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2007年1月13日 (土)

第2章

第2章 トマスから学ぶもの
■古典的トマス評

 では、トマスから、我々は何を学ぶべきであろうか。こんな言葉がある。

 「『超自然的な恩寵は自然を破壊せず却って之を予想し且つ完成する』と云ふトマスの言葉はカトリシスムの公理であるが、-」(『カトリック思想 吉満義彦追悼号』77頁、「吉満先生の哲学思想」松村克巳)

 「ベネディクト15世は記して曰く、『教会はトマスの教説を以て自らの教説なりと宣言す』(Thomae doctrinam Ecclesia suam propriam edixit esse)と。ピオ10世は曰った『聖なる教師の祝福されたる死以来、教会は未だ嘗て、トマスが(その教説の財宝によって)参与しなかった如き何等の公会議も開いた事がない』と。」(『宗教と文化』ジャック・マリタン著、吉満義彦訳、131-132頁)

 「教会は我々が聖トマスから遠ざかるときに大いなる危険に陥り、我々が成就すべき業を殆からしむるものなる事を知っている」(前掲書133頁)

 第二バチカン公会議のあとと言えども、まだ、この言葉は妥当するのではないかと思う。

■トマスに学ぶもの

 トマスの書物は、一見、難しいように見えて、哲学の専門的知識がないと歯が立たないように見える。しかし、我々にとっては、彼の教説として伝えられるもので、もっとも重要なポイントだけを抑えればよいのである。

 我々がトマスに学ぼうとするのは何であろうか。それは信仰と理性との関係についてである。

 人は信仰だけに偏ってもいけないし、理性だけに偏ってもいけない。前者は迷信に誘われ、後者は傲慢に陥る。信仰は理性を否定しないし、理性も信仰を否定しない。悲劇はこの両者の分離から起きる。これがヨーロッパ近世の実験であった。トマスは信仰と理性の正しい関係を洞察した。何において? 創造の教理においてである。理性を否定する者は神の創造を無にする者である。信仰を否定する者は人間の堕落、罪を見ない者である。そして、信仰も理性も、創造者なる神において相交わる接点を持っている。創造の教理は偉大な教理である。それは、ほとんど汎神論と見紛がうばかりに、共感の領域を広げることができる。井上神父が「汎在神論」と呼ぶ見方も、トマスにあっては、無理なく受け入れられるものである。トマスの思惟は、このようにして、「創造者なる神」を中心として、回転しているのである。

 第二バチカン公会議は公認トマス主義を放棄したかもしれないが、それはトマスの消滅を意味せず、その再発見、再認識に道を開くであろう。その一つの例が山田晶氏(元京大教授)によって示されている。

 山田氏は講談社刊『トマス・アクィナス』(人類の知的遺産二〇)に付いている「月報」(第14号)の中で、「トマスから学ぶこと」という一文を寄せている。その中で、同氏は、異論に対するトマスの接し方の独自さを挙げている。トマスの中では、異論は全面的に否定し去られることはほとんどない。そして「トマスは異論に対する解答において、それらの論がいかなる意味で妥当しないかを逐一ていねいに答えてゆく」。異論は「何らかの理由を有するものとしてその妥当する場所が保証される。かくてトマスの体系は、これらの異論をも呑みこんで海のようになる」。「トマス以後、彼に反対するいろいろな学派があらわれた。しかしもしトマスが生きていたら、それらの反対説に対していちいち解答を与え、それらの反対説を自分の体系のうちに呑みこんだにちがいない」。

 そして、最後に山田教授は、トマスの「学び方」をこそ、学ぼうと勧めるのである。「すべての説に対して心をひらき、すべての説から真実なるものを学び取り、それを自分の思想の血肉に化してゆくという態度は、現代のわれわれにも学べないことはないように思われる。私はその意味でトマスの弟子でありたいと願っている」という。これもまた、第二バチカンの潮流の中で出てきた原点主義のトマス版的回答の一つかも知れない。

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