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2007年1月 5日 (金)

「永遠の哲学」を求めて

 吉満先生の哲学者としての姿勢というものは、生涯、聖トマスを学び続けた学者であったということです。聖トマスはスコラ学の頂点に立つ大神学者です。このスコラ学はトマスのあと、後期において、煩頂哲学の異名が示すように、抹消的事柄に神経質になりすぎ、批判を招くのですが、聖トマスの中では、キリスト教信仰を貫徹しつつ、哲学と神学との総合的体系が現れていて、それは実に壮大な真理の大伽藍といったものになっているのです。そして、吉満先生は、聖トマスの信仰的学問の中心にあるものに常に目をやりつつ、ややともすれば「概念哲学」に堕しがちなスコフ哲学なかんずくトミズムを本質直観して、その映像を忠実に描写していったのです。従って、吉満先生における「永遠なるもの」とはヨーロッパ中世、なかんずく聖トマスの神学・哲学の中に求められねばならないのです。

 松本正夫氏の若い時の著書に『世紀への展望』(岩波書店)というのがあります。副題は「永遠哲学の周辺に立ちて」です。「永遠哲学」あるいは「久遠の哲学」とは、ライプニッツが初めて使った言葉で、スコラ哲学を意味します。

 吉満先生は早稲田大学カトリック研究会公開講演会のために書いたという「カトリック哲学の概念」の中で、次のように言っています。

 「カトリックの立場よりカトリック哲学或いは基督教哲学と言う時には寧ろその主張内容においては正にかかる相対主義的な世界観哲学の克服をこそ意味するので、人類普遍的な一つの真理を求める一つの哲学、即ち人間理性の共通の地盤の上に立つ一つの共同の英知としての『哲学そのもの』を意味せんとするのである」

 吉満先生もまた、このように、相対主義的な世界観哲学の克服を目指しているという意味で、「永遠哲学」のすぐれた学徒であったと言えるのではないでしょうか。

 遠藤周作氏の作品に、吉満先生に対する言及があります。現在の真生会館が昔、学生寮であったとき、吉満先生はそこの舎監でした。遠藤さんは、一時、その寮で吉満先生の指導をうけたことがあります。

 その時、遠藤さんは、吉満先生が余りにも西洋偏重ではないかとの批判の気持ちを持っていたというのです。確かに吉満先生の価値観の頂点には聖トマスがおり、トマスの考え方がいつも念頭にあったと思います。

 しかし、吉満先生の「西洋偏重」は、深く理解されねばならないのです。「新しき中世」は、あの過ぎ去ったヨーロッパ中世への回帰を意味しているのではないのです。「新しき中世」の唱道者は、無用な誤解を避けるために、常にこの点をはっきりさせなければならないと思います。ヨーロッパ中世の理念の中には永遠なるものがあった、これを忘れてはいけない、これを忘れては人類は道というものを見失い、破滅するだけである、この認識が重要なのです。

 吉満先生は、こう言うのです。

 「先にベルジアエフが<新しき中世>の志向をなした点を一言したが、もとよりそれは新しき中世であって、不可能なる無意義なる古き歴史的中世への志向ではなく、近代人間性の獲得ないし課題を現実に生き貫く道において、永遠なる中世の理念と聖なる遺産とが志向されているのでなければならない」(「吉満義彦全集第4巻 神秘主義と現代」38頁)

 これこそ「新しき中世」の本当の意味なのです。それは、「古き歴史的中世への志向」ではないのです。

 ついでに、この「新しき中世」という言葉が、現代では非常なる具体性、現実性を帯びているのだということを、多少指摘しておきたいと思います。先に名前を挙げた落合という同志社大学教授はこんなことを言っています。

 「トマス・アクィナスの思想、すなわち、トミズムとは、中世と近代とを問わず、ヨーロッパ文明1000年を貫く、その思想的なアイデンティティ、言い換えれば、正統に他ならない」

 「現在、ヨーロッパで進行している事態(これは西欧の統合と東欧の改革のこと)は、国家主権や科学主義それ自体の相対化であり、近代という時代そのものの超克が問題となっているのである」

 「むしろ20世紀思想とは、ヨーロッパ文明の原点である12・3世紀を代表する思想家としてのトマスが、近代400年の沈黙の後に甦る、その予兆だったのではないかと思えてくるほどである。-20世紀の関係論には無くてトマスに有るもの、そのものが、近代を相対化する契機として、決定的なのである」

 「西欧の統合、国家主権の制限までをも射程に入れたECの政治統合に、かつて西ヨーロッパはキリスト教の下に超国家的な統一体を形成していた、という経験が参照されていることは明らかであろう。西ヨーーロッパの統合とは、単一の政治的共同体を伴った、キリスト教ヨーロッパの復活であるとも考えられるのである。事実、ヨーロッパ共同体の中核的なメンバーである、フランス・イタリア・スペインの人□の95%以上はカトリックであるし、-」
   
 このような世界観、歴史観はトミズム、ネオトミズムそのものだとおもいます。しかも、それが、すなわちヨーロッパ中世の理念そのものが、今、日本の若い社会哲学の学者によって、ヨーロッパの再生あるいは変動の中で、真剣に捉えられているのです。彼は吉満先生のことは余り知らないかもしれませんが、私にとっては吉満先生の衣鉢を継ぐ一人にも思えてくるのです。

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