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2007年1月31日 (水)

墓巡り

Rimg01450 墓巡り 歴史に固定 その生は
 後世人の 解釈さそう

1月2日、テレビ東京で、「忠臣蔵 瑤泉院の陰謀」を見たのですが、吉良上野介が悪いとは思えませんでした。中野区・上高田の萬昌院功運寺という禅寺に、その墓があります。

「吉良義央墓」という木の案内板があります。四つの塔のような墓が並んでいて、一番右が、吉良義央の墓(写真)です。「元禄十五壬午十二月十五」という文字、また「従四位上左近衛少将吉良」という文字も確認しました。

四つの墓の両端には、松がありました。あの事件を象徴しているかのように。

墓に向かって左には、「吉良邸討死忠臣墓誌」があります。討死した家来38人の名前と年齢などが書かれていました。最高齢は60歳で一人、そのあとは、55歳が一人、53歳が一人、50歳が二人で、あとは40代、30代、20代、最少年齢は15歳の牧野春斎という茶坊主でした。よく、吉良方で出てくる清水一学は「清水逸学」という名前で、25歳ということでした。名前の列挙のあとに、「元禄15年12月15日討死」という文字が書かれていました。

吉良方の忠臣たちの名前を見て、あの事件は、一体、何だったのだろうか、と思いました。

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産学協同

大学が 真理探究 灯を捨てて
 この世と結ぶ 超越はどこ

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2007年1月30日 (火)

産む機械

人間の 機械論言う 人がいた
 科学者だった 今批判され

柳沢大臣が「女性は産む機械」に反発した人たちは、人間(女性)は機械ではない、人間機械論は間違いである、という主張をしているのだろうか。

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2007年1月29日 (月)

戦没者追悼

若くして 戦死した人 思うたび
 どこかに残る 後ろめたさが

彼は死に 我が生きるは なぜなのか
 答えを知らず 生は不可解

戦没者 我何すべき 問い返し
 少しの供養 思うことにて

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久間防衛大臣

民主主義 苦労している 沖縄で
 米国産が 疑われるよ

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2007年1月28日 (日)

写生

なぜ写生 汎神論を 思いみよ
 汝が見るものは 神なればなり

俳句で重視する写生の意味が、今でもよく分かりません。しかし、汎神論的な宗教がバックにあるのだとすれば、分かるような気がします。もっとも、これは単なる仮説に過ぎません。

スピノザがはっきりした汎神論者で、ヘーゲルも汎神論的傾向があり、ヘーゲルは自分でも、そう認識していたとのことです。

有神論は汎神論ではないけれども、創造主と被造物とは無関係ではない、関係があるという意味では、修正した汎神論とでも言うべきかも知れません。
 

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人生で 時には損を してみよう
 空即是色 悟り得るかも

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談合

談合で 逮捕されたる 知事さんら
 悪意なくとも 法は法なり

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北朝鮮

北の国 そろそろ時間 気になるね
 体制のあと どうなるのだろう

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IT規制

ITの 規制願うも 無理だよね
 そは神の座に おわします故

中国の胡主席がIT規制をしたがっているが、難しいと思う。

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ブログ論

近世に 印刷術が ありしごと
 新中世に ブログの短歌

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2007年1月27日 (土)

堀江・前社長

堀江さん 私は無罪 言うけれど
 立場は社長 それで通るか

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恋はるか

恋はるか 真夜さんの歌 思い出す
 海辺の駅で 初恋の味

「恋はるか」は、「深夜便の歌」で、南こうせつさんが歌っています。1番の歌詞を読んでいて、岡本真夜さんの歌「制服の夏」を思い出しました。

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反復

いのち見よ 安定求め 反復す
 反復の中 核心を突け

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不幸

ひと我を 不幸と言いて 哀れむが
 これも一つの 旅の景色と

たじろがず 不幸味わい 表せよ
 そこから人に 共生の道

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ニヒリズム

ニヒリズム 釈迦の出家の 原因で
 虚無言う人に 出家を勧む

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希望

見上げれば 青空があり 空(そら)は空(くう)
 空即是色 希望は常に

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文化

文化とは 表現求む 人のわざ
 何を表現 そを見定めよ

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健康

健康は 生の目的 ではないよ
 その彼方をば 見続けるべき

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首相演説

輝ける 近代日本 範とする
 首相演説 時代問う我

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生体反応

生体は 正直にして 目的を
 失うならば 衰え目立ち

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長崎

長崎が 世界の窓で あった時
 明治の人の 西洋のごと

ケーベルは「明治の人の 西洋」の代表的存在であったと思います。その魅力が、かつての長崎であったのでしょう。今は、その感じが失せてしまいましたが。

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裁判

裁判は 社会のルール 教える場
 こじれ感情 ほぐしもするが

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国の主

企業人 政治家たちも 謝罪する
 この国の主は 国民と知る

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負け組

必勝を 念じて生きる それもよし
 結果負けるも それもまたよし

負け組になることを恐れるなかれ

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2007年1月26日 (金)

富士山

富士を見て 日本の山と 言うことに
 賛意を表す その美に打たれ

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政治家

面の皮 厚くなければ 務まらぬ
 情に厚くも なければならぬ

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裁判

おしらすで 損得意識 表明す
 ここは正義を 問う場なりしも

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2007年1月23日 (火)

新しき中世

新しき中世というのは、私にとっては、未来に待ち望む社会ではありません。現代社会そのものです。

今、放送大学で、「情報産業論」というタイトルの講義がされています。ポストモダンの社会とは何かが論じられています。

私にとっては、教会内の重要な動向と共に、ポストモダンの社会が新しき中世です。そこで、キリスト教は、また教会は、どうあるべきか、それを知りたいと思います。

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使徒継承教会

使徒継承教会という概念があるのかどうか、一般的なものかどうか、私はよく知らない。ただ、Nさんとのエキュメニズムに関する対話の中で、この言葉が出てきた。Nさんも、もともとはプロテスタントであった。

この使徒継承教会という概念の中では、ローマ教会は、その一つであり、すべてではない。正教会があり、聖公会があり、そして東方カトリック教会がある。カトリック教会というと、ローマ教会と同一と思ってしまうのだが、使徒継承教会という概念の中では、そうではないのである。そして、本来的には、カトリック教会というのは、この使徒継承教会の意味なのだと、私は思っている。

Nさんは、プロテスタントからの「改宗」希望者に対しては、ローマ教会では、歴史的な対立関係もあったからとの理由で、東方カトリック教会を勧めた。その信徒として、ローマ教会のミサにあずかればよいという。メルカイト教会というのがあるらしかった。しかし、私は、メルカイト教会の信徒です、と言った時、誰が、それを理解するだろうか。メルカイト教会という名前を知らない人だって多いのではないだろうか。カトリックなんですけれど、ローマ教会ではありません。そういう言い方に、どれだけの意味があるのだろうか。

Nさんは正教会に関心があるらしく、Nさんと共に、四谷にあったロシア正教会の教会、また御茶ノ水のニコライ堂を訪ねたこともあった。ミサに参加したのである。聖体拝領はしなかった。正教会では、ローマ教会に対して、自分たちこそ、正統という意識があるように、Nさんとの対話の中で感じた。

ところで、プロテスタント教会の中では、この使徒継承教会という考えは、なかなか理解されないのではないだろうか。逢坂元吉郎が、それに近づいたけれど、受け入れてしまえば、プロテスタント信仰を捨てることになるのではないかと、私は思った。ルターはローマ教会の司祭であったが、カルバンはどうか。信徒ではなかったろうか。司教の継承はプロテスタント教会にはないのではないだろうか。聖公会は、プロテスタントといわれているが、使徒継承を主張している特別の教会である。

プロテスタント教会のプロテスタントという言葉は、対カトリック教会(対ローマ教会)という意味である。対抗意識の表明である。であれば、プロテスタント教会は、ローマ教会に、言葉の上では、関係づけらけれているのではないだろうか。「カトリック教会がなければプロテスタント教会もないんだよ」と、Nさんは言っていた。確かに、そうかも知れない。

しかし、プロテスタントの意識の中では、どうだろうか。ローマ教会の中で福音の捕囚が行われた。福音の解放が、本来の意図である。教会史に関しては、西方教会を自分たちの歴史と考えている。そんなことではないだろうか。

信仰義認の教義が、福音の真髄という理解であり、そのためのプロテストであった。しかし、この教義に関して、合意が出来てしまえば、プロテストの意味がなくなるのではないだろうか。プロテスタント教会のアイデンティティは、どこにあるのだろうか。それが今、問われているのではないだろうか。

「カトリック教会かい、あれは行為義認の教会さ。いや半ペラギウス(神人協力)の教会かも知れない。少なくとも信仰義認の教会ではない。なぜなら、信仰義認の教会なら、どうしてルターが信仰義認の旗印で批判したのか。意味ないじゃないか」

こういう理解の中で、プロテスタント意識が生まれてきて、維持されてきたとすれば、それは、もう通用しなくなったのである。信仰義認で合意が出来たからである。

プロテスタント教会の「プロテスタント」とは、ローマ教会に対する「プロテスト」を意味しているのだが、今、その「プロテスタント」の意味内容が、問われているのではないだろうか。歴史的遺物になってしまったのではないのだろうか。こういう問題意識は、ないのだろうか。

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新中世

別名を ポストモダンと 言うらしい
 中世似との 指摘もあるが

プレモダン、モダン、ポストモダンの時代区分は、どこかヘーゲル的ではあります。中世、近代、新中世となりますか。

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2007年1月22日 (月)

歌人

歌人たれ 表現手段 持てよかし
 歌いて自己を 完成させよ

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放送大学

放送の 大学を知る 還暦後
 遅かりしかな 時代は変わる

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童謡

童謡を 聞きつつ 純粋の
 経験ありし 意識の故郷

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2007年1月21日 (日)

観客

人がいて 見ているからね やれるんだ
 無人の場では 何もできない

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皇室

イラク見て 日本のよさを 知る思い
 皇室ありて 日本まとまる

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赤穂義士

晴朗な 意識を持ちて 罪犯す
 罰を受けしが 時代も撃ちて

綱吉の 助命の思い 実らずに
 綱吉は逝く 元禄の消ゆ

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2007年1月20日 (土)

サタン

人を見て 心にサタン いるかもね
 サタンも神に 従うからね

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人見れば 物体があり 否定せず
 目と目が合えば ハイゼンベルグ

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2007年1月19日 (金)

俳句の秘密

芭蕉翁 自然を詠んで 旅をして
 内なる自然 隠し詠みつつ

「隠し詠みつつ」は、私の想像です。俳句は外なる自然を詠むのですが、実は、内なる自然を詠むものとも解釈できるのではないでしょうか。そこに芭蕉の宗教性もあると思います。

外なる自然を詠むだけであれば、自然科学の研究者が実存的不安に捕らえられて、人文・宗教問題に転向していく切迫さがないということになります。人間の問題とは実存問題であり、その解決が焦眉の急なのだと思います。

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朝青龍

野次が飛ぶ 大横綱に 負けろだと
 国籍ゆえか それは悲しい

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2007年1月18日 (木)

彼方へ

日本語の 中に生まれて そこで果つ
 世界に言語 多くあるのに

世界知り 日本は一部 世界にて
 日本主義者に 孤立の不安

対話とは 理解の橋の 往来で
 橋を造りて 自己を超え出て

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ハケンの品格

涼子さん 存在感を 放射して
 ハケン品格 カッコいいなと

日本テレビの連続ドラマ「ハケンの品格」(水曜日・午後10時)で、篠原涼子さんが、派遣社員・大前春子を主演しています。面白いドラマです。

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子孫

子がいない 育児なしなる 人にとり
 生きるは何の ためであろうか

血は絶えて 子孫はいなく なった時
 墓の管理は 誰がするのか

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遺産

先人は 遺産残して いるのだが
 それを生かすは 我らが務め

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2007年1月17日 (水)

