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2007年1月13日 (土)

第4章

第4章 総合主義者トマス

 『キリストと文化』(H・リチャード・ニーバー著)という本が1967年に日本基督教団出版局から出ている。文化の問題が宣教の問題との関係で探究されてきている現在、この本は貴重である。その中で、トマスは総合主義者として登場している。ニーバー自身の立場というものは、「文化の改造者キリスト」を唱える「回心主義」であるという。

 ところで、内村鑑三は総合主義者ではなかっただろうか。「武士道に接ぎ木されたキリスト教」という考え方は、ギリシャ哲学とキリスト教の総合を実現したトミズムと一脈通じるものがありそうだ。

 トマスの有名な言葉「超自然は自然を破壊せず、完成する」という言葉を思う時、私は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)というイエスの言葉を思う。

 この言葉は、プロテスタントの信仰の中では、なかなかしっくり理解できなかった。「超自然は自然を破壊し、新生させる」という言葉の方がプロテスタント的に思われたのである。

 しかし、イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言う。この中の「律法や預言者」については、旧約聖書を指している、従ってイエスは旧約聖書の完成者としての自分を表明されたのだという理解がなされよう。

 だが、このイエスの言葉と、トマスの有名な言葉には同じような響きが感じられるのである。「律法や預言者」は「自然」ではないという議論があるかも知れないが、トマスにおける「自然」は、罪に汚れた自然ではなくして、神に創造されたままの「自然」という含みがある。従って、「律法や預言者」と「自然」とは対立してはいないのではないだろうか。

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コメント

超自然は自然を破壊せず完成させる、というトマスの言葉に対して、近代のキリスト教(プロテスタント)は、破壊し新生させる、というのは、そのとおりと思います。最近、笠井恵二『自然的世界とキリスト教』という本を読んで、内村が自然を有機体ととらえ、「自然への賛歌」を行っていることを改めて知りました。これは、神道の問題にも結局なります。折口信夫を継承したらどうか、と思います。

投稿: 黒住 | 2010年2月13日 (土) 16時13分

コメント、ありがとうございます。折口信夫とキリスト教についての文献は知りませんが、柳田国男については、キリスト教との関係が語られています。自分でも、入信一歩手前まで行ったと言っており、興味深い感想が残されています。

投稿: | 2010年2月15日 (月) 09時43分

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