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2007年1月13日 (土)

第3章

第3章 聖トマスの位置づけ

 聖トマスの重要性を真に認識するためには、彼のキリスト教史上における位置づけを問わねばならない。この問いについて、私に最初の示唆を与えてくれたのは、ジャック・マリタンの『形而上学序説』(吉満義彦訳)であった。彼は、その著書の中でギリシャ哲学の解説をしていた。いくらか教科書の復習のような気がしないでもなかった。しかし、そこにはマリタンの洞察が光っていた。

 哲学において重要なのは、哲学のいろいろな学説を知ることよりも、「哲学する」という自らの学的探究であると諭したのはカントであった。実際、人類の思想史には無数の哲学説が横たわっている。それらを紹介した教科書も数多く出回っている。そして、哲学を志す者が、それらを知ることは必要である。しかし、それだけでは十分ではない。それらの内的関連を探り出すこと、そして、究極的なものへと、それらを結びつけ、一つの統一的な「観」へまで仕上げること、これが「哲学する」ことの目標でなければならない。

 マリタンの『形而上学序説』に、私は、この「観」を示唆するものを感じたのである。それは、単なる哲学史の教科書には出てこないようなものである。そして、私は、哲学的精神が、この「観」の探究であるならば、それはまた、哲学史についても、一つの立場を表明しなければならないこと、自分なりの哲学史を書かねばならないのだということが分かった。

 マリタンは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスについて論じていた。およそ、哲学について何かを論じようという者であれば、この三者について触れなければならないだろう。しかし、単に触れるだけではいけない。この三者がどのように関係しているのかを探り、その問題意識をどう展開していくか、哲学史の根本理念をどう設定するかが重要なのである。

 私は、ソクラテスを重要な問題提起者、プラトンをソクラテスの問題提起を理論化した人、そしてアリストテレスを、その理論の批判者と見ている。その中で共通しているテーマはイデア論である。

 一般にギリシャ哲学の大成者はアリストテレスであると言われている。しかし、私は聖トマスこそ、その人ではないかと考えている。イデア論について言えば、「プラトン=正、アリストテレス=反、聖トマス=合」の図式の中で哲学史を見ている。プラトンはソクラテスの問題提起を受けて、イデアの世界を構想した。では、その世界はどこにあるのか。被造世界の中には、現実的な世界と一緒にどこかに理想の世界、イデアの世界があるとした時、それはどこにあるのか。この二世界説に対するアリストテレスの批判には道理があると思う。そして、聖トマスの業績は、このイデアの世界を被造世界ではなく、神の世界の中に置いたことである。従って、聖トマスの中にはプラトンもアリストテレスも生きている。

 聖トマスは、一般的にはアリストテレスの弟子と思われている。それは一応正しい。しかし、彼のキリスト教信仰は、アリストテレスに多くを学びつつも、なお彼をも超え、プラトンの真理契機をも受け入れる立脚点を彼に与えたのである。それは、イデアの世界を信仰の世界、超越世界に移したことである。これは非常に重要なことである。なぜなら、これにより、弟子トマスは先生アリストテレスを超えたからであり、これはヘブライイズムがヘレニズムを超えたことを意味するからである。従って、トマスにおいて、啓示が理性に屈伏したとか、キリスト教が異教に妥協したとか、そのような議論は成り立たないのである。

 トマス研究家の山田晶氏は偉大な哲学者として三人を挙げた。アリストテレス、トマス・アクィナスそしてヘーゲルであった。三人に共通しているのは体系的思想家であるということだ。自らの思惟に体系を持つこと、論理を持つこと、それは重要である。これら三人の体系的思想家の中で、アリストテレスには啓示は知られていなかった。ヘーゲルは啓示を知っていたが、それを理性の中に取り込もうとした。そのため哲学が不健全になった。ところが、聖トマスは理性を最高に働かせると共に、啓示に従い、理性の健康を守ったのである。

 私はヨーロッパ近世の原点は聖トマスにあるのではないかと思う時がある。それは彼にあっては、一応理性は啓示に従うのだが、同時に理性の自立といった考えもあるのである。理性の領域、哲学の領域については、信仰のあるなしは問題ではない。その判定者はあくまで理性である。これは多くの近代人に受け入れられる考えと思う。

 エデット・シュタインは、こう言っている。

 「聖トマスを知るまでは、わたくしは学問研究を神への奉仕として追求することが可能であることを充分に理解しませんでした。そしてこのことがわかったとき、はじめてわたくしは学問の仕事に真剣にうちこむことができるようになりました」(『崩れゆく壁』347頁)

 聖トマスは理性に希望を与えてくれる人である。理性の健康を保持するためには聖トマスの哲学を知ることは大いに助けになるのである。

 人はトマスを知って、初めてアリストテレスの偉大さを知ることができる。私は、アリステテレスにおいて、初めて理性の訓練といったものが可能であることを知る。アリストテレスは理性という、人間にとっての共通項において考えることを我々に教えてくれる。人はアリストテレスを尊重することにおいて、隣人に理性的に、従って真に人間的に接することを学ぶのである。

 トマスは13世紀の人間である。しかし、彼の理性的態度の故に「最初の近代人」と言われることがある。私は、彼のうちに現代人を感じるのである。それは「神学大全」的方法論の民主的性格の故である。そこから、エミール・ブルンナーの論争的神学との関係も洞察されるであろう。理性と信仰は「あれか、これか」的、二律背反的関係にあるのではない。このような姿勢は信仰的袋小路へとつながっている。信仰と理性の関係に関して、ブルンナーとトマスとは類似的理解を示しているように思える。

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