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2007年1月 6日 (土)

カトリック世界観

 この「中世哲学における永遠なるもの」に目を止めることが大切であると、私はおもいます。このような視点に関して、カトリック教会史において忘れられない人物は教皇レオ13世でした。彼はトマス・アクィナスの重要性を真に認めて、回勅を出し、トマスの神学・哲学を教会全体に浸透させたのでした。それは新スコラ学という学問の発展に大きく寄与したのです。吉満先生の学問も、実はこのようなカトリック教会内の世界的潮流に連動して生まれてきたものであり、その意味で「教会的学問」なのです。

 吉満先生の学問的姿勢は、恩師・岩下壮一神父の中世志向を継承するものでした。これは一般に普及している教科書的な西洋歴史観に挑戦し、近世思想への明確な批判を持っています。従って、吉満先生には、日本での対話の相手はすくなかったのではないか、従って先生の、その立場というものは、日本の中では孤立状態ではなかったかと思われるのです。しかし、西洋の文化・文明の根底にあるキリスト教信仰に参入し、その最も力強い意識形成をしてきた「アリストテレス・トミズム」に主体的に関わってきた吉満先生は日本の中では孤立していたとしても、決して孤立意識を感じないで、それは逆に使命感となってほとばしり出ていったのではないかと思うのです。

 吉満先生の学問は明確に「教会」という前提を持った学問でした。そこで、彼の考えていた「カトリック世界観」というものを、その骨格といったものを考えてみようと思います。

 吉満全集の第4巻「神秘主義と現代」の中に「カトリシスム」を扱った部分があります。彼はここで、ドイツのカトリック宗教哲学者エーリッヒ・プシュワラの影響下にあることを認め、現代哲学思潮との対比の中でカトリシスムの根本理念の宗教哲学的ないし形而上的原理の解明を試みているのです。

 その根本的思惟というものは、聖トマスの「有の類比」(アナロギア・エンティス)が、アウグスチヌスとトマスとの根本一致におけるカトリック哲学思惟の論理であるとして、これとルター、カント、ヘーゲルにつながっていく近代的思惟の論理とを比較して、カトリシスムの特徴を抽出しているのです。

 カトリシスムには中世志向が働いているという観察は一般的なものと思います。もっとも、第二バチカン公会議以降は、カトリック教会内に歴史意識が目覚めたとして、それが伝統的な中世志向に対して、新しい意識の形成を促しているかも知れません。しかし、それまでは一般的にカトリシスムは中世に対して特別の親近感を抱いてきたのです。そして、吉満先生は、この志向性の理由を十分に説明しているのです。彼は、ヨーロッパ近世というものを、一般的な教科書的な理解の根底にある「発展」として捉えるのではなくして、一つの病理的現象のスタートとして捉え、その病理の解明に熱中したようにも見えるのです。

 彼は、その特異な価値観形成の原点としての中世への固執に関して、次のよう言います。

 「カトリシスムは中世紀的なるものと等値さるべき歴史的時代的観念形態ではないが、特に近世が中世の否定的要素をもって特色づけられる限り、カトリシスムはその時間的に空間的に普遍妥当的な真理とともに、否まさにそれ故に、近世に否定されし中世の永遠なるものにおいて意識されるのである」

 これは、古満先生における「新しき中世」への志向の表明でもあるかも知れません。

 結論的に言えば、神と被造物全体との関係、信仰と理性との関係、また神学と哲学との関係、こういった人間存在のすべてを規定しているような根源的問題において、中世と近世とは大きく相違しているのです。中世では、この両者は「上下的秩序」の中にありました。しかし、近世に至っては、この両者は「二元的対立」の中に置き換えられてしまったのです。中世は神を第一にして全体的な総合を目指しているのに対して、近世では両者は対立・分離し、分離していったものが、絶対と相対の関係が逆転していって、やがて、もう一方の他者へと変貌していくのを、吉満先生は指摘しているのです。近世の原理は「常に改変する極性人間」を生み出し、カトリック人間は、そのような人間類型に対して「闘争せねばならなかった」というのです。(全集第4巻「カトリック世界観の根本理念」)

 また、吉満先生は、あのパスカルの有名な「哲学者の神にあらず」という回心の時の「覚書」にあるような見方に対して、哲学者の神と信仰者の神とを分離・対立させることはしません。「パスカルが『哲学者の神』でなく『キリスト者の神』と言うとき、確かにそこには『神を知る』ことから『神を愛する』までの距離を指摘する信仰的実存の深き指摘があるとしても、両者の聞に矛盾があってはならず、『哲学者の神』が『キリスト者の神』として生ける愛の人格的実存にまで現実とならなければならない」(全集第4巻「神秘主義の形而上学」)

 同じような、総合的志向性というものは、トミズムの、ものの捉え方についても言えると思います。

 一般にトミズムは主知主義と言われますが、吉満先生は、恩師マリタンの影響でしょうか、十字架の聖ヨハネの神秘思想を、トミズムに結びつけるのです。

 このように見てくると、カトリシスムの中には、人間的な対立・分裂を止揚する総合の契機が働いているように思えます。トマスについて、それを言うなら、それは「信仰と理性」「神学と哲学」との関係の中に表れています。

 落合氏は「ラテン・キリスト教世界は、信仰と理性を程よくブレンドする秘密を発見したのである。トマス・アクィナスとは、そのようなブレンドの発見者に他ならない。ラテン・キリスト教世界は、信仰と理性とのブレンドの秘密を発見することによって、野蛮から文明への変転を果たした」と言うのです。

 ある人々は、この「ブレンド」という言葉に反発を覚えるかも知れません。しかし、この言葉が示そうとしているところに真理があるのではないでしょうか。あるいは「複合」という言葉を使って言い換えてみれば、このようになるかも知れません。

 「トミズムは、神学と哲学、信仰と理性との複合である。では、この複合の積極的意義はどこにあるのか。それは教会の中核的真理に根ざしているのである。教会の本質はキリストのからだであるところにあり、換言すれば、教会の本質は歴史的イエス・キリストの延長と見るべきである。従って、教会の神秘はキリストの神秘であり、キリストの神秘は神性と人性との複合にある。従って、トミズムの真理は教会の真理に、またそれはキリストの真理に根ざすものであり、それゆえに永遠の真理なのである」

 これこそが、聖トマスのブレンド、また複合の秘密というものこそが、また「吉満義彦における永遠なるもの」そのものではないかと思うのです。それは、神が人となり給うたという福音の真理に根ざしているが故に、永遠に時代を明るく照らし出す灯(ともしび)なのです。

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