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2007年1月13日 (土)

第5章

第5章 トマスに対する誤解

 さて、私はトマス(1225/26-74)が、さまざまに誤解されてきたように思う。実際、歴史的には、トマス学派というものは「諸派の中の一学派、論議され、批判され、そしてかなり急速に乗り越えられていった一学派だった」(『キリスト教思想』クセジュ、64頁)のである。

 宗教改革は、トマスに対する誤解から生じたのではないだろうか。もし、そうだとすれば、それは誤解であるから、トマスの真髄とルターの真髄とは触れ合うことがあっても、おかしくはない。実際、トマスとルターの教えの同一性を指摘している学者もいるらしい。信仰義認で、カトリックとルター派が合意したことも、この考えが不当ではないことを示しているのではないか。

 トマスの対する素朴な誤解というものは、哲学者トマスと神学者トマスの区別を立てないところから来る。たとえば、「神の存在の証明」というものは、哲学者トマスの仕事であった。これは理性のわざであり、啓示によるものではなかった。

 もし、神学者として、「神存在の証明」を扱うとすれば、その時は、まっすぐにモーセにおける「燃える柴」の体験に行かなければならない。そこには、理性的探究はなくなり、ただ神の顕現だけがある。プロテスタンティズムは、このような領域に関心を集中しているのだと思う。

 では、トマスにも、このような領域の議論が存在するという主張の根拠は、どこにあるのか。それは、トマスが哲学と神学を区別しているからである。従って、神学者トマスには、神へのアプローチに関して、哲学者トマスとは別のアプローチがあったと思うのである。

 トマスは、このような神学者としての道を知らなかったのではない。従って、哲学者トマスが、究極のトマスと見なされるのであれば、それはトマスへの誤解の道を開くものである。

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