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2007年1月13日 (土)

第7章

第7章 真のトマスへの回帰

 第二バチカン公会議は聖トマスにとって何であったろうか。それは見えるところでは、確かに聖トマスの影響力の低下を示している。従って、この公会議は、一見、トマスにはマイナスの公会議であったように見える。しかし、それ以前、トマスは正しく評価されていたのだろうか。反対論を打破する錦の御旗といったところにトマスがおかれていたとしたら、ここではトマスの精神が歪められて受け取られる恐れはなかったであろうか。

 トマスとトマスの後継者との間には精神の違いがあるとして、ホイベルス神父は、ある詩を作った。

 これは、「聖カタリナの涙」(1921年3月7日、聖トマスの祝日に作る)というもので、聖カタリナの教えに嫌疑がかかり、トミストたちが聖カタリナにおそいかかる場面が描かれている。聖カタリナの死刑執行人はカエタヌス、バニエスという二人のトミスト、それにマイモニデスとアヴェロエスだった。そこにトマスが登場して、「私はこの論争に無関係だ。私はただいつも、人々の理性が行きづまった時、証明に引っぱり出されるだけのこと」と言わせている。

 いわゆるトリエント公会議以降のカトリック路線において、トマスはカトリック教会の大黒柱であったが、それは排他的作用の中での権威であった。しかし、このようなトマスには誤解の危険性が多分につきまとう。従って、トリエント後のカトリック教会が、どれほど多くトマスの名を語ったとしても、真のトマスは、あるいは隠されていたのかも知れない。なぜなら、彼の精神は排他的であるよりも、包括的であり、総合的であったからだ。

 ここまでくれば、第二バチカンと聖トマスとの関係についても、おおよその見通しがつく。第二バチカン以降、トマスの精神はカトリック教会の中でしぼんだのではなくして、新しい開花を待っているのである。「初代教会へ帰る」「聖書に帰る」という方向は不変ではない。われわれは受肉のイエスを見るとともに、再臨のイエスも見なければならない。そして、再臨のイエスを見て成長を願う時、われわれはトマスに導かれるであろう。

 トリエント公会議とトマス、第二バチカン公会議とトマス、それらは興味あふれるテーマである。

 トリエント公会議はトマスにとって果たして何であったか。それは、武装したトマスの誕生であった。トマスの包括的・総合的な精神は、異端にも常に一分の理を認めていたのだが、武装したトマスは対決へと導かれていった。それはカトリシズムが近代を通過するために取った摂理的手段であったかも知れない。そこには、トマスの精神の普遍性を感じとったローマ教会の信仰が働いていた。しかし、前にも触れたようにトリエントの精神がトマスの精神を正しく現していたかどうかについては、疑問を持ってもよいのではないか。

 そして、今、第二バチカン公会議によって、トマスはその武装を解除された。近代という新しい時間の支配に閉じ込められていたトマスは、今、解放されたのだ。それは教科書風トマスの時代の終わりであり、トマスの影響力低下と見える中で、公平で明澄な理性の人、本来のトマスへの道が開かれたのだ。

 『聖トマス・アクィナスの文化哲学』(マルティン・グラープマン著、小林珍雄訳)には、「トマスの著『護教大全』の、古典的註解者たるドミニコ会士フェルララのシルヴェストリスは、自著の序文の中で、聖トマスのことを、『万代不朽の人間』と呼び、あらゆる世紀に働きかける思想家としてゐる」(6頁)、「枢機卿エルレも、45年前に聖トマスの『神学大全』について、次のような至言を述べてゐる。『この神学大全の運命は、即ちカトリック学術の運命であり、そのカトリック諸学校に於いて博する尊敬は、神学並びに哲学研究の高度の測度計をなしてゐる』」(6-7頁)とある。この言葉を、じっくりと味わう時、聖トマスは、第二バチカン公会議の後と言えども、なお健全な信仰と学問の原点として生き続けているのだと思わざるを得ない。

  対決的性格が薄くなり、逆にもう一度、キリスト教の一致といった希求が見られるようになった第二バチカン公会議だが、これは何を意味するのだろうか。カトリック信仰においては、聖ペトロが主イエスからさずかった、人をすなどる漁師の網を、いま一度、大きく大海に投じたということである。従って第二バチカン公会議後の今日は「恵みの日、救いの日」と見ることもできる。

 人々は今、この「大いなる漁師」によって広げられた網に注目している。そして、ますます網を広げ、その中に魚を招こう、あるいは追い込もうと努力している。このような関心、努力の中で、この網を握っているのが、そもそも誰であるのか、余り意識されなくなってきている傾向があが、この網は、たとえ、どれほど広げられたとしても、カトリック信仰の中では、やはり聖ペトロの網であり、聖ペトロが大本を握っているのだ。そうでなければ、我々は、キリスト教というものを、具体的、現実的、歴史的なものと考える思考を、一部、犠牲にせざるを得ないのである。

 聖トマスのカトリック教会内における位置づけを考える時、その影響力については確かに弱まったかも知れないが、消滅したわけではない。やがて、この広げられた網が聖ペトロによって引き上げられる時、その時、聖トマスは再び、教会の聖人としての力を発揮するであろう。

 さまざまな説が乱れとぶ現代の教会が、もう一度、静かに全世界に投じられた聖ペトロの、人をすなどる網をたぐり寄せようとする時、そこに働くのは、やはり聖トマスの、新しく見直された精神ではないだろうか。

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