IT時代の予言

ITは神ではない。しかし、「神の如き」ものと言ってもいいかも知れない。ITによって長者たちが生まれ、それによって多くの人たちの生が支えられている。パソコン操作が出来るという、たったそれだけの理由で、会社では後輩が先輩を追い越していく。そんな現実を見ていて、この21世紀初頭の「神の如き」ものに、少しは関心を持ち、その意思に少しは従順になってもいいのではないかとも思う。

実は、こんな状況を予言した人がいた。1999年12月6日の朝日新聞に美術評論家の篠田達美氏が「神としてのコンピューター 『新しい中世』到来の予感」という題で書いているのだ。

篠田氏は、時代がどんなものか考えた。「ルネサンス期の最後」ではないか、と。その時代は「人間中心」の時代だ。では、その前の中世は?  篠田氏は「神中心」という。ではルネサンスに連動して起きた「神中心」を掲げた宗教改革は、「神中心」の時代を終わらせてしまったのだろうか。そうかも知れない。その歴史観では、近世は「神中心」と「人間中心」の混合時代なのだろう。それはそれでいい。しかし、「人間中心」の時代は終わろうとしている。

篠田氏は「新しい中世」の時代の到来を予言する。では、ここでも「神中心」になるのだろうか。そう、「今度の神はコンピューターだ」という。そして、「コンピューターが神の新しい時代には、コンピューターの管理者が、新しいタイプの聖職=支配者となるだろう」という。IT長者たちは確かに支配者かも知れない。だが、聖職だろうか。コンピューターが神であれば、そうだろうが、「神の如き」ものであれば、聖職の尊称は少し待った方がいいのかも知れない。

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短詩効能

膨大な 知の海の中 沈むまい
 短詩で核を 見抜く努力

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2007年1月13日 (土)

主体の病

面白き 理系学問 知るなれど
 主体の病 それが優先

病癒え 理系学問 たまによし
 道楽の快 それも生きがい

成長の 障害という 病あり
 漸進薬 日々服用す

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第7章

第7章 真のトマスへの回帰

 第二バチカン公会議は聖トマスにとって何であったろうか。それは見えるところでは、確かに聖トマスの影響力の低下を示している。従って、この公会議は、一見、トマスにはマイナスの公会議であったように見える。しかし、それ以前、トマスは正しく評価されていたのだろうか。反対論を打破する錦の御旗といったところにトマスがおかれていたとしたら、ここではトマスの精神が歪められて受け取られる恐れはなかったであろうか。

 トマスとトマスの後継者との間には精神の違いがあるとして、ホイベルス神父は、ある詩を作った。

 これは、「聖カタリナの涙」(1921年3月7日、聖トマスの祝日に作る)というもので、聖カタリナの教えに嫌疑がかかり、トミストたちが聖カタリナにおそいかかる場面が描かれている。聖カタリナの死刑執行人はカエタヌス、バニエスという二人のトミスト、それにマイモニデスとアヴェロエスだった。そこにトマスが登場して、「私はこの論争に無関係だ。私はただいつも、人々の理性が行きづまった時、証明に引っぱり出されるだけのこと」と言わせている。

 いわゆるトリエント公会議以降のカトリック路線において、トマスはカトリック教会の大黒柱であったが、それは排他的作用の中での権威であった。しかし、このようなトマスには誤解の危険性が多分につきまとう。従って、トリエント後のカトリック教会が、どれほど多くトマスの名を語ったとしても、真のトマスは、あるいは隠されていたのかも知れない。なぜなら、彼の精神は排他的であるよりも、包括的であり、総合的であったからだ。

 ここまでくれば、第二バチカンと聖トマスとの関係についても、おおよその見通しがつく。第二バチカン以降、トマスの精神はカトリック教会の中でしぼんだのではなくして、新しい開花を待っているのである。「初代教会へ帰る」「聖書に帰る」という方向は不変ではない。われわれは受肉のイエスを見るとともに、再臨のイエスも見なければならない。そして、再臨のイエスを見て成長を願う時、われわれはトマスに導かれるであろう。

 トリエント公会議とトマス、第二バチカン公会議とトマス、それらは興味あふれるテーマである。

 トリエント公会議はトマスにとって果たして何であったか。それは、武装したトマスの誕生であった。トマスの包括的・総合的な精神は、異端にも常に一分の理を認めていたのだが、武装したトマスは対決へと導かれていった。それはカトリシズムが近代を通過するために取った摂理的手段であったかも知れない。そこには、トマスの精神の普遍性を感じとったローマ教会の信仰が働いていた。しかし、前にも触れたようにトリエントの精神がトマスの精神を正しく現していたかどうかについては、疑問を持ってもよいのではないか。

 そして、今、第二バチカン公会議によって、トマスはその武装を解除された。近代という新しい時間の支配に閉じ込められていたトマスは、今、解放されたのだ。それは教科書風トマスの時代の終わりであり、トマスの影響力低下と見える中で、公平で明澄な理性の人、本来のトマスへの道が開かれたのだ。

 『聖トマス・アクィナスの文化哲学』(マルティン・グラープマン著、小林珍雄訳)には、「トマスの著『護教大全』の、古典的註解者たるドミニコ会士フェルララのシルヴェストリスは、自著の序文の中で、聖トマスのことを、『万代不朽の人間』と呼び、あらゆる世紀に働きかける思想家としてゐる」(6頁)、「枢機卿エルレも、45年前に聖トマスの『神学大全』について、次のような至言を述べてゐる。『この神学大全の運命は、即ちカトリック学術の運命であり、そのカトリック諸学校に於いて博する尊敬は、神学並びに哲学研究の高度の測度計をなしてゐる』」(6-7頁)とある。この言葉を、じっくりと味わう時、聖トマスは、第二バチカン公会議の後と言えども、なお健全な信仰と学問の原点として生き続けているのだと思わざるを得ない。

  対決的性格が薄くなり、逆にもう一度、キリスト教の一致といった希求が見られるようになった第二バチカン公会議だが、これは何を意味するのだろうか。カトリック信仰においては、聖ペトロが主イエスからさずかった、人をすなどる漁師の網を、いま一度、大きく大海に投じたということである。従って第二バチカン公会議後の今日は「恵みの日、救いの日」と見ることもできる。

 人々は今、この「大いなる漁師」によって広げられた網に注目している。そして、ますます網を広げ、その中に魚を招こう、あるいは追い込もうと努力している。このような関心、努力の中で、この網を握っているのが、そもそも誰であるのか、余り意識されなくなってきている傾向があが、この網は、たとえ、どれほど広げられたとしても、カトリック信仰の中では、やはり聖ペトロの網であり、聖ペトロが大本を握っているのだ。そうでなければ、我々は、キリスト教というものを、具体的、現実的、歴史的なものと考える思考を、一部、犠牲にせざるを得ないのである。

 聖トマスのカトリック教会内における位置づけを考える時、その影響力については確かに弱まったかも知れないが、消滅したわけではない。やがて、この広げられた網が聖ペトロによって引き上げられる時、その時、聖トマスは再び、教会の聖人としての力を発揮するであろう。

 さまざまな説が乱れとぶ現代の教会が、もう一度、静かに全世界に投じられた聖ペトロの、人をすなどる網をたぐり寄せようとする時、そこに働くのは、やはり聖トマスの、新しく見直された精神ではないだろうか。

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第6章

第6章 にも、かかわらず

 しかし、不思議なことに、第二バチカン公会議を境にして、聖トマスの影響力低下といった一般的観察がある一方で、同公会議は逆に聖トマスの精神の勝利であったといった、うがった見方もある。

 聖トマスは当時、支配的であったアウグスチヌス主義に対して、アリストテレス主義を教会に導入する者として、さまざまな抵抗に遭遇した。彼の教説の一部が、彼の死後、ある司教によって異端の烙印を押されるといった事態も発生した。彼は、当時の伝統的な教会意識に対して闘い、そして勝利していったと見ることもできるのだ。

 とすれば、この点では、第二バチカン公会議の精神に近いものを聖トマスは持っていたのかも知れない。ということで、逆に聖トマスの精神の勝利を意味しているというのである。これは一つの見方であり、私には本質的とは思えないが、一つの理屈ではあろう。

 第二バチカン公会議の精神とは初代教会への復帰であり、そこでもたらされたのは聖書学の復興であった。これは原点回帰であった。そこに戻って、形成の原理をもう一度、再確認しようというのであろうか。

 聖トマスの闘いを顧みる時、それは神学思想の形成の原理の間にある哲学思想同士の争いであった。一つの哲学思想(プラトン主義)に対する、もう一つの哲学思想(アリストテレス主義)の争いであり、後者の立場で、後者も乗り越えた立場を示した。

 しかし、第二バチカン公会議はトマスのアリストテレス主義に対してプラトン主義とか、他の哲学思想をもって対決しようというのではなく、聖書という啓示そのものに帰ろうというのである。それは、それで結構なのだが、「われわれはキリスト教の初歩の教えを後にして、前進しようではないか」という聖書の勧めもある。

 いや、あるいは、こんなふうに考えるべきなのかも知れない。

 「初代教会に帰れ」「聖書研究を盛んにしよう」といった第二バチカン公会議後の潮流はプロテスタンティズムへの接近をもたらした。日本では、その成果として画期的な共同訳聖書の実現が挙げられる。従って、この精神はエキュメニズム戦略の一つであるのかも知れない。しかし、同時に、この「弱い形相」を補完するものとして、新しい地域的形相が、今求められているのかも知れない。それは、日本文化の中にある、日本人にとっては強い形成力をカトリシズムの中に吸収していくための、教会側の準備を意味しているのかも知れない。カトリシズムは、今、キリスト教以外の文化との出会いを経験していて、それらの持つ優れたもの(形相、形成力)を普遍的教会の中に取り入れようとしているのかも知れない。であれば、それは、日本の教会にとっては、現在という時は貴重な機会なのである。

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第5章

第5章 トマスに対する誤解

 さて、私はトマス(1225/26-74)が、さまざまに誤解されてきたように思う。実際、歴史的には、トマス学派というものは「諸派の中の一学派、論議され、批判され、そしてかなり急速に乗り越えられていった一学派だった」(『キリスト教思想』クセジュ、64頁)のである。

 宗教改革は、トマスに対する誤解から生じたのではないだろうか。もし、そうだとすれば、それは誤解であるから、トマスの真髄とルターの真髄とは触れ合うことがあっても、おかしくはない。実際、トマスとルターの教えの同一性を指摘している学者もいるらしい。信仰義認で、カトリックとルター派が合意したことも、この考えが不当ではないことを示しているのではないか。

 トマスの対する素朴な誤解というものは、哲学者トマスと神学者トマスの区別を立てないところから来る。たとえば、「神の存在の証明」というものは、哲学者トマスの仕事であった。これは理性のわざであり、啓示によるものではなかった。

 もし、神学者として、「神存在の証明」を扱うとすれば、その時は、まっすぐにモーセにおける「燃える柴」の体験に行かなければならない。そこには、理性的探究はなくなり、ただ神の顕現だけがある。プロテスタンティズムは、このような領域に関心を集中しているのだと思う。

 では、トマスにも、このような領域の議論が存在するという主張の根拠は、どこにあるのか。それは、トマスが哲学と神学を区別しているからである。従って、神学者トマスには、神へのアプローチに関して、哲学者トマスとは別のアプローチがあったと思うのである。

 トマスは、このような神学者としての道を知らなかったのではない。従って、哲学者トマスが、究極のトマスと見なされるのであれば、それはトマスへの誤解の道を開くものである。

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第4章

第4章 総合主義者トマス

 『キリストと文化』(H・リチャード・ニーバー著)という本が1967年に日本基督教団出版局から出ている。文化の問題が宣教の問題との関係で探究されてきている現在、この本は貴重である。その中で、トマスは総合主義者として登場している。ニーバー自身の立場というものは、「文化の改造者キリスト」を唱える「回心主義」であるという。

 ところで、内村鑑三は総合主義者ではなかっただろうか。「武士道に接ぎ木されたキリスト教」という考え方は、ギリシャ哲学とキリスト教の総合を実現したトミズムと一脈通じるものがありそうだ。

 トマスの有名な言葉「超自然は自然を破壊せず、完成する」という言葉を思う時、私は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)というイエスの言葉を思う。

