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2007年1月12日 (金)

第1章

第1章 第二バチカン公会議と聖トマス

  第二バチカン公会議後、聖トマスのカトリック教会内における影響力は弱まったという声を聞く。その通りに違いない。第二バチカン公会議を「革命的」公会議と形容するのは当たらないが(革命的なカトリック公会議というものは存在しない)、少なくとも、その方針がトリエント公会議から第一バチカン公会議に至る「排他的」カトリック主義の延長上にないことだけは確かである。

 もっとも、この「排他的」カトリック主義という言葉は、何か人為的な匂いを感じさせるものである。あるいは、「排他的」の代わりに、「政治的」、「イデオロギー的」と言ってもいいのかも知れない。と言うのは、カトリックという言葉の意味は「普遍的」ということであり、「排他的」という形容とは、なじまないと思われるからである。

 しかし、とにかく、時代的要請により、トリエント公会議はプロテスタント対策といった意味も帯びていて、そこでは常にトマス・アクィナスの「神学大全」が開かれており、「アナテマ」の言葉が聞かれた。このような姿勢が、第二バチカン公会議までのカトリック教会の中に強く流れていて、それが「排他性」を感じさせていたのではないだろうか。

 従って、第二バチカン公会議以前、カトリック教会の神学思想は聖トマス一色であった。井上洋治神父は「このトマスの神学が、少なくとも私の滞欧時代にはカトリック教会のもっとも正統的な神学であるとされていたのであり、司祭になるものは、すべて多かれ少なかれ神学教育において、トマス主義者になることを強要されていたのである」(『キリストを運んだ男』井上洋治著、121頁)と言っている。

 第二バチカン公会議以前のカトリック教会内における聖トマスについて、同神父は、こう描写している。

 「トマスの神学を受け入れることを義務づけられたのは、聖職者のみではなくて、程度の差こそあれ、日本人のカトリック信者全員だったのである。それは当時カトリック教会に入信したいと願う者が、必ず勉強しなければならなかった『公教要理』と題する小冊子を一読すれば明らかである。この書は問答形式の形で、キリスト教とはどういう教えかということを説明した、いわばカトリック教会の制定教科書ともいうべきものだったのであるが、この『公教要理』の内容自体が、すでにトマス神学の縮小版ともいえるようなものだったのである」(前同、121-122頁)

 このように第二バチカン公会議以前のカトリック教会はトマス一色であった。しかし、本当に理解されていたのだろうか。「西洋哲学を専攻しているようなごく一部の例外者を除けば、まず殆ど大部分の人は、この公教要理はよく理解できないままに、ちょうどわからない数学の問題をそのまま暗記していく高校生のように、ただ暗記して入信していったのではなかったろうか」(前同、122頁) と、井上神父は見ている。

 そして、第二バチカン公会議により、カトリック教会の意識に大きな変化が生じた。

 沢田和夫神父は、この第二バチカン公会議によって、「教科書風のトマス哲学支持の時代は終わった」と見ている(『トマス・アクィナス研究』南窓社、223頁)。カトリック教会は今や、聖トマスという一定の、強制的形相のくびきを離れ、新たな形相を求める旅に出たとも言える。

 井上神父にも転機が訪れた。

 カルメル会で教育を受けた同神父は「西欧哲学を大学で専攻した私にとって、トマス神学を勉強すること自体はどうということはなかった。しかしトマス主義者にならなければならないということは、私にとっては実に何とも言いようのない精神的苦痛だったのである」(『キリストを運んだ男』、121頁)と述懐している。

 そして、井上神父にとって、非常に重要な転機が訪れた。

 「ヨーロッパ・キリスト教だけをキリスト教だと思い込んでいた私が、日本人は日本人であることをやめることなく、日本人のものの考え方と心情でイエスの福音をとらえればよいのだし、またとらえるべきだと確信したのは、北フランス、リールの大学で、はじめて東方神学の講義に接したときであった」(前同、122頁)と記している。

  おそらく、第二バチカン公会議以降、このような意識が強くなってきているのだろう。しかし、私は、まず2000年のキリスト教の歴史を素直に学ぶことから始めたらどうかと思う。トマスがなぜカトリック教会の中で重んじられてきたのか正確に理解しないで、別のものに関心を向けていく時、われわれはカトリック教会という「家」を正しく理解することはできないのではないだろうか。ヨーロッパ・キリスト教というものが運んできたキリスト教の本質が分かった時、人は東洋、日本にも目を向ける余裕を得るのではないだろうか。しかし、それが分からない時に、「日本」に目を向けるのであれば、信仰の普遍性をどのようにして獲得し、発展させていけようかと思う。日本は世界のカトリック教会の中で、ますます発言権を失っていくのではないだろうか。

 しかし、ヨゼフ・ラッツィンガー(現教皇)著『信仰について』(ドン・ボスコ社)は、私のこのような疑問に答えてくれた。そして、私は著者と同じように考えることができた。すなわち、第二バチカン公会議を是認し、しかもトマス主義を主張する道は「ある」のである。それは、第二バチカン以降、公会議の精神が正しく教会の中に浸透していかなかったという指摘である。従って、第二バチカン以前のトミズムの精神を、なお維持していくことは、信仰の遺産を守るという点で、非常に意味のあることである。もちろん、批判にていねいに対応していくことを通してであるが、それこそ、トマスが主著『神学大全』の中で展開している精神である。

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