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2006年12月18日 (月)

信時潔

 日本の戦争映画でよく歌われた「海ゆかば」の作曲者が信時潔(のぶとき・きよし)です。
                   
 信時潔はキリスト教との濃密な関わりのある人物です。『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)には、「信時潔」の項目があります。そこには、「幼児から賛美歌に親しみ」とだけ書かれ、キリスト教の信徒であるかどうかは明記されていません。しかし、同書の「大阪北教会」の項目では、「また若き日にこの教会で信仰を養った著名人に信時潔(吉岡弘毅三男)、北村徳太郎がいる」と書かれているので、若き日に洗礼を受けておられたのでしょう。

  この大阪北教会は現在の日本キリスト教会大阪北教会です。『日本基督教会大阪北教会百年誌』が出ています。

 吉岡弘毅は1875年(明治8)、築地の東京公会で、タムソンから洗礼を受けて、本郷教会の創立に尽くし、長老になりました。その後、大阪北、高知、京都室町、伊賀上野の諸教会で牧師として過ごしました。吉岡家の養子になった吉岡繁氏(元神戸改革派神学校校長)によれば、吉岡弘毅は「名誉、栄達を望まず、無欲、自由な信仰者」であったと言います。

 さて、信時潔がキリスト者であったという記述は吉岡繁著『実践的伝道論研究』(新教出版社)にあります。それには、信時潔の父は吉岡弘毅牧師で、「--三男潔(大阪北教会の長老であった信時家に養子に入った作曲家)へとその信仰は継承されましたが、--」(15頁)とあります。

 信時潔は、吉岡弘毅の三男として生まれ、大阪北教会の長老であった信時家の養子になった人です。

『日本基督教会大阪北教会百年誌』には、同教会の信時義政長老の名が多年にわたり記載されています。信時義政は1888年(明治21)年に執事に選出され、1891年には長老となり、以後、1909年(明治42)まで19年間も連続して長老でした。その多くは吉岡牧師の時代でしたので、吉岡牧師の信任厚かったのだと思います。

 信時潔が吉岡弘毅の子であったというのは、非常に興味深いことですが、残念なことに、信時潔の信仰がどんなものであったかについては、余り記録が残っていません。

『キリスト新聞』1972年1月29日から5月6日まで、鈴木伝助が「戦える清教徒」という題で、吉岡弘毅の伝記を連載しています。その9回目(4月1日)で、著者は大阪北教会の信徒の横顔をこう書いています。

「伊東、宇賀、信時という長老さんたちの温顔、奥田夫人、信時夫人などのいつもニコニコした年輩の婦人会のおばさんたちの顔が、60余年後の今日でも私の目の前に浮かんでくる」

 また、12回目(4月22日)には、信時潔を含む吉岡の家族の写真もあり、こう書かれています。

「吉岡は妻とりとの聞に、三男三女を恵まれていた。…三男潔(きよし)は信時(のぶとき)家の養嗣子となり、東京音楽学校を卒業して、ドイツに留学した後、母校の教授に就任して、名作曲家として多くの作品を残した。中でも戦時中、国民のすべてに歌われた『海ゆかば、みずく屍(かばね)、山ゆかば、草むす屍、大君の辺(へ)にこそ死なめ、かえりみはせじ』の作曲は傑作の一つといえよう」と書いています。

 日本歌曲「海ゆかば」(大伴家持・作詞)は1937年(昭和12)10月13日から行われた「国民精神総動員強調週間」の際、日本放送協会の委嘱により、当時、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)講師であった信時潔(50歳)が作曲したもので、翌年、同協会から合唱曲として放送されました。

 この曲が生まれた経緯は、團伊玖磨が文春文庫『好きな歌・嫌いな歌』で、「信時先生に直接伺ったところによると」として、こう紹介しています。

「だんだんに戦時色が放送にも反映し始めた頃―昭和13年は日華事変勃発後1年目である-総理大臣や、重臣のような人達が放送で講演するような場合、その開始に先立って演奏するテーマのような音楽があった方が良いと言う事になって、この曲はその目的のために作られた」