 この言葉は、プロテスタントの信仰の中では、なかなかしっくり理解できなかった。「超自然は自然を破壊し、新生させる」という言葉の方がプロテスタント的に思われたのである。

 しかし、イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言う。この中の「律法や預言者」については、旧約聖書を指している、従ってイエスは旧約聖書の完成者としての自分を表明されたのだという理解がなされよう。

 だが、このイエスの言葉と、トマスの有名な言葉には同じような響きが感じられるのである。「律法や預言者」は「自然」ではないという議論があるかも知れないが、トマスにおける「自然」は、罪に汚れた自然ではなくして、神に創造されたままの「自然」という含みがある。従って、「律法や預言者」と「自然」とは対立してはいないのではないだろうか。

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第3章

第3章 聖トマスの位置づけ

 聖トマスの重要性を真に認識するためには、彼のキリスト教史上における位置づけを問わねばならない。この問いについて、私に最初の示唆を与えてくれたのは、ジャック・マリタンの『形而上学序説』(吉満義彦訳)であった。彼は、その著書の中でギリシャ哲学の解説をしていた。いくらか教科書の復習のような気がしないでもなかった。しかし、そこにはマリタンの洞察が光っていた。

 哲学において重要なのは、哲学のいろいろな学説を知ることよりも、「哲学する」という自らの学的探究であると諭したのはカントであった。実際、人類の思想史には無数の哲学説が横たわっている。それらを紹介した教科書も数多く出回っている。そして、哲学を志す者が、それらを知ることは必要である。しかし、それだけでは十分ではない。それらの内的関連を探り出すこと、そして、究極的なものへと、それらを結びつけ、一つの統一的な「観」へまで仕上げること、これが「哲学する」ことの目標でなければならない。

 マリタンの『形而上学序説』に、私は、この「観」を示唆するものを感じたのである。それは、単なる哲学史の教科書には出てこないようなものである。そして、私は、哲学的精神が、この「観」の探究であるならば、それはまた、哲学史についても、一つの立場を表明しなければならないこと、自分なりの哲学史を書かねばならないのだということが分かった。

 マリタンは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスについて論じていた。およそ、哲学について何かを論じようという者であれば、この三者について触れなければならないだろう。しかし、単に触れるだけではいけない。この三者がどのように関係しているのかを探り、その問題意識をどう展開していくか、哲学史の根本理念をどう設定するかが重要なのである。

 私は、ソクラテスを重要な問題提起者、プラトンをソクラテスの問題提起を理論化した人、そしてアリストテレスを、その理論の批判者と見ている。その中で共通しているテーマはイデア論である。

 一般にギリシャ哲学の大成者はアリストテレスであると言われている。しかし、私は聖トマスこそ、その人ではないかと考えている。イデア論について言えば、「プラトン=正、アリストテレス=反、聖トマス=合」の図式の中で哲学史を見ている。プラトンはソクラテスの問題提起を受けて、イデアの世界を構想した。では、その世界はどこにあるのか。被造世界の中には、現実的な世界と一緒にどこかに理想の世界、イデアの世界があるとした時、それはどこにあるのか。この二世界説に対するアリストテレスの批判には道理があると思う。そして、聖トマスの業績は、このイデアの世界を被造世界ではなく、神の世界の中に置いたことである。従って、聖トマスの中にはプラトンもアリストテレスも生きている。

 聖トマスは、一般的にはアリストテレスの弟子と思われている。それは一応正しい。しかし、彼のキリスト教信仰は、アリストテレスに多くを学びつつも、なお彼をも超え、プラトンの真理契機をも受け入れる立脚点を彼に与えたのである。それは、イデアの世界を信仰の世界、超越世界に移したことである。これは非常に重要なことである。なぜなら、これにより、弟子トマスは先生アリストテレスを超えたからであり、これはヘブライイズムがヘレニズムを超えたことを意味するからである。従って、トマスにおいて、啓示が理性に屈伏したとか、キリスト教が異教に妥協したとか、そのような議論は成り立たないのである。

 トマス研究家の山田晶氏は偉大な哲学者として三人を挙げた。アリストテレス、トマス・アクィナスそしてヘーゲルであった。三人に共通しているのは体系的思想家であるということだ。自らの思惟に体系を持つこと、論理を持つこと、それは重要である。これら三人の体系的思想家の中で、アリストテレスには啓示は知られていなかった。ヘーゲルは啓示を知っていたが、それを理性の中に取り込もうとした。そのため哲学が不健全になった。ところが、聖トマスは理性を最高に働かせると共に、啓示に従い、理性の健康を守ったのである。

 私はヨーロッパ近世の原点は聖トマスにあるのではないかと思う時がある。それは彼にあっては、一応理性は啓示に従うのだが、同時に理性の自立といった考えもあるのである。理性の領域、哲学の領域については、信仰のあるなしは問題ではない。その判定者はあくまで理性である。これは多くの近代人に受け入れられる考えと思う。

 エデット・シュタインは、こう言っている。

 「聖トマスを知るまでは、わたくしは学問研究を神への奉仕として追求することが可能であることを充分に理解しませんでした。そしてこのことがわかったとき、はじめてわたくしは学問の仕事に真剣にうちこむことができるようになりました」(『崩れゆく壁』347頁)

 聖トマスは理性に希望を与えてくれる人である。理性の健康を保持するためには聖トマスの哲学を知ることは大いに助けになるのである。

 人はトマスを知って、初めてアリストテレスの偉大さを知ることができる。私は、アリステテレスにおいて、初めて理性の訓練といったものが可能であることを知る。アリストテレスは理性という、人間にとっての共通項において考えることを我々に教えてくれる。人はアリストテレスを尊重することにおいて、隣人に理性的に、従って真に人間的に接することを学ぶのである。

 トマスは13世紀の人間である。しかし、彼の理性的態度の故に「最初の近代人」と言われることがある。私は、彼のうちに現代人を感じるのである。それは「神学大全」的方法論の民主的性格の故である。そこから、エミール・ブルンナーの論争的神学との関係も洞察されるであろう。理性と信仰は「あれか、これか」的、二律背反的関係にあるのではない。このような姿勢は信仰的袋小路へとつながっている。信仰と理性の関係に関して、ブルンナーとトマスとは類似的理解を示しているように思える。

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第2章

第2章 トマスから学ぶもの
■古典的トマス評

 では、トマスから、我々は何を学ぶべきであろうか。こんな言葉がある。

 「『超自然的な恩寵は自然を破壊せず却って之を予想し且つ完成する』と云ふトマスの言葉はカトリシスムの公理であるが、-」(『カトリック思想 吉満義彦追悼号』77頁、「吉満先生の哲学思想」松村克巳)

 「ベネディクト15世は記して曰く、『教会はトマスの教説を以て自らの教説なりと宣言す』(Thomae doctrinam Ecclesia suam propriam edixit esse)と。ピオ10世は曰った『聖なる教師の祝福されたる死以来、教会は未だ嘗て、トマスが(その教説の財宝によって)参与しなかった如き何等の公会議も開いた事がない』と。」(『宗教と文化』ジャック・マリタン著、吉満義彦訳、131-132頁)

 「教会は我々が聖トマスから遠ざかるときに大いなる危険に陥り、我々が成就すべき業を殆からしむるものなる事を知っている」(前掲書133頁)

 第二バチカン公会議のあとと言えども、まだ、この言葉は妥当するのではないかと思う。

■トマスに学ぶもの

 トマスの書物は、一見、難しいように見えて、哲学の専門的知識がないと歯が立たないように見える。しかし、我々にとっては、彼の教説として伝えられるもので、もっとも重要なポイントだけを抑えればよいのである。

 我々がトマスに学ぼうとするのは何であろうか。それは信仰と理性との関係についてである。

 人は信仰だけに偏ってもいけないし、理性だけに偏ってもいけない。前者は迷信に誘われ、後者は傲慢に陥る。信仰は理性を否定しないし、理性も信仰を否定しない。悲劇はこの両者の分離から起きる。これがヨーロッパ近世の実験であった。トマスは信仰と理性の正しい関係を洞察した。何において? 創造の教理においてである。理性を否定する者は神の創造を無にする者である。信仰を否定する者は人間の堕落、罪を見ない者である。そして、信仰も理性も、創造者なる神において相交わる接点を持っている。創造の教理は偉大な教理である。それは、ほとんど汎神論と見紛がうばかりに、共感の領域を広げることができる。井上神父が「汎在神論」と呼ぶ見方も、トマスにあっては、無理なく受け入れられるものである。トマスの思惟は、このようにして、「創造者なる神」を中心として、回転しているのである。

 第二バチカン公会議は公認トマス主義を放棄したかもしれないが、それはトマスの消滅を意味せず、その再発見、再認識に道を開くであろう。その一つの例が山田晶氏(元京大教授)によって示されている。

 山田氏は講談社刊『トマス・アクィナス』(人類の知的遺産二〇)に付いている「月報」(第14号)の中で、「トマスから学ぶこと」という一文を寄せている。その中で、同氏は、異論に対するトマスの接し方の独自さを挙げている。トマスの中では、異論は全面的に否定し去られることはほとんどない。そして「トマスは異論に対する解答において、それらの論がいかなる意味で妥当しないかを逐一ていねいに答えてゆく」。異論は「何らかの理由を有するものとしてその妥当する場所が保証される。かくてトマスの体系は、これらの異論をも呑みこんで海のようになる」。「トマス以後、彼に反対するいろいろな学派があらわれた。しかしもしトマスが生きていたら、それらの反対説に対していちいち解答を与え、それらの反対説を自分の体系のうちに呑みこんだにちがいない」。

 そして、最後に山田教授は、トマスの「学び方」をこそ、学ぼうと勧めるのである。「すべての説に対して心をひらき、すべての説から真実なるものを学び取り、それを自分の思想の血肉に化してゆくという態度は、現代のわれわれにも学べないことはないように思われる。私はその意味でトマスの弟子でありたいと願っている」という。これもまた、第二バチカンの潮流の中で出てきた原点主義のトマス版的回答の一つかも知れない。

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2007年1月12日 (金)

第1章

第1章 第二バチカン公会議と聖トマス

  第二バチカン公会議後、聖トマスのカトリック教会内における影響力は弱まったという声を聞く。その通りに違いない。第二バチカン公会議を「革命的」公会議と形容するのは当たらないが(革命的なカトリック公会議というものは存在しない)、少なくとも、その方針がトリエント公会議から第一バチカン公会議に至る「排他的」カトリック主義の延長上にないことだけは確かである。

 もっとも、この「排他的」カトリック主義という言葉は、何か人為的な匂いを感じさせるものである。あるいは、「排他的」の代わりに、「政治的」、「イデオロギー的」と言ってもいいのかも知れない。と言うのは、カトリックという言葉の意味は「普遍的」ということであり、「排他的」という形容とは、なじまないと思われるからである。

 しかし、とにかく、時代的要請により、トリエント公会議はプロテスタント対策といった意味も帯びていて、そこでは常にトマス・アクィナスの「神学大全」が開かれており、「アナテマ」の言葉が聞かれた。このような姿勢が、第二バチカン公会議までのカトリック教会の中に強く流れていて、それが「排他性」を感じさせていたのではないだろうか。

 従って、第二バチカン公会議以前、カトリック教会の神学思想は聖トマス一色であった。井上洋治神父は「このトマスの神学が、少なくとも私の滞欧時代にはカトリック教会のもっとも正統的な神学であるとされていたのであり、司祭になるものは、すべて多かれ少なかれ神学教育において、トマス主義者になることを強要されていたのである」(『キリストを運んだ男』井上洋治著、121頁)と言っている。

 第二バチカン公会議以前のカトリック教会内における聖トマスについて、同神父は、こう描写している。

 「トマスの神学を受け入れることを義務づけられたのは、聖職者のみではなくて、程度の差こそあれ、日本人のカトリック信者全員だったのである。それは当時カトリック教会に入信したいと願う者が、必ず勉強しなければならなかった『公教要理』と題する小冊子を一読すれば明らかである。この書は問答形式の形で、キリスト教とはどういう教えかということを説明した、いわばカトリック教会の制定教科書ともいうべきものだったのであるが、この『公教要理』の内容自体が、すでにトマス神学の縮小版ともいえるようなものだったのである」(前同、121-122頁)

