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2007年1月 7日 (日)

回想・吉満義彦

Lux1_1 (以下の文章は、『LUX』復刊第一号=写真=に載せたもの)

[生涯と思想]

 吉満義彦は明治37年10月13日、鹿児島県大島郡亀津村に生まれた。

 彼の学んだ中学校は鹿児島県立第一中学校で、大正6年4月に入学、同11年3月に卒業している。小学校時代は病弱だったが、中学校時代には比較的健康に恵まれていた。この時代に彼は、その短い一生を貫くこととなった哲学的・求道的人生のスタートラインについたのだった。彼が中学2年の時、父が亡くなり、その後、思索的になった吉満はプロテスタント教会に通うようになった。

 吉満は自らの求道の発端を「わがホルテンシウス体験」という一編の詩に託して語っている。この詩の副題には「恩寵と真理への最初の招き」とある。吉満がこの詩を書いたのは、彼が40歳の誕生日を迎えた昭和19年10月13日のあと、しばらくしてであった。

 彼はこの年の夏、一時、危篤に陥ったが、誕生日のころには、その危機も脱し、将来に希望を抱いていた。しかし、なお彼は阿佐ヶ谷にあった自宅で病床に臥していたため、誕生日にハインリッヒ・デュモリン神父は彼を自宅に訪ね、聖体をさずけた。吉満は、この詩をデュモリン神父に示すと、同神父はアウグスチヌスの「告白録」に出てくる物語を思い出し、この聖人が初めて真理への憧憬を感じたホルテンシウスの繙読に似ていると指摘した。この不思議な表題は、ここからつけられたと吉満はいう。

 アウグスチヌスは372年、19歳の時、キケロの古いた「ホルテンシウス」という書物を読んで、深い感銘を受け、その後の彼の全人生を支配するようになった真理に対する強烈な愛が目覚めた。「告白録」には「さて、知恵を愛することは、ギリシャ語でフィロソフィア(哲学)と申しますが、あの書物(「ホルテンシウス」)は、私をフィロソフィアで燃え上がらせたのです」とある。

 哲学の心は愛智の心である。それは人間が自らの存在の根底を揺るがされ、奈落の底に突き落とされるような絶体絶命の体験の中から生まれてくる救いの知恵への渇求でもあるのだ。少なくとも実存的思想家は、この点が明確でなければならぬ。吉満は後年、トミズムの提唱で一貫し、この「偉人な主知主義者」と言われる[教会博士」の思想の、日本での優れた紹介者になったことを思う時、彼にとって哲学とは単に頭脳の活動のみと思う人がいるかもしれない。しかし、それは大間違いである。吉満は既に哲学的探究の発端からして実存的であったのであり、彼の哲学は人間の全き救いに関する神からの教えに基づくものであった。

 この「ホルテンシウス体験」という詩は、中学2年の時の悪夢の体験から教会のクリスマス祝会に導かれるまでを描いているが、それはある美しい結晶体が輝きを放っているようだ。彼の告白を聞こう。

 中学2年生の吉満が「何よりも頼りにし、一切の希望をかけていた」のは自分の脳髄だった。しかし、それが「魔の巨人」によって「大きな注射器の如き」もので吸い取られてしまった。その結果、「かくても早や人生の希望を脳髄におくことは出来ぬと知り、頭脳の他に何人にも奪われ得ぬものを不動に確保せねばならぬと考へ始めたのである」。これは功名心の終止を意味するのだろう。

 「頭脳」が頼りにならぬことが判ったあと、人間の本質が更に問題にされる。帰校途上の船の上で、少年吉満は年長の友人の問いによって人間の終点が死であることを悟る。

 「その時始めて自分が人生の目的を知らずに生きていることを、勉強していることを知って愕然とした」と彼は告白する。ここには「死の不安」が顔をのぞかせている。

 中学2年の冬、吉満は父を失い、孤独をかみしめている時、高等学校の生徒であった中尾文策が彼の最近の所感を尋ねてきた。その時、吉満は「人生の目的と永遠の真理を探究することこそ、お前のこれからの勉強の目的でなければならぬ」と教えられ、彼の「胸中の真の憧憬と理想は<真理の探究>ということに変わったのであった」。こうして「真理と人生目的」が、彼の心の中で明確になったのである。この三段階を経て、彼は明確になった目的に向かって邁進する第一歩を踏み出したのである。

 詩は四段階に分かれ、その一つ一つにおいて、人間が神に導かれるステップが明確に示されている。哲学青年吉満は神を目指したのであり、それは当然の道行きであった。それはまた祈りの一生でもあった。

