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2006年12月20日 (水)

高橋是清はキリスト教徒か

 時事通信社から日本宰相列伝8として「高橋是清」という本が出ている。細川隆元監修で、著者は今村武雄氏である。今村氏は新報知新聞主筆、日本経済新聞社論説委員を歴任、女子学院理事長も務めた人。日本キリスト教会柏木教会の会員でもあった。今村氏は、2・26事件の前、高橋が蔵相であった時、記者団の一人として、蔵相官邸で高橋に会見したそうだ。

 この本には高橋是清の略年譜が載っていて、その明治2年(16歳)の時には、こんな記述がある。

「フルベッキ師につき歴史書の回読をうけ、聖書の講義をききキリスト教信者となる」

 しかし、本文では、この言葉が否定されているのである。「高橋はとうとうキリスト教徒にはならずに死んだ」(29頁)。

 また、「キリスト教思想の影響」という項目があり、そこでは、「かれ(高橋)の宗教観は当時の功利主義の流れにそった浅薄なものだったにちがいない。けれども、プロテスタントらしい考え方が、かれの思想の系譜の中にくっきりとした年輪を画していることは事実だ」ともある。

 一方、新堀邦司氏は『愛わがプレリュード カナダ人宣教師G・E・バットの生涯』(日本基督教団出版局、99頁)の中で、こう言っている。

 「高橋是清は、青年時代にフルベッキやヘボンから指導を受けてキリスト教徒となった政治家である」

 さて、高橋とキリスト教との最初の出会いは、ヘボン博士であった。元治元年(1864年)、高橋と鈴木六之助(和雄、日銀出納局長)の二人は、仙台藩から選ばれて、横浜で英仏の学問を学ぶことになり、ヘボン夫人のもとで、英語をならった。その時、少しばかり宗教的な話を聞いたらしい。ヘボン博士が帰国すると、塾生は宣教師バラ夫人の宅に引き継がれ、そこでも英語の勉強をした。

 その後、高橋と鈴木は仙台藩の意向でアメリカに修行に行くことになる。そこで、高橋は一時、だまされて奴隷に売られるということになったが、それも解決して帰国したのが明治元年12月のこと。

 高橋は、洋行帰りの少壮官僚、森有礼に引き取られ、神田錦町の屋敷に住み、橋和吉郎と改名させられた。その森の勧めで、明治2年大学南校に入学、そこで南校教頭として赴任してきたフルベッキと出会い、その書生になった。

 高橋はフルベッキから聖書の講義を受けるが、高橋は、そこで「かわき切った大地が水を吸うように、博士の説く神のことばをうけ入れた。もし、環境がよかったならば、高橋はまじめなキリスト教徒としてその一生を貫くことができたであろう」(「高橋是清」23-24頁)という。

 高橋はフルベッキの役宅に同居したが、そこで仲間とどんちゃんさわぎを始めて、外に下宿することになった。その時、フルベッキは、ファミリー・バイブルという注釈付の聖書を高橋に渡したのである。それは、黒い皮表紙の大きな本で、フルベッキがキリスト教の講義をする時に、いつも自分の前に置いて見ていたものであった。

 「これはあなたにあげる。どんな場合でも一日に一度は見るようにしなさい」というのが、その時のフルベッキの言葉だった。

 高橋は、この一冊の聖書を大事に持っていた。彼が死んで、昭和12年の春、日比谷の旧議事堂跡で政治博覧会が開かれた時、高橋家から、この聖書が出品された。

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