 このように第二バチカン公会議以前のカトリック教会はトマス一色であった。しかし、本当に理解されていたのだろうか。「西洋哲学を専攻しているようなごく一部の例外者を除けば、まず殆ど大部分の人は、この公教要理はよく理解できないままに、ちょうどわからない数学の問題をそのまま暗記していく高校生のように、ただ暗記して入信していったのではなかったろうか」(前同、122頁) と、井上神父は見ている。

 そして、第二バチカン公会議により、カトリック教会の意識に大きな変化が生じた。

 沢田和夫神父は、この第二バチカン公会議によって、「教科書風のトマス哲学支持の時代は終わった」と見ている(『トマス・アクィナス研究』南窓社、223頁)。カトリック教会は今や、聖トマスという一定の、強制的形相のくびきを離れ、新たな形相を求める旅に出たとも言える。

 井上神父にも転機が訪れた。

 カルメル会で教育を受けた同神父は「西欧哲学を大学で専攻した私にとって、トマス神学を勉強すること自体はどうということはなかった。しかしトマス主義者にならなければならないということは、私にとっては実に何とも言いようのない精神的苦痛だったのである」(『キリストを運んだ男』、121頁)と述懐している。

 そして、井上神父にとって、非常に重要な転機が訪れた。

 「ヨーロッパ・キリスト教だけをキリスト教だと思い込んでいた私が、日本人は日本人であることをやめることなく、日本人のものの考え方と心情でイエスの福音をとらえればよいのだし、またとらえるべきだと確信したのは、北フランス、リールの大学で、はじめて東方神学の講義に接したときであった」(前同、122頁)と記している。

  おそらく、第二バチカン公会議以降、このような意識が強くなってきているのだろう。しかし、私は、まず2000年のキリスト教の歴史を素直に学ぶことから始めたらどうかと思う。トマスがなぜカトリック教会の中で重んじられてきたのか正確に理解しないで、別のものに関心を向けていく時、われわれはカトリック教会という「家」を正しく理解することはできないのではないだろうか。ヨーロッパ・キリスト教というものが運んできたキリスト教の本質が分かった時、人は東洋、日本にも目を向ける余裕を得るのではないだろうか。しかし、それが分からない時に、「日本」に目を向けるのであれば、信仰の普遍性をどのようにして獲得し、発展させていけようかと思う。日本は世界のカトリック教会の中で、ますます発言権を失っていくのではないだろうか。

 しかし、ヨゼフ・ラッツィンガー(現教皇)著『信仰について』(ドン・ボスコ社)は、私のこのような疑問に答えてくれた。そして、私は著者と同じように考えることができた。すなわち、第二バチカン公会議を是認し、しかもトマス主義を主張する道は「ある」のである。それは、第二バチカン以降、公会議の精神が正しく教会の中に浸透していかなかったという指摘である。従って、第二バチカン以前のトミズムの精神を、なお維持していくことは、信仰の遺産を守るという点で、非常に意味のあることである。もちろん、批判にていねいに対応していくことを通してであるが、それこそ、トマスが主著『神学大全』の中で展開している精神である。

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聖トマスの精神

英知大学が英語表記を変えて、トマス・アキィナスの言葉を入れるのだという。これは日本のカトリック教会にとって喜ばしいことと思う。

私が、トマスに関心を抱くようになったのは、山田晶氏の本『トマス・アクィナス』を通してであった。詳細な注に教えられるところが多かった。

しかし、振り返って、トマスに対するカトリック教会の関心は、それほど高くはなかったと思う。第二バチカン以降、中世は乗り越えられるべきものといった意識があったのではないだろうか。中世研究もされてはいたが、現代の問題意識と、どれだけ関係づけられていたか、とも思う。そんな時に、疑問に感じたことなどをまとめておいた。それを紹介したいと思う。目次は、次のようである。

題「聖トマスの精神を探る」
第1章 第二バチカン公会議と聖トマス
第2章 トマスから学ぶもの
第3章 聖トマスの位置づけ
第4章 総合主義者トマス
第5章 トマスに対する誤解
第6章 にも、かかわらず
第7章 真のトマスへの回帰

1章ずつ、紹介していきます。考えるきっかけになれば、と思います。

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麻布教会の十字架

Rimg0129 吉満義彦がカトリックに改宗した時、彼は、東京の麻布教会でツルペン神父から洗礼を受けた。このツルペン師ゆかりの十字架が多磨霊園にある。

陰山家の墓には、中央に古い十字架(写真)が立っている。これは、墓誌のよれば、もと麻布教会にあったものという。「明治44年、巴里外国宣教会司祭ツルペン師の建立した東京麻布公教会の尖塔に立てられてあった」とある。この教会は、昭和20年5月23日、戦禍によって焼失、十字架は焼け残り、それを主任司祭により譲り受けたと書かれている。

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2007年1月11日 (木)

歴史

人は皆 歴史の中に 生まれ出る
 歴史を抜きに 生の意味なし

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2007年1月10日 (水)

老い比べ

還暦を 少し過ぎたる 吉良さんと
 老いを比べる 団塊人よ

吉良さんとは吉良上野介で、亡くなった時の年齢は61歳でした。

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近代人批判

信仰に 応答ありし 点に立ち
 批判始めた 父たちはよし

形成は 崩れと共に 進み行く
 縦関係は 横重視へと

個に徹し 神を失い 近代の
 人の未来に 憂い禁ぜず

近代を 批判すれども その中に
 生きてきたこと 忘れるなかれ

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2007年1月 9日 (火)

「内なる救い」

最近、神父で、内観法の指導をされている人がいる。興味はあるが、深くは知らない。

米国のカーター元大統領の妹で、ルース・カーター・ステープルトンという人が、かつて、「内なる救い」を提唱されていた。本があった。

それは、個人の魂の履歴を調べて、魂の傷にキリストの救いを想像の上で適用しようとするもので、精神分析の一つのキリスト教的な展開とも言えるものだ。

とにかく、過去の追体験が大切である。ラジオ深夜便の「にっぽんの歌」は、この追体験をさせてもらえる貴重な番組である。

今は、心を鍛えることが大切な時である。よいことは、どしどし実践すべきと思う。

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中世の光

関西学院大学で教えておられた故松村克巳氏は、『カトリック思想 吉満義彦追悼号』の70頁、「吉満先生の哲学思想」の中で、「中世哲学」について、次のように言っている。
    
「カトリシスムは一面に、基督教真理の永遠のイデーたることを目指していると共に,他面に,歴史の中に之を実現して行く思想的現実的体系である。カトリシスムの本質が中世の世界にのみ求めらるべきではないにしても、プロテスタンティスムが近代の精神と切離して把握されないように、依然として中世の世界の中に光を探求する事は認識の秩序に於いては正しいと云わねばならぬ。筆者はかつて学生時代に、中世哲学の研究を生涯の課題として選ぼうとしてゐた。それを断念して進路を変へたのは恩師の適切な示唆に依ったのであって中世哲学は具体的には教会の哲学、カトリック哲学、スコラ哲学に外ならないが、それはカトリック教会といふ生きた協同体を地盤として成立したものであり、その完き理解はその中へ身を置きそこに生きそこで思索する事なしには期しがたいであろうとなし、近代的精神とそこに一般的な哲学的課題及び概念を以て直ちに中世哲学の理解に向ふ事の無謀さを教へられたからであった。吉満氏の思想的努力の跡を回顧して今この警告の正しさを深く理解すると共に、氏の活動の意義が此の点に関して高く評価さるべきを思ふ。基督教福音の理解と実践に於ける二つの型が今直ちに調和一致に齎らされ得ないにしても、両者相互の理解と協同への努力は、瞬時も忘れられてはならずまた等閑に附せられてはならぬと考へられる。真理また生命として、事実としての福音は一つであり等しく呼びまつる吾等の主イエス・キリストの御名は一つでしかないからである。」

松村氏の恩師というのは波多野精一である。波多野はケーベルの弟子であった。その意味では、二人は、岩下壮一、波多野精一という二人を経由した、ケーベルの孫弟子と言えるかも知れない。

高校生のころ、近くの図書館で、松村氏のアウグスチヌスに関する本を読んで、興味をそそられたことがあった。生前、一度だけ、御殿場・東山荘での集会の帰り道、バス停で話をしたことがあった。

吉満義彦は、ある本で、私はカトリックということで、キリスト教全体を考えている、と言っていた。彼には、近代思想に対する批判が中世の光に照らして繰り返されるのだけれども、余り、一般には知られていない。西方教会の各宗派が、カトリックを含めて対話し、合意し、それぞれのよいところを取り入れていけば、もう少し救済史の先を見ることができるかも知れない。

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ああ無情

ああ無情 ハローワーク 職多し
 プライドなけりゃ 即就職だ

ひたすらに 歯車になれ それならば
 引く手数多の ハローワーク

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対話

歌一つ 出来ても一つ 他の人が
 対話の形 恋歌のごと

「出来て、も一つ」の意味

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終戦後

終戦後 解放気分 歌になり
 名曲流る 気分増幅

ラジオ深夜便で、五木寛之さんの話を聞いて

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年金生活

年金に 頼る心を 責められず
 されど心の 張りはいずこに

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生きる

生きよとは 競争せよと いうことで
 負け組辛い その力なし

発達の 障害もまた 病にて
 自立かなわぬ 周囲巻き込み

慈しみ 我に注げよ 甘えつつ
 諦観我に ひしひし迫る

生でなく 死に目を注げ やがて死ぬ
 その道筋を 日々整えん

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ブログ

ブログとは 独語の世界 それでよし
 対話のために ブログ集めて

ブログとは基本的には独り言の世界と思います。それは、それでいいのだと思います。

以前、パソコン通信の電子会議室に発言したことがありました。少し、固くなりました。対話の難しさを感じました。そして、発言できなくなりました。そんな人は、他にもいるのではないでしょうか。

そう思う時、ブログでは、独り言なので、発言を阻止する人はいません。そのよさがブログには、あるのでしょう。

しかし、対話のよさもあります。探求は対話の中では、独り言より進んでいきます。ブログを集めて、対話の場を作る、そんな空間が必要なのかも知れません。

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2007年1月 8日 (月)

瑤泉院幽居の場

Rimg0114 浅野内匠頭切腹のあと、妻・瑤泉院は、どこで暮らしたのか。それは、現在の赤坂・氷川神社の境内であったとのこと。境内には、次のような立て札(写真)があります。

史蹟
浅野土佐守邸跡
赤坂氷川神社境内
浅野内匠頭夫人ノ幽居セル里方ニテ南部坂雪ノ別レトシテ喧伝セラレシ所ナリ
昭和18年3月
東京都

『瑤泉院』を読んで、この女性のことが気になりました。小説には、想像や虚構がないのであろうか。吉良のいじわる、いじめは、この小説のように虚構なのだろうか。泉岳寺の近くの店の人は、これまでの吉良悪人説を繰り返していましたけれど。

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泉岳寺

Rimg0108 本堂に 松二本あり 悠久の
 世界を映す 義士の心も

少年も 死を前にして たじろがず
 命を超える 義の心かな

罪人の 扱い受けし 江戸時代
 維新になりて 帝賞賛

(写真は泉岳寺本堂)

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2007年1月 7日 (日)

回想・吉満義彦

Lux1_1 (以下の文章は、『LUX』復刊第一号=写真=に載せたもの)

[生涯と思想]

 吉満義彦は明治37年10月13日、鹿児島県大島郡亀津村に生まれた。

 彼の学んだ中学校は鹿児島県立第一中学校で、大正6年4月に入学、同11年3月に卒業している。小学校時代は病弱だったが、中学校時代には比較的健康に恵まれていた。この時代に彼は、その短い一生を貫くこととなった哲学的・求道的人生のスタートラインについたのだった。彼が中学2年の時、父が亡くなり、その後、思索的になった吉満はプロテスタント教会に通うようになった。

