日か 人と生まれて 人と生き
 いずこに行くか 問わぬ日はなし

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天守閣

天守閣 天主の住みか 封建の
 世を統治すは 人ではないと

城造り その中心に 天守閣
 仰ぐ者みな 心に平和

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信長の死

晩年の 天主利用の 罰受けて
 信長逆さ 転げ落ちたり

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2006年12月10日 (日)

ビジョン

新生の 日本のビジョン 崇高で
 それを阻むは 安保現実 

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近代日本追想

新教は 明治の若さ その核で
 篤胤通し 国家に呼応

篤胤に イエズス会の 秘策あり
 国家の偽装 呼応の理由

敗戦は 近代日本 終焉か
 新たな船出 港とゴール

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摂理のゆくえ

米国の 摂理はどこに 向かうのか
 野球と相撲 日本と蒙古

野球は米国の国技、そこにイチロー、松井の日本陣が活躍、相撲は日本の国技、そこに朝青龍らのモンゴル陣が活躍。摂理は米国から日本経由でモンゴルに行くのか。モンゴルは天に近いと言ったのは司馬遼太郎だった。そして、モンゴルはかつてはシルクロードの道であり、東西文明融合の地点でもある。

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2006年12月 9日 (土)

自殺

生きたいと 戦地に向かう 子らありて
 平和な世には 死を望む子ら

天国も 転生もあり 死後世界
 ゲーム感覚 命の軽さ

人は死ぬ この世に死んで 神に生く
 その転換に 気づく肉の死

ちょっと待て その問い話せ 聞く人に
 新たな視点 新たな気づき

絶望は 死に通じるが 新生も
 それはこの世で 起きることなり

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2006年12月 8日 (金)

トラックバック

どう使う トラックバック 分からない
 お気に入りあり それで十分

トラックバックは、余り意味ないように思います。お気に入りがあるのですから。

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2006年12月 7日 (木)

司馬史観

敗戦で 歴史絶ちたる わが国で
 問いかけながら 歴史意識を

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金儲け

金儲け いつから価値に なったのか
 ウェーバー名著 ふと思う我

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2006年12月 5日 (火)

売れる本

売るために 本を作るな ちと違う
 日々の発信 結果が本に

五木寛之さんの本はよく読まれていると思いますが、それは結果であって、日々の情報発信が評価されているのだと思います。

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マスコミの責任

刺激的 売らんがための この言葉
 マスコミのわざ 社会を乱す

良質の 情報流せ 聞く人の
 感動あれば 生きる力に

宝持つ 人の責任 重大で
 義務果たさねば 自分を害す

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2006年12月 4日 (月)

障害は個性

こころの時代で、「顔の障害に導かれて」という題で、藤井輝明・鳥取大学大学院教授が2回、話されていた。日本にも、こんな人がいるのか、といった思いのする人が、ここに時々、登場するのだが、藤井さんも、その一人であった。障害は個性と言われていたが、今の日本で、一番、必要とされている人の一人だろうと思う。

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2006年12月 3日 (日)

戦死者追悼

若き日に 戦死した人 思う時
 その悲しみに 我はたじろぐ

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2006年12月 2日 (土)

君が代

今まで気づかなかったが、君が代は一つの短歌なのである。内容には、祈願があるように思う。

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谷中墓地

Rimg0070 谷中墓地 慶喜周囲 武士囲み
 江戸の名残を 今に伝えん

写真は徳川慶喜の墓。この墓地を散策すると、江戸の香りがするようです。遠い昔の雰囲気が漂っているように思います。

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2006年12月 1日 (金)

模倣

我真似る 嫌な奴だと 思ったが
 我を通って 神に行くなら

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辺境の民

日本語の 中に生きてる 我らだが
 世界を見れば 辺境感も

地球儀で 日本を見れば ささやかな
 国土に過ぎず 世界は広い

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創造

創造の 結果を見ては 驚くが
 その過程こそ 神の関与が

面白い そんな直感 ぴんときて
 一歩進めば 視界開けて

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PDF

最近は PDFに 凝っている
 何か出来そう 期待わくわく

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死の意味

死ぬことは 対象化への 許可なのだ
 後世人の 踏み台移行

生者には 相対性が 妥当して
 古典力学 死者の世界に

生者への レッテル貼りは ひそひそと
 噂の中で 陰湿になり

レッテルは 判断含む 対象化
 その犠牲にと 死者の貢献

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