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2006年12月21日 (木)

矢内原教授辞職の真相

 戦前、東京大学経済学部教授の矢内原忠雄が東大を追われた理由については、一般には筆禍事件ということで語られていると思いますが、実際は違うそうです。南原繁が、その真相を語っています。

 「昭和12年の12月1日です。冬の朝陽が静かに射していた経済学部の3階の廊下で彼に会った。『学問以外のことで、御迷惑をかけてすみません』といって、心持ち頭を下げて、さびしく笑った矢内原君の顔が、いまだに忘れられません。
 この事件の真相はね、彼の信仰にあった。もちろん、土方成美経済学部長が矢内原教授弾劾のために教授会に『中央公論』をもち出したというのは事実です。紫の風呂敷に包んでね。しかし、『中央公論』に書いた論文『国家の理想』だけならば、問題は防げた。大学としては学問の自由に関することとして擁護しなければならぬという空気がまだ強かった。これは長与又郎総長も、その限りではわかっていた。長与さんはお医者さんですから、折にふれて前任者である小野塚先生の助言を仰ぎ、その点では強く先生から影響をうけているところでもあった。大内君や舞出長五郎君の奔走もあり、蔭ながら高木八尺君の尽力があったから、長与総長も矢内原君を擁護することで、木戸(幸一)文部大臣の同意をえていた。ところが、矢内原君は藤井武さん-この人は、私より数年先輩の法学士で内務省の役人だった人で、ある日、啓示をうけて内村先生の門に入り独立伝道に専念した立派なクリスチャンですが、若くして亡くなった-、その記念会、純粋な宗教的集会で講演した。彼は日本の現状を憂えて、藤井さんの言葉『日本の現状には愛想をつかす。こういう日本の国は滅びよ。きょうは日本の国を葬うべき日である』をひいて、自分も同感である、日本は滅びよという話をした。それが警視庁の耳にはいった。内務省にゆき、文部省に伝達された。これで木戸文部大臣はサジを投げた。長与さんを呼んで、唖然としてこれはとても助けられないといった。長与さんも同様だった。これはいかにも木戸さん、長与さんらしいところですね。本来からいえば全く次元の違う問題なんだな。信仰上の、宗教の世界の問題です。現実の日本とも学問とも、次元の違う純粋な信仰の世界での発言ですから、むしろ擁護しやすいと思うのですが、あの人たちにとって『日本国滅びよ』の一句は、戦争中に言うべからざることである、もう弁解の余地はないというんですね。そういう知識の程度、教養の程度なんだな」(『聞き書 南原繁回顧録』丸山真男・福田歓一編、東京大学出版会、178-180頁)

 小野塚喜平次・前東大総長は、矢内原が自らの言論活動により東大を去る時、「破廉恥罪ではなく、公けの問題でやめたのだから、これからもここにやって来給え」と言って慰めたそうです。矢内原は「その温情は忘れない」と『私の歩んで来た道』に書いています。

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コメント

 南原繁の『形相』(岩波文庫)には、矢内原の辞職に関して触れたものは「Y君の辞職」となっています。

 『形相』の注によると、「国家の理想」の掲載された『中央公論』は昭和12年9月号で、藤井武の記念講演会は10月1日に行われました。12月1日に辞表が提出されて、翌2日の最後の講義には満場立錐の余地もない聴衆が集まったそうです。

 南原は、「Y君の辞職きまりし朝はあけて葬(はふ)りのごとく集ひゐたりき(十二月一日)」という句を作っています。

 藤井武は、内村鑑三の亡くなった昭和5年の7月に亡くなっています。その月に「亡びよ」という詩を書き、その中に、「亡びよ、この汚れた処女の国、この意気地なき青年の国! この真理を愛することを知らぬ獣と虫けらの国よ、亡びよ!」という言葉に続いて、こんな言葉があるのです。

 「『こんな国に何の未練もなく往ったと言ってくれ』と遺言した私の恩師の心情に私は熱涙をもって無条件に同感する」

 この「恩師」というのは、もちろん内村のことですが、内村には、こんな遺言があったのでしょうか。(18号)

投稿: | 2006年12月23日 (土) 12時01分

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