 吉満は自らの求道の発端を「わがホルテンシウス体験」という一編の詩に託して語っている。この詩の副題には「恩寵と真理への最初の招き」とある。吉満がこの詩を書いたのは、彼が40歳の誕生日を迎えた昭和19年10月13日のあと、しばらくしてであった。

 彼はこの年の夏、一時、危篤に陥ったが、誕生日のころには、その危機も脱し、将来に希望を抱いていた。しかし、なお彼は阿佐ヶ谷にあった自宅で病床に臥していたため、誕生日にハインリッヒ・デュモリン神父は彼を自宅に訪ね、聖体をさずけた。吉満は、この詩をデュモリン神父に示すと、同神父はアウグスチヌスの「告白録」に出てくる物語を思い出し、この聖人が初めて真理への憧憬を感じたホルテンシウスの繙読に似ていると指摘した。この不思議な表題は、ここからつけられたと吉満はいう。

 アウグスチヌスは372年、19歳の時、キケロの古いた「ホルテンシウス」という書物を読んで、深い感銘を受け、その後の彼の全人生を支配するようになった真理に対する強烈な愛が目覚めた。「告白録」には「さて、知恵を愛することは、ギリシャ語でフィロソフィア(哲学)と申しますが、あの書物(「ホルテンシウス」)は、私をフィロソフィアで燃え上がらせたのです」とある。

 哲学の心は愛智の心である。それは人間が自らの存在の根底を揺るがされ、奈落の底に突き落とされるような絶体絶命の体験の中から生まれてくる救いの知恵への渇求でもあるのだ。少なくとも実存的思想家は、この点が明確でなければならぬ。吉満は後年、トミズムの提唱で一貫し、この「偉人な主知主義者」と言われる[教会博士」の思想の、日本での優れた紹介者になったことを思う時、彼にとって哲学とは単に頭脳の活動のみと思う人がいるかもしれない。しかし、それは大間違いである。吉満は既に哲学的探究の発端からして実存的であったのであり、彼の哲学は人間の全き救いに関する神からの教えに基づくものであった。

 この「ホルテンシウス体験」という詩は、中学2年の時の悪夢の体験から教会のクリスマス祝会に導かれるまでを描いているが、それはある美しい結晶体が輝きを放っているようだ。彼の告白を聞こう。

 中学2年生の吉満が「何よりも頼りにし、一切の希望をかけていた」のは自分の脳髄だった。しかし、それが「魔の巨人」によって「大きな注射器の如き」もので吸い取られてしまった。その結果、「かくても早や人生の希望を脳髄におくことは出来ぬと知り、頭脳の他に何人にも奪われ得ぬものを不動に確保せねばならぬと考へ始めたのである」。これは功名心の終止を意味するのだろう。

 「頭脳」が頼りにならぬことが判ったあと、人間の本質が更に問題にされる。帰校途上の船の上で、少年吉満は年長の友人の問いによって人間の終点が死であることを悟る。

 「その時始めて自分が人生の目的を知らずに生きていることを、勉強していることを知って愕然とした」と彼は告白する。ここには「死の不安」が顔をのぞかせている。

 中学2年の冬、吉満は父を失い、孤独をかみしめている時、高等学校の生徒であった中尾文策が彼の最近の所感を尋ねてきた。その時、吉満は「人生の目的と永遠の真理を探究することこそ、お前のこれからの勉強の目的でなければならぬ」と教えられ、彼の「胸中の真の憧憬と理想は<真理の探究>ということに変わったのであった」。こうして「真理と人生目的」が、彼の心の中で明確になったのである。この三段階を経て、彼は明確になった目的に向かって邁進する第一歩を踏み出したのである。

 詩は四段階に分かれ、その一つ一つにおいて、人間が神に導かれるステップが明確に示されている。哲学青年吉満は神を目指したのであり、それは当然の道行きであった。それはまた祈りの一生でもあった。

 昭和19年7月2-4日に作られたドイツ語の詩「MEIN GEBET」(我が祈り)--これはホイヴェルス神父に捧げられている--の冒頭に彼はこう書いている。

 lch denke nich mehr、ich bete nur. (わがなすはも早や思索にあらで、わがなすはただ祈りのみ)

 15年戦争期、日本の隠れた、そして偉大な預言的思想家、第一級の知識人であった吉満の本領が、彼の晩年の二つの詩によって現れている。彼の哲学的探究の始まりの時と終わりの時をうたった二編の詩を読む時、難解と言われた彼の文章を生み出した強靭な思索力は祈りに支えられていたことを知る。

 中学2年の時、教会のクリスマス祝会に深い感銘を受けた吉満は、その後、プロテスタント教会のバイブルクラスに出席し、内村鑑三、トルストイ、ドストエフスキーなどの本を読んでいった。この時、回顧録によると、彼は「クレドとロマンティクとの差違」を認め、洗礼を受けている。受洗後、彼の心は深刻な動揺を示し、神の裁きを恐れる毎日が続いた。この心境は高等学校時代にも続いていった。

 大正11年4月、第一高等学校文科丙類に入学。当時、この高等学校には<名物教授>で知られた岩元禎が哲学を教えていたが、吉満はこの時間には特に熱心に聴講していたようだ。部活は弁論部に所属していた。また、無教会の内村鑑三のもとにも出入りしていたが、その記録は余りない。

 この時期、彼の心境は自ら「死刑猶予的実存意識」と表現するようなものだった。カトリック教会で公教要理の説明を聞いても彼には解決は与えられなかった。この高校時代の最も重要な出来事は、後に彼の一生の方向を決定する一人のカトリック司祭との最初の出会いがあったことだ。

 この司祭は岩下壮一神父であり、吉満はカトリック研究のためにスコラ学も視野に入れて読書に励んでいた。このころの読書領域は文学では有島武郎、倉田百三、北村透谷、国木田独歩、ダンテ、ゲーテ、カーライル、ブレークなど、また哲学ではケーベル、ジェームズ、リッケルト、西田幾多郎に及んでいる。そして、大正14年3月、一高を卒業した。

 大正14年4月、吉満は東京帝国大学文学部倫理学科に入学した。彼はここでドイツ哲学を研究、カント、ヘーゲルを熟知するに至ったが、ヘーゲルは好きになれず、マックス・シェラーの哲学に共鳴し、彼に関する卒論を書いた。

 しかし、彼は東大の哲学教授の影響は余り受けずに、長いヨーロッパ留学を終えてカトリック司祭として帰国していた岩下壮一神父の強い感化を受けることになった。この二人は一高、東大と同じ学歴を持っていたが、岩下神父はこの青年の精神的闘争に深い理解を示し、広い知識と温かい友情で指導していった。そして、岩下神父と共に読んだトマスの神学大全が吉満の精神世界を形成する中核となっていった。これは吉満にとり哲学的思惟の文法となったもので、臨終の彼の枕元には聖書、イミタチオ・クリスチと並んで神学大全が置かれてあった。

 このような準備の後、吉満はカトリックに改宗、東京の麻布教会でツルペン神父から洗礼を受けた。吉満は以前、プロテスタント教会で受洗していたので、これは<二度目>の洗礼だった。しかし、そこには沸き立つような喜びはなかったようである。

 彼は、このカトリック受洗前後においても、ある疑惑に苦しめられていた。それはニューマンの説教「信仰と疑惑」に描かれているようなものであった。彼は、この試練を「洗礼前後の悪魔の脅威」と名づけているが、この時期、伊東温泉で一夜、神学大全を読んでいた時、「地獄の永遠性の瞬間的意識」を感じたと言っている。この疑惑は、その後のヨーロッパ留学中も彼を離れず、彼の聴罪司祭が彼を慰め、安心させようとしたが、それでも彼は内心深く戦い続けたのだった。

 昭和3年3月、吉満は大学卒業と同時にジャック・マリタン著『スコラ哲学序論』を翻訳・出版した。彼は直ちにパリに留学、ジャック・マリタンに師事した。当時、マリタンの周囲にはフランスの第一線のカトリック知識人らがマリタン・サークルを形成していた。吉満は、これらの人と知り合うことにより、文学・芸術・神秘思想・典礼などの分野で大きな刺激を受けていった。このサークルの黙想会はドミニコ会士ガリグー・ラグランジュ神父の指導で行われていた。彼は後年、この黙想会を懐かしげに語るのだったが、このラグダランジュ神父こそ実は近代日本におけるカトリック思想の父であるかも知れないのだ。それは吉満の思想をカトリックに導いた岩下神父がスコラ学を真に理解したのは、このラグランジュ神父を通してだったからである。

 しかし、吉満には、この時に至っても心中に戦いがあり、「信仰の苦悶」が続いていた。この間、また彼に大きな影響を与える人が出たが、それはミュンヘンのプシュワラ神父だった。二人の間に文通が始まり、吉満は難解なプシュワラ神父の文章を容易に理解したことで、周囲の友人らを驚かせていた。この二人は知性の波長が合っていたのかも知れないが、実際に会ったことはなく、それを吉満は後々までも残念がっていた。彼は昭和5年秋に帰国した。

 昭和5年から昭和20年(同年・吉満帰天)までは、<15年戦争>の時代と言われる。それは日本が昭和20年の太平洋戦争敗戦に向けて、破滅の道に足を踏み入れ、その道を進んで行った暗い時代であった。

 昭和5年には明治以降の近代日本にあってプロテスタント宗教思想の巨人であった内村鑑三が亡くなっている。昭和5年という年は、一つの時代の区切りであろうか。とにかく、吉満の実質的な活動は、この15年戦争の期間であった。

 吉満は、この期間、実に驚くべき多産な著述家、第一級のカトリック思想家であった。彼が帰国して間もなく、東京・読売ホールでは聖アウグスチヌス没後1500年記念講演が行われた。彼は田中耕太郎、岩下壮一、ヘルマン・ホイヴェルス、戸塚文卿などの講師と共に記念写真に収まっている。右隣の田中耕太郎に比べると、いかにも小柄で、上体をやや右に傾けている。

 吉満は昭和6年春から上智大学と東京公教神学校で哲学を教え始めた。また、昭和10年4月になると、東京帝国大学文学部倫理学科の講師になった。彼を母校に招いたのは和辻哲郎だった。

 東大講師時代の吉満について、教え子の一人・中村真一郎は次のように記している。彼は当時フランスを中心に盛んになっていた新トマス派の哲学の書物をむさぼり読んでいた。

 「特に後者(新トマス派の哲学・筆者)については、ジャック・マリタンの<形而上学序説>は、何度挑戦しても、その体系は完璧で、そこには論理的ほころびを発見できず、私には真理であるとしか思われなかった。また、エチエンヌ・ジルソンの中世哲学史は、それまでの新カント派による西洋哲学史の常識を大きく組み替えてくれた。これらの私の中での変革は、当時、東大の倫理学科でフランス近世哲学をトマスの立場から批判した講義を行っていた吉満義彦講師の導きによるところが大きかった。先生は私を食事に誘い、手紙をよこして、理性の限界の彼方の霊性について、私を啓発してくれた。先生は当時の東大仏文学科の研究室の空気を居心地よく感じながら、一方でその霊性への無関心に強い不満を抱いていた」(『愛と美と文学--わが回想』岩波新書122-3頁)

 吉満は昭和8年2月に結婚したが、同年5月、妻に死別した。妻は吉満の許嫁であったが、吉満が帰国した昭和5年にはもう重病で、死が間近に迫っていた。彼女は美しく、強い信仰の持ち主で、フランスの友人からの弔文には「天使のようなあなたの奥様」と書かれていた。

 それ以降、吉満は妹と同居してきたが、一方、聖フィリッポ寮を拠点に寮生、カトリック学生連盟の指導をした。彼の思想の中心は聖トマスの哲学精神で、この紹介・普及のために思想界・文学界で講演・執筆に大活躍した。