 歌詞は「万葉集」巻18の大伴家持の長歌の一節から取られたものです。『日本大百科全書』(小学館)には、こんな説明があります。

「(歌詞は)天平21年(749)4月1日、陸奥国で金が初めて国内から産出したことを賀した詔が出され、そのなかで、大伴氏が先祖代々『海行かば』を家訓として忠誠に励んだことに触れてあったのに対し、家持が感激してつくったものである。
 荘重な調べの歌曲は、昭和初期の軽薄な世相を正し、非常時態勢下の国民の自覚を高める意図があったが、太平洋戦争末期には玉砕や戦死者のニュースのテーマ音楽に使われ、弔歌の色合いを濃くしていった」

 團は、「海ゆかば」に関して、こう言っています。

「『海ゆかば』は、その雄渾でナイーヴな旋律と、荘重な和声が人の心を動かし、戦争中には、『君が代』に次ぐ準国歌としての役割を果たした。どれだけ多くの場所で、どれだけ多くの人にこの歌は歌われただろうか。

 信時先生は、その性まことに明治の日本人であった。漢詩や短歌を愛好される東洋的な性格と、ドイツで習得された西洋音楽の伝統への傾倒が、仲々一つになれずに、そしてたまさか一つになり得た時に名作が生まれたのだと言える」

 彼は、またこうも言っています。

「信時先生は、明治・大正・昭和を孤高に生きられたが、あまたの依頼があったに拘らず、軍歌を一つも書かれなかった。山田先生がその方向にも稍々協力された事を思うと、信時先生の孤高さは立派である。先生は、若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者だったのである。『海道東征』も『海ゆかば』も、軍国主義に同調して書かれたものでは無く、日本人としての先生にとっては、真剣に、自然に生まれた作品だったと言える」

「(『海ゆかば』は)作った先生にとっての『海ゆかば』と、世間の『海ゆかば』の受け入れ方、使い方の間に、どうにも仕方の無いギャップがあったように思われてならない。然し、そうした事が戦争なのだと思われなくも無いのである」

 今、「海ゆかば」はCDなどでは、「軍歌」の中に収められていますが、「(信時先生は)軍歌を一つも書かれなかった。若い頃救世軍に身を投じた程の、平和主義者であった」という團伊玖磨の指摘は覚えられてよいのではないかと思います。

 信時潔の資料は多く残ってはいません。

『日本の作曲家』(富樫康著、音楽之友社、1956年)の信時潔の項目には、「明治43年、上野卒業、大正9年ドイツに留学、ゲオルク・シューマンの教えをうけて帰った信時潔は、山田耕筰と並んで日本の作曲界の礎石となり、上野に長く教鞭をとってその道における有為な人材を養成した。しかし信時の活動はきわめて地味だったので、山田の一人舞台が相当長く続いた」(14頁)とだけ書かれています。

 ちなみに、山田耕筰は母の影響で、幼児から讃美歌に親しみ、14歳の時に洗礼を受けています。婦人運動家のガントレット恒は姉で、キリスト教的な家庭で育ったようです。今は歌われていない同志社大学歌の作曲者でもあり、その作詞者は北原白秋です。

 さて、B5判の小冊子『信時潔・橋本国彦』(土肥みゆき著)には、信時の略歴と年表などがあります。その中に、こんな紹介があります。

「日本楽壇の大御所であった山田耕筰氏の華麗さに対して、信時氏は、母校(現在東京芸術大学音楽学部)の作曲科教授として後進を育成される一方、古典を尊重する保守的作曲家で、作品は殆ど『歌曲』『合唱曲』内攻的で質朴・しかも格調高い作品、日本人の血に根ざした単純な形の中に最高の芸術表現の究極を求めた作曲家として知られています」

「氏の父吉岡弘毅氏は色々な経歴の持主で、元佐幕派の藩士、漢文を学び後に公卿の家臣に転じ、明治維新後外務省に入り明治3年国交を求める正使として朝鮮に赴き彼の地で漢訳聖書に心打たれ、生涯をキリスト教布教にと転じた過激性を持った人物であります」

 信時潔は18歳の時、東京音楽学校予科に入学、10年7ヵ月も同校の学生でした。その間、21歳の時には、突然、退学届を出して救世軍兵士となったようですが、植村正久牧師に相談して復学したそうです。

 子供たちの名は、長男が太郎、次男が次郎(日本画家)、三男が三郎、そして長女がはるでした。いかにも日本的な命名と思います。

 1965年(昭和40)、逝去、78歳でした。

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コメント

信時 潔さんについて学びました。感謝

投稿: 寺﨑 進 | 2007年10月24日 (水) 14時52分

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