 吉満の文化的遺産の一つに同人季刊雑誌『創造』の創刊がある。この雑誌の名づけ親は吉満で、彼を中心に雑誌の性格、方針、装丁、活字などが決められた。創刊時の同人は4人で、山之内一郎が最年長者たった。この時、6人が執筆している。創刊号は昭和9年10月26日、当時、日本橋室町にあった山之内の事務所内に設けられた発行所「創造社」から出た。これは客観的情勢の急変のため昭和11年に中絶してしまった。

 吉満が同人であり、また主筆でもあった、このカトリック文芸誌『創造』には、吉満の思想的成果が収められている。彼の思想巡礼は最初はマリタンの立場に立ってトマスを学び、それからパスカル、フランスの近代宗教思想に及び、昭和8年ごろからはドイツ哲学の近代形而工学に進み、認識論、本体論、倫理学、宗教哲学、歴史哲学、文化哲学そして芸術形而上学を展開するまでに至った。

 吉満の研究生活は猛烈を極め、そのため彼の健康は次第に損なわれていった。昭和19年夏、ジフテリアにかかり、一時は重態に陥った。やがて、この危機も去り、従来悪かっこ呼吸器病もよくなってきたのだが、昭和20年1月、彼の身の回りの世話をしてきた妹が亡くなった。そのため吉満は東京・小金井にある聖ヨハネ会桜町病院に入院することになった。彼は、快癒の後は司祭になろうと決心していた。しかし、その時は来なかった。

 昭和20年10月22日夜、マイエ神父から終油の秘跡を受け、翌23日朝、野口神父から最後の聖体をさずけられ、同日午前11時、同病院で帰天した。

 吉満の一生はわずか41年であった。しかも彼の実質的な活動期間は15年に過ぎなかった。彼には、これからの活躍を期待する人も多かった。哲学者森有正は「吉満がもう5年長く生きていたら、日本の思想界は一変していただろう」と述懐していたという。その意味で、彼の人生は中断されたのではないか。そう思う人も多かった。そして、そのような人は悲痛を味わったのである。

 吉満の哲学的真理探究の歩みは40歳で一応終えたとみられる。彼の教え子の一人・石原静雄は吉満の一生を「思えば先生は<久遠の哲学>を天使の如く切に謳われた人であった」という。けだし至言と言えよう。

 吉満は昭和20年3月の手記に「わが40歳の過ぎし日の歩みは言はば道を修める者の立場にあったと言へよう。これよりのわが生涯の歩みは、言はば道を伝へるものの立場になって行くであろう」と書いた。これは実に意味深長な言葉ではないだろうか。彼の生涯は真理探究の生涯であった。そして、それは短かったが、それなりに一つの完成された生であったのだ。デュモリン師は言う、「私の心眼には、この故友の姿が明光を浴び純粋無垢のかたちで、恩寵と光被とのうちに、完成されたものの姿として映じてくるのである」「この生涯も、完成を遂げたものと、私は信ずるからである」(「吉満教授の霊的姿について」カトリック思想・吉満義彦追悼号)。

 トミズムの真理を確信し、その弁証に生きた吉満を、ある人は実存的思想家であったと回想する。聖トマスは実存思想とつながるのだろうかという問いが、この命題をきっかけにして起きる。しかし、一般的印象とは異なり、キリスト教実存思想家にとって聖トマスは決して無縁の人間ではないのだ。普通、実存的思想家というと、人間の存在そのものが追い詰められて、叫び、絶叫の中で思索している人間といったイメージが強い。彼はすぐ
れて個性的な思想家でなければならない。しかし聖トマスの思想には、どこにも追い詰められた肉声は聞こえてこない。彼の叙述には彼個人の<感情>のしるしといったものは見られない、全くユニークなものだ。だから一般的には聖トマスを実存思想家からははずしたいし、そういった分類が普通だろう。

 ストリート・シンキングとバルコニー・シンキングという二種類の思考が指摘される。ストリート・シンキングとは、通りを歩きながら、そのつど新しい経験を重ね、超越のしるしを読み取りながら哲学する人を、この部類に入れる。実存主義的思考とは、このことだ。一方、バルコニー・シンキングとは、バルコニーから下を眺めるようなかたちでの思索者を指している。聖トマス、アリストテレス、ヘーゲルなど体系的思想家はこの部類で、彼らの哲学は実存主義とは呼ばないのである。

 しかし、聖トマスはある意味で実存的であったと言ってもよいだろう。彼は神を求めていた。それは英知による脱自の連続がその生であったという意味である。であれば、ここにすぐれた意味での実存的生き方があるのだ。彼には追い詰められた叫び、絶叫は無縁であったが、それは彼の日々の功徳が彼の理性を健全に保ったためであろう。彼の哲学は理性を健康にする哲学である。

 一方、吉満に目を転じると、彼の文章は聖トマスのそれとはおよそ似ていない。その情熱のほとばしりは実存的思想家の面目躍如たるものがあり、そこにはニーチェやベルジャーエフに見られるパトスの舞い上がりが容易に観察されるのだ。これは一体、何を意味するのか。そこには彼の出身地・鹿児島の精神風上が現れているのかも知れない。しかし、それともう一つ、そこには当時の滅びつつあった日本に向かっての精一杯の良心の叫びがあったのではないだろうか。従って、彼の文体は彼のためではなかった。彼は追い詰められつつあった日本の中で、日本のために、日本の救いの道を叫び続けたのである。その意味で、彼は一人の預言者であったとも言える。昭和という時代は、その前半、国の壊滅というゴールに向けて進み出した<15年戦争>の暗い時代に、一人の偉人な預言者を生んだのであった。

 吉満は明治以降、近代日本の生んだ第一級の文明批評家である。彼は師岩下壮一に導かれて、中世スコラ学の真髄に触れ、師以上に教会的思索を展開し、同時に明治以降日本に輸入されてきた近代ヨーロッパ哲学の病毒を警告してやまなかった人である。こんな人物が日本にいたということは、まさに驚き以外のなにものでもない。

 吉満義彦は今、府中のカトリック墓地に静かに眠っている。

[吉満義彦教授経歴]
「カトリック思想・吉満義彦追悼号」には、次のような経歴が記載されている。

1、明治37年10月13日鹿児島県大島郡亀津村に生る。
1、大正6年4月鹿児島県立第一中学校に入学、大正11年3月同校卒業。
  小学校時代は病弱であったが中学校は比較的健康であった、中学2年の時に父を失ひ以来思索的となってプロテスタントの教会に行く様になった。
1、大正11年4月第一高等学校文科丙類に入学、大正14年3月同校卒業。
  高等学校では特に岩元先生の哲学の時間に熱意をこめていた様であったが又一方弁論部員として活動していた、又この間内村鑑三先生のもとへ出入りしていたこともあった。
1、大正14年4月東京帝国大学文学部倫理学科に入学、昭和3年3月同大学卒業。
  大学時代に岩下壮一師のもとに出入りするに及びその感化を受ける事が多く遂にカトリックに改宗し昭和2年東京麻布教会でツルペン師から洗礼を受けた、卒業と共に「スコラ哲学序論」(ジャック・マリタン著)を翻訳出版し直ちにフランスに渡りジャック・マリタン教授の教えを受け昭和5年秋に帰国した。
1、昭和6年春から上智大学並びに東京公教神学校で哲学を講じ昭和10年4月から東京帝国大学文学部倫理学科講師となった。
1、昭和8年2月結婚、同年5月妻に死別したが爾来妹と同居して来た、この間聖フィリッポ寮を根拠として寮生並びにカトリック学生連盟の指導に当たっていたが一方思想界、文学界に於いて講演に執筆に聖トマス哲学精神を以て大いに活躍した。
1、昭和19年夏にヂフタリアに罹り一時重態であったがかねて悪かった呼吸器病があらたまり又昭和20年1月妹にも死別するに及んで東京小金井聖ヨハネ桜町病院に入院した。快癒後は司祭たらんと新しい出発を決心していた。
1、昭和20年10月23日午前11時遂に同病院で没した。終油の秘跡は22日夜マイエ師から受け最後の御聖体は23日朝野口師からさずけられた。

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江戸っ子

江戸っ子は そこに住む人 そうでない
 心のかたち それがなければ

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『瑤泉院』を読む

Rimg0109 大石内蔵助
女好き 欺くためか 本性か
 本性も無視 できないらしい

柳沢吉保
悪評は 嫉妬混じるか 出世への
 政治家の腕 それは確かと

情報の 収集力が 決め手なり
 筋を通して 時代動かす

家継
生母には 赤穂の歴史 秘められり
 夭逝の因 無関係かな

一学
一学は 瑤泉院の 妹で
 内蔵助との 逢瀬ありとか

討ち入り
討ち入りに 水ごりをして 参加せる
 瑤泉院の 気迫の凄さ

天晴れ
絵図面を 取らんがために 近づきし
 乙女心を 裏切りはせじ

激情劇場
激情が 激情を呼ぶ 劇場に
 切腹になぜ 情から法に

綱吉と 内匠頭の 激情が
 劇場と化す 忠臣蔵か

忠孝
忠孝は かつての倫理 今どこに
 自分殿様 家来はいない

悪法
悪法も 法なりとして 従える
 ハチ公はそれ 喜ぶだろか

原因
刃傷の 真の原因 不明なり
 阿久利に思う ところありしか

(写真は泉岳寺にある瑤泉院の墓)

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2007年1月 6日 (土)

カトリック世界観

 この「中世哲学における永遠なるもの」に目を止めることが大切であると、私はおもいます。このような視点に関して、カトリック教会史において忘れられない人物は教皇レオ13世でした。彼はトマス・アクィナスの重要性を真に認めて、回勅を出し、トマスの神学・哲学を教会全体に浸透させたのでした。それは新スコラ学という学問の発展に大きく寄与したのです。吉満先生の学問も、実はこのようなカトリック教会内の世界的潮流に連動して生まれてきたものであり、その意味で「教会的学問」なのです。

 吉満先生の学問的姿勢は、恩師・岩下壮一神父の中世志向を継承するものでした。これは一般に普及している教科書的な西洋歴史観に挑戦し、近世思想への明確な批判を持っています。従って、吉満先生には、日本での対話の相手はすくなかったのではないか、従って先生の、その立場というものは、日本の中では孤立状態ではなかったかと思われるのです。しかし、西洋の文化・文明の根底にあるキリスト教信仰に参入し、その最も力強い意識形成をしてきた「アリストテレス・トミズム」に主体的に関わってきた吉満先生は日本の中では孤立していたとしても、決して孤立意識を感じないで、それは逆に使命感となってほとばしり出ていったのではないかと思うのです。

 吉満先生の学問は明確に「教会」という前提を持った学問でした。そこで、彼の考えていた「カトリック世界観」というものを、その骨格といったものを考えてみようと思います。

 吉満全集の第4巻「神秘主義と現代」の中に「カトリシスム」を扱った部分があります。彼はここで、ドイツのカトリック宗教哲学者エーリッヒ・プシュワラの影響下にあることを認め、現代哲学思潮との対比の中でカトリシスムの根本理念の宗教哲学的ないし形而上的原理の解明を試みているのです。

 その根本的思惟というものは、聖トマスの「有の類比」(アナロギア・エンティス)が、アウグスチヌスとトマスとの根本一致におけるカトリック哲学思惟の論理であるとして、これとルター、カント、ヘーゲルにつながっていく近代的思惟の論理とを比較して、カトリシスムの特徴を抽出しているのです。

 カトリシスムには中世志向が働いているという観察は一般的なものと思います。もっとも、第二バチカン公会議以降は、カトリック教会内に歴史意識が目覚めたとして、それが伝統的な中世志向に対して、新しい意識の形成を促しているかも知れません。しかし、それまでは一般的にカトリシスムは中世に対して特別の親近感を抱いてきたのです。そして、吉満先生は、この志向性の理由を十分に説明しているのです。彼は、ヨーロッパ近世というものを、一般的な教科書的な理解の根底にある「発展」として捉えるのではなくして、一つの病理的現象のスタートとして捉え、その病理の解明に熱中したようにも見えるのです。

 彼は、その特異な価値観形成の原点としての中世への固執に関して、次のよう言います。

 「カトリシスムは中世紀的なるものと等値さるべき歴史的時代的観念形態ではないが、特に近世が中世の否定的要素をもって特色づけられる限り、カトリシスムはその時間的に空間的に普遍妥当的な真理とともに、否まさにそれ故に、近世に否定されし中世の永遠なるものにおいて意識されるのである」

 これは、古満先生における「新しき中世」への志向の表明でもあるかも知れません。

 結論的に言えば、神と被造物全体との関係、信仰と理性との関係、また神学と哲学との関係、こういった人間存在のすべてを規定しているような根源的問題において、中世と近世とは大きく相違しているのです。中世では、この両者は「上下的秩序」の中にありました。しかし、近世に至っては、この両者は「二元的対立」の中に置き換えられてしまったのです。中世は神を第一にして全体的な総合を目指しているのに対して、近世では両者は対立・分離し、分離していったものが、絶対と相対の関係が逆転していって、やがて、もう一方の他者へと変貌していくのを、吉満先生は指摘しているのです。近世の原理は「常に改変する極性人間」を生み出し、カトリック人間は、そのような人間類型に対して「闘争せねばならなかった」というのです。(全集第4巻「カトリック世界観の根本理念」)

 また、吉満先生は、あのパスカルの有名な「哲学者の神にあらず」という回心の時の「覚書」にあるような見方に対して、哲学者の神と信仰者の神とを分離・対立させることはしません。「パスカルが『哲学者の神』でなく『キリスト者の神』と言うとき、確かにそこには『神を知る』ことから『神を愛する』までの距離を指摘する信仰的実存の深き指摘があるとしても、両者の聞に矛盾があってはならず、『哲学者の神』が『キリスト者の神』として生ける愛の人格的実存にまで現実とならなければならない」(全集第4巻「神秘主義の形而上学」)

 同じような、総合的志向性というものは、トミズムの、ものの捉え方についても言えると思います。

 一般にトミズムは主知主義と言われますが、吉満先生は、恩師マリタンの影響でしょうか、十字架の聖ヨハネの神秘思想を、トミズムに結びつけるのです。

 このように見てくると、カトリシスムの中には、人間的な対立・分裂を止揚する総合の契機が働いているように思えます。トマスについて、それを言うなら、それは「信仰と理性」「神学と哲学」との関係の中に表れています。

 落合氏は「ラテン・キリスト教世界は、信仰と理性を程よくブレンドする秘密を発見したのである。トマス・アクィナスとは、そのようなブレンドの発見者に他ならない。ラテン・キリスト教世界は、信仰と理性とのブレンドの秘密を発見することによって、野蛮から文明への変転を果たした」と言うのです。

 ある人々は、この「ブレンド」という言葉に反発を覚えるかも知れません。しかし、この言葉が示そうとしているところに真理があるのではないでしょうか。あるいは「複合」という言葉を使って言い換えてみれば、このようになるかも知れません。

 「トミズムは、神学と哲学、信仰と理性との複合である。では、この複合の積極的意義はどこにあるのか。それは教会の中核的真理に根ざしているのである。教会の本質はキリストのからだであるところにあり、換言すれば、教会の本質は歴史的イエス・キリストの延長と見るべきである。従って、教会の神秘はキリストの神秘であり、キリストの神秘は神性と人性との複合にある。従って、トミズムの真理は教会の真理に、またそれはキリストの真理に根ざすものであり、それゆえに永遠の真理なのである」

 これこそが、聖トマスのブレンド、また複合の秘密というものこそが、また「吉満義彦における永遠なるもの」そのものではないかと思うのです。それは、神が人となり給うたという福音の真理に根ざしているが故に、永遠に時代を明るく照らし出す灯(ともしび)なのです。

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2007年1月 5日 (金)

「永遠の哲学」を求めて

 吉満先生の哲学者としての姿勢というものは、生涯、聖トマスを学び続けた学者であったということです。聖トマスはスコラ学の頂点に立つ大神学者です。このスコラ学はトマスのあと、後期において、煩頂哲学の異名が示すように、抹消的事柄に神経質になりすぎ、批判を招くのですが、聖トマスの中では、キリスト教信仰を貫徹しつつ、哲学と神学との総合的体系が現れていて、それは実に壮大な真理の大伽藍といったものになっているのです。そして、吉満先生は、聖トマスの信仰的学問の中心にあるものに常に目をやりつつ、ややともすれば「概念哲学」に堕しがちなスコフ哲学なかんずくトミズムを本質直観して、その映像を忠実に描写していったのです。従って、吉満先生における「永遠なるもの」とはヨーロッパ中世、なかんずく聖トマスの神学・哲学の中に求められねばならないのです。

 松本正夫氏の若い時の著書に『世紀への展望』(岩波書店)というのがあります。副題は「永遠哲学の周辺に立ちて」です。「永遠哲学」あるいは「久遠の哲学」とは、ライプニッツが初めて使った言葉で、スコラ哲学を意味します。

 吉満先生は早稲田大学カトリック研究会公開講演会のために書いたという「カトリック哲学の概念」の中で、次のように言っています。

 「カトリックの立場よりカトリック哲学或いは基督教哲学と言う時には寧ろその主張内容においては正にかかる相対主義的な世界観哲学の克服をこそ意味するので、人類普遍的な一つの真理を求める一つの哲学、即ち人間理性の共通の地盤の上に立つ一つの共同の英知としての『哲学そのもの』を意味せんとするのである」

 吉満先生もまた、このように、相対主義的な世界観哲学の克服を目指しているという意味で、「永遠哲学」のすぐれた学徒であったと言えるのではないでしょうか。

 遠藤周作氏の作品に、吉満先生に対する言及があります。現在の真生会館が昔、学生寮であったとき、吉満先生はそこの舎監でした。遠藤さんは、一時、その寮で吉満先生の指導をうけたことがあります。

 その時、遠藤さんは、吉満先生が余りにも西洋偏重ではないかとの批判の気持ちを持っていたというのです。確かに吉満先生の価値観の頂点には聖トマスがおり、トマスの考え方がいつも念頭にあったと思います。

 しかし、吉満先生の「西洋偏重」は、深く理解されねばならないのです。「新しき中世」は、あの過ぎ去ったヨーロッパ中世への回帰を意味しているのではないのです。「新しき中世」の唱道者は、無用な誤解を避けるために、常にこの点をはっきりさせなければならないと思います。ヨーロッパ中世の理念の中には永遠なるものがあった、これを忘れてはいけない、これを忘れては人類は道というものを見失い、破滅するだけである、この認識が重要なのです。

 吉満先生は、こう言うのです。

 「先にベルジアエフが<新しき中世>の志向をなした点を一言したが、もとよりそれは新しき中世であって、不可能なる無意義なる古き歴史的中世への志向ではなく、近代人間性の獲得ないし課題を現実に生き貫く道において、永遠なる中世の理念と聖なる遺産とが志向されているのでなければならない」(「吉満義彦全集第4巻 神秘主義と現代」38頁)

 これこそ「新しき中世」の本当の意味なのです。それは、「古き歴史的中世への志向」ではないのです。

 ついでに、この「新しき中世」という言葉が、現代では非常なる具体性、現実性を帯びているのだということを、多少指摘しておきたいと思います。先に名前を挙げた落合という同志社大学教授はこんなことを言っています。

 「トマス・アクィナスの思想、すなわち、トミズムとは、中世と近代とを問わず、ヨーロッパ文明1000年を貫く、その思想的なアイデンティティ、言い換えれば、正統に他ならない」

 「現在、ヨーロッパで進行している事態(これは西欧の統合と東欧の改革のこと)は、国家主権や科学主義それ自体の相対化であり、近代という時代そのものの超克が問題となっているのである」

 「むしろ20世紀思想とは、ヨーロッパ文明の原点である12・3世紀を代表する思想家としてのトマスが、近代400年の沈黙の後に甦る、その予兆だったのではないかと思えてくるほどである。-20世紀の関係論には無くてトマスに有るもの、そのものが、近代を相対化する契機として、決定的なのである」

 「西欧の統合、国家主権の制限までをも射程に入れたECの政治統合に、かつて西ヨーロッパはキリスト教の下に超国家的な統一体を形成していた、という経験が参照されていることは明らかであろう。西ヨーーロッパの統合とは、単一の政治的共同体を伴った、キリスト教ヨーロッパの復活であるとも考えられるのである。事実、ヨーロッパ共同体の中核的なメンバーである、フランス・イタリア・スペインの人□の95%以上はカトリックであるし、-」
   
 このような世界観、歴史観はトミズム、ネオトミズムそのものだとおもいます。しかも、それが、すなわちヨーロッパ中世の理念そのものが、今、日本の若い社会哲学の学者によって、ヨーロッパの再生あるいは変動の中で、真剣に捉えられているのです。彼は吉満先生のことは余り知らないかもしれませんが、私にとっては吉満先生の衣鉢を継ぐ一人にも思えてくるのです。

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キリスト教哲学とは何か

 さて、吉満先生は哲学者でした。しかも、キリスト教信仰を待った哲学者でした。従って「キリスト教哲学」こそ、先生が生涯を通じて追究していったテーマと言えるでしょう。では、「キリスト教哲学」とは何でしょうか。キリスト教哲学をどう理解するかは重要問題です。

 かつて「キリスト教哲学はありうるか」といったテーマで、論争があり、中世哲学の大家エティエンヌ・ジルソンらもそれに参加しました。彼の名著『中世哲学の精神』は、まずこの問題から説き起こしています。

 われわれは、「キリスト教哲学」と言うと、まず身近なところでキェルケゴールを思うかも知れませんが、しかし、ヘーゲルもカントも、プロテスタントの流れの中で、それなりの「キリスト教哲学」なのです。それは、近世の特徴である主観性を中心としてはいますが、両者ともキリスト教信仰につながっていく理性の領域、論理のありかたを整理していったのです。

 われわれは、この二人、カントとヘーゲルを哲学者と言わないわけにはいかないでしょうが、それに比べると、キェルケゴールは非常に特異な姿をもって現れてきます。それは一言で言えば、「断片の哲学」とも言うべきものです。しかし、この「断片の哲学」には、やはり、不満が残るのです。哲学は「学」であるので、やはり体系性を求めている、というのが私の考えです。

 キェルケゴールは巨大なヘーゲルの体系に対抗するために真理を「断片」に託して語る以外になかったのですが、われわれは、このような姿の中に、近世においてキリスト教信仰が哲学体系、キェルケゴールにおいては疑似真理体系の前に圧迫され、行き場を失っている様相をうかがうことができるのです。

 しかし、それに比べると、中世哲学はキェルケゴールの真理性を守りつつ、それをヘーゲルのように壮大な体系の中で表すことができたのです。そこでは、信仰が守られ、しかも理性がその活動原理を尋ねつつ、極限的にと言っていいくらいに盛んに働いているのです。「信仰と理性」とのかかわりが、ここでは明確にされ、信仰の真理は理性を駆使し、体系の中で自らの主張を展開しています。

 それは、キリスト教信仰の歴史の中での画期的時代であり、頂点であり、時代が偉大な信仰の時代を志向する時に常に模範となる時代です。

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ミレニアム

ミレニアム 期待は無残 テロ起きて
 騒乱時代 世界は回る

ミレニアム その礎は 築かれり
 歴史に残す 空の原点

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陰の人たち

光秀や 瑤泉院に 光当て
 はっと驚く 読者の我は

明智光秀を詳細に描いた人は司馬遼太郎でした。最近は、瑤泉院の知られざる姿を描いた本も出ています。隠されているものは現れてくるのだ、と教えたのはイエスでした。本当に、そう思います。

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「恩師 永遠の面影」

 吉満先生は岩下壮一神父の追悼の際、「恩師 永遠の面影」という文章を寄せましたが、この「永遠の面影」という言葉の中に、私は吉満先生の中に生きていた詩人の心といったものを感じるのです。みなさんは、どう思いますか。実際、吉満先生は「詩人哲学者」とも言われてきました。吉満先生と我々との接点というものは、今では講談社から出ている吉満義彦全集(全5巻)が主なものと思います。ということは、文章が、我々と吉満先生との媒介となっているということです。ですから、その面から見ていきましょう。

 吉満先生はしばしば難解な文章をもって知られ、そのために敬遠されることかありました。その文章の特徴というものは、「何何的」の「的」の言葉が異常に長く繰り返されることであることは、よく知られています。しかし、このような読みづらさはあっても、彼の精神における詩人的要素は、文章全体に溢れ、そのために私は、吉満先生の文章を読んでいて、ある心地よさを感じるのです。吉満先生は、「形而上的思惟は詩的ヴィジョンに通ずるものがあって、自分自身は内的音楽とも云ふべきものに聴きほれてゐる」(雑誌『文学界』主宰の座談会で)と言っていますが、その文章を味読していくと、実に味わい深いのに気付くのです。

 吉満先生の文章は、俳句や短歌のように、余計なものをそぎ落として、結晶化された言葉の力を感じさせる、日本の伝統文化の在り方とは違い、ある現実を、いろいろな方面から光を当てて、できるだけ正確に表現しようという熱意のようなものを感じさせるのです。

 次に、生き方に触れてみますと、われわれは、吉満先生が大きな『神学大全』の本を脇に抱えて、常に読み続けていたことを知っています。もし、吉満先生に対して「恩師 永遠の面影」を述べようとするなら、この姿こそ、その叙述の中心イメージになると思います。

 垣花秀武先生は「吉満義彦全集」第4巻の「解説」の中で、こう書いておられます。

 「あの小さな吉満義彦があの大きな重い「スンマ・テオロジカ」をかかえで書斎から働き場所へ、研究室から書斎へと持ち歩く。海軍行進曲がなりひびく街角で、包みをひらいてとりだし、多分祈るような風情で、その一句一句を読みすすむ」

 この『神学大全』は彼の臨終の床にもあったのです。

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プロテスタンティズムの彼方

 新教出版社というプロテスタント系出版社の前身の一つである新生堂という出版社から吉満先生の本が出たり、またカール・アダムの名著『カトリシズムの本質』が邦訳された時、赤岩栄という『キリスト教脱出記』という本で有名な牧師が同書を批評し、それに吉満先生が答えるといった応酬がありました。これらの文章は今、読んでも私には興味深いのですが、多くの人にとっては、今昔の感といったところではないかと思うのです。

 吉満先生はプロテスタンティズムに対しても、また弁証法神学で名高いカール・バルトに対しても、著書の中で、いろいろと発言されています。そこには、プロテスタント同士のように、同じ土俵の上で論争するといったような張り詰めたぴりぴりした気持ちよりも、相手の本質を知りつくしてしまった、といったような、余裕のようなものが感じられるのです。

 このように、吉満先生にはプロテスタンティズムとの折衝あるいは関係といったものがあるのですが、やはり、プロテスタンティズムの信仰の中では、吉満先生という人はなかなか捉えられないのではないかと思われるのです。

 「吉満義彦という人物は、割合面白い人物だ」と、私に思われてきたのは、私のキリスト教信仰がプロテスタントからカトリックに変わってきた時でした。恐らく、このような前提、すなわちカトリックの信仰が吉満理解のために不可欠ではないかと、今では思うのです。それくらい、彼の思想はカトリック教会との深い関わりの中で展開していっているからなのです。

 私は、キリスト教(プロテスタント)系の新聞の編集を長くやっていましたが、やがて、自分の仕事に行き詰まりを感じるようになりました。そして、教会一致運動、すなわちエキュメニズムというものを問いつめていくうちに、カトリシズムというものが視野に入るようになったのです。

 ある日、偶然、東京神学大学で教えておられる赤木善光教授の『プロテスタンティズムと伝統』(新教出版社)という本を読み、そこに、私と同じような問題意識と教授自身の解明が載っているのを発見しました。そこには、逢坂元吉郎という異色のプロテスタント牧師および、熊野義孝というプロテスタントの組織神学者の教会観に着目して、その貢献が記されているのですが、ここには、カトリシズムからプロテスタンティズムを見た時の、重要な問題提起が含まれていると思います。同時に、以前は何の関心も持たなかった逢坂、熊野といった牧師、神学者が急に身近な存在になったのを覚えたのです。

 実は、私にカトリシズムを考えるきっかけを与えてくれた人は、もとプロテスタントで東京神学大学を中退した人です。東京神学大学では熊野先生の近くにいたというかたですが、熊野先生はニューマンが好きで、その弟子たちの中からカトリックに変わる人が大勢出たということを言っていました。今、この本を読むとこの二人の教会論の展開に関してはカトリック信仰と重なるところがあるように思います。

 「新しき中世」という言葉があります。これは、私が大学時代に割合、熱中して読んだベルジャエフの言葉でもありますが、私も又次第に、この「新しき中世」という言葉にこだわりだしたのです。

 エティエンヌ・ジルソン、ジャック・マリタン、クリストファー・ドーソンらの活躍していた時代であれば、対話の相手にはこと欠かないでしょうが、時代が変わり、ましてキリスト教的文化背景の弱い日本では、「新しき中世」といっても余り対話の相手を見つけられないのではないだろうかと思っていました。

 しかし、『トマス・アクィナスの言語ゲーム』(勁草書房)という本の中で、36歳くらい(若いですねえ)の著者、落合仁司(同志社大学教授)という人が、近年の西欧の統合と東欧改革の目指すところを模索する中で、「新しき中世」の意味しているところを非常に具体的に、現実問題として論じているのです。この落合という人の出現は、私には青天のへきれきのようでもあり、かつての吉満先生の歴史的価値観というものを、こんなにはっきりと言い切っているのに驚きました。

 さて、余談はそれくらいにして、とにかく、私の中で、「教会とは何か」という問題を考えていく中で、信仰がプロテスタンティズムからカトリシズムに変わっていったのですが、その過程で、岩下壮一神父の本を読み、続いて吉満先生の本を読んでいったのです。そして、以前は非常に近くにいながら素通りしていった世界がだんだんと開けてきたというわけです。

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2007年1月 4日 (木)

吉満義彦との出会い

 私が吉満義彦の名前を初めて知ったのは、昭和40年代の前半、私が上智大学文学部の哲学科に在学していた時のことでした。

 当時、大学2号館にあった哲学研究室の一角に「吉満文庫」というものがありました。しかし、私は、この文庫に対して、ほとんど興味・関心というものを持っていませんでした。この文庫の存在を余り意識してこなかったので、私は今、おぼろげながらに、そのような文庫があったなあとしか思い出せないのです。私の周囲の哲学科の仲間たちは、この「吉満文庫」の存在をはっきりと覚えています。

 また、私は上智大学在学中、よく聖三水図書館を利用しましたが、こちらにも吉満先生の本は何冊かありました。表題によって、多少は興味を感じましたが、一読してみて、共感を覚えるところを見いだせず、また、その内容を十分に理解できないままに、こちらも素通りしていったのです。

 吉満という人物が、私の視野に入ってこなかった理由の一つには、お互いのキリスト教信仰の違いがあったと思います。私は上智大学の学生であった時から同大学を卒業して20年の間、プロテスタント教会との関係の中で生きてきました。その世界では、吉満義彦という人物は、ある一部の慧眼の人々を除いて、現在でも、なかなか視野に入らない人ではなかろうかと思います。

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吉満義彦における永遠なるもの

Lux1 上智大学にカトリック研究会というサークルがありました。大学紛争のあと、なくなったのですが、その後、有志らが学内においてではなく、活動を再開しています。私は、1年生の数ヶ月間、このサークルに所属していました。

かつて、このサークルでは機関誌『LUX』を出していました。活動の再開に際して、この機関誌を復刊しようという声があがり、何号か出たことがありました。私は、その時、この機関誌の一号と二号の編集の手伝いをしていました。

第一号、第二号とも、私は吉満義彦について書きました。第一号では「吉満義彦頌」、第二号では、「吉満義彦における永遠なるもの」という題でした。第一号の発行日は今、分かりませんが、第二号の発行日は1993年1月です。

第二号の表紙は写真の通りです。第一号は、本はなくしましたが、自分の書いたものはとってあります。

これらの文章を紹介していきたいと思います。

一度に全部を紹介するのは、疲れるので、最初は第二号から、項目にそって何度かに分けていきます。

目次は、次の通りです。

吉満義彦における永遠なるもの
 吉満義彦との出会い
 プロテスタンティズムの超克
 「恩師 永遠の面影」
 キリスト教哲学とは何か
 「永遠の哲学」を求めて
 カトリック世界観

この内容は、1991年の吉満義彦先生の追悼記念会の席上、私が話したことに、いくらか加筆・修正したものです。吉満義彦の追悼記念会は、年1回ですが、現在でも続いています。

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談合

談合は なくならないよ この国は
 身内と外で 法無視の弊

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乱心か遺恨か

外形は 一つなりしが 乱心か
 遺恨なのかは 大違いなり

忠臣蔵を見て

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思い

思うなら 実現すべし 言うけれど
 思いの的を いかに定めん

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明治

気骨あり 男性的な 明治の世
 平成の世に その塩の味

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歌人

歌人かえ 柄でもないよ 答えつつ
 韻文作り 今日も続けん

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2007年1月 3日 (水)

瑤泉院

視点変え 忠臣蔵の 裏面には
 瑤泉院の 陰謀ありと

1月2日、テレビ東京で、「忠臣蔵 瑤泉院の陰謀」を見た。12時間のテレビで、長かったものの、面白かった。あっという間に12時間が過ぎていった。

特に、それまでは、討ち入りの前日、大石が会いに行くだけのわずかの出番しかなかった瑤泉院が主人公になっていて、忠臣蔵の別の面が出ていた。歴史を見る目が、瑤泉院にはあったのだろう。史実に忠実なドラマなのかどうか知らないが、文庫本が出ていて、そちらは一見すると、史料が満載されている。

歴史は、いろいろな面から光を当てると面白いのだと教えられたように思う。

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アイデア

アイデアは 留め置かねば 過ぎ去りて
 前進できぬ 探求の道

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関わり

錯綜の 林に入りて 迷いあり
 抜け出る道は 関わりにあり

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量と質

量で負け それは負けでは ないんだよ
 質を問うべし 量は超えずと

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2007年1月 2日 (火)

時代の端

近代の 日本の端を 見やるなら
 米国の突き 歴史に刻む

現代も 憲法・安保 二つにて
 米国の影 歴然とあり

改革を 求めるのなら 今ここで
 問い返すべき 米国は何

米国は 西洋の端 先端で
 帝国の子ら 聖俗二面

夢に見た この印にて 勝つべしと
 その幻は 今も生きるか

「米国の突き」とは、ペリーとマッカーサーの二人の関わり。「帝国」はローマ帝国。「幻」は、コンスタンティヌス帝の見た幻。

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2007年1月 1日 (月)

教会の位置づけ

世俗社会と神国がある。世俗社会は見える世界で、神国は見えない世界だ。この二つは対立している。その中間に教会がある。だから、教会は見える要素と見えない要素の二つを含んでいる。

一般には、世俗社会と教会が対立しているように見られるかも知れない。そこには、教会の絶対視のような視点が含まれていないだろうか。

教会は神国ではない。神国と世俗社会の中間にあって、世俗社会に、その目的を明示して、神国へと方向づける使命を持っているのではないだろうか。

教会は自己目的になってはいけない。世俗社会に奉仕する一面を持つのは、神国への奉仕に生きるからである。

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古と新

中世は 神を求めて 新しい
 古いは新と 静流さん言う

大晦日(早朝)のラジオ深夜便「にっぽんの歌こころの歌」で、おおたか静流(しずる)さんが、「古いものは新しいのです」と言っていた。ポンと言った、この言葉の衝撃が聴取者に走ったのではないだろうか。「古い」は、「新しい」とは矛盾概念である。結びつけるものは何か。

もちろん、彼女は中世について語ったのではない。古いものに新しい要素が隠れている、ということを指摘したのである。

思うに、中世は神を求めた時代であった。永遠なる神を求めた時代は、常に新しいのである。その意味で、中世は、常に新しい、と思った。

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