 昭和19年7月2-4日に作られたドイツ語の詩「MEIN GEBET」(我が祈り)--これはホイヴェルス神父に捧げられている--の冒頭に彼はこう書いている。

 lch denke nich mehr、ich bete nur. (わがなすはも早や思索にあらで、わがなすはただ祈りのみ)

 15年戦争期、日本の隠れた、そして偉大な預言的思想家、第一級の知識人であった吉満の本領が、彼の晩年の二つの詩によって現れている。彼の哲学的探究の始まりの時と終わりの時をうたった二編の詩を読む時、難解と言われた彼の文章を生み出した強靭な思索力は祈りに支えられていたことを知る。

 中学2年の時、教会のクリスマス祝会に深い感銘を受けた吉満は、その後、プロテスタント教会のバイブルクラスに出席し、内村鑑三、トルストイ、ドストエフスキーなどの本を読んでいった。この時、回顧録によると、彼は「クレドとロマンティクとの差違」を認め、洗礼を受けている。受洗後、彼の心は深刻な動揺を示し、神の裁きを恐れる毎日が続いた。この心境は高等学校時代にも続いていった。

 大正11年4月、第一高等学校文科丙類に入学。当時、この高等学校には<名物教授>で知られた岩元禎が哲学を教えていたが、吉満はこの時間には特に熱心に聴講していたようだ。部活は弁論部に所属していた。また、無教会の内村鑑三のもとにも出入りしていたが、その記録は余りない。

 この時期、彼の心境は自ら「死刑猶予的実存意識」と表現するようなものだった。カトリック教会で公教要理の説明を聞いても彼には解決は与えられなかった。この高校時代の最も重要な出来事は、後に彼の一生の方向を決定する一人のカトリック司祭との最初の出会いがあったことだ。

 この司祭は岩下壮一神父であり、吉満はカトリック研究のためにスコラ学も視野に入れて読書に励んでいた。このころの読書領域は文学では有島武郎、倉田百三、北村透谷、国木田独歩、ダンテ、ゲーテ、カーライル、ブレークなど、また哲学ではケーベル、ジェームズ、リッケルト、西田幾多郎に及んでいる。そして、大正14年3月、一高を卒業した。

 大正14年4月、吉満は東京帝国大学文学部倫理学科に入学した。彼はここでドイツ哲学を研究、カント、ヘーゲルを熟知するに至ったが、ヘーゲルは好きになれず、マックス・シェラーの哲学に共鳴し、彼に関する卒論を書いた。

 しかし、彼は東大の哲学教授の影響は余り受けずに、長いヨーロッパ留学を終えてカトリック司祭として帰国していた岩下壮一神父の強い感化を受けることになった。この二人は一高、東大と同じ学歴を持っていたが、岩下神父はこの青年の精神的闘争に深い理解を示し、広い知識と温かい友情で指導していった。そして、岩下神父と共に読んだトマスの神学大全が吉満の精神世界を形成する中核となっていった。これは吉満にとり哲学的思惟の文法となったもので、臨終の彼の枕元には聖書、イミタチオ・クリスチと並んで神学大全が置かれてあった。

 このような準備の後、吉満はカトリックに改宗、東京の麻布教会でツルペン神父から洗礼を受けた。吉満は以前、プロテスタント教会で受洗していたので、これは<二度目>の洗礼だった。しかし、そこには沸き立つような喜びはなかったようである。

 彼は、このカトリック受洗前後においても、ある疑惑に苦しめられていた。それはニューマンの説教「信仰と疑惑」に描かれているようなものであった。彼は、この試練を「洗礼前後の悪魔の脅威」と名づけているが、この時期、伊東温泉で一夜、神学大全を読んでいた時、「地獄の永遠性の瞬間的意識」を感じたと言っている。この疑惑は、その後のヨーロッパ留学中も彼を離れず、彼の聴罪司祭が彼を慰め、安心させようとしたが、それでも彼は内心深く戦い続けたのだった。

 昭和3年3月、吉満は大学卒業と同時にジャック・マリタン著『スコラ哲学序論』を翻訳・出版した。彼は直ちにパリに留学、ジャック・マリタンに師事した。当時、マリタンの周囲にはフランスの第一線のカトリック知識人らがマリタン・サークルを形成していた。吉満は、これらの人と知り合うことにより、文学・芸術・神秘思想・典礼などの分野で大きな刺激を受けていった。このサークルの黙想会はドミニコ会士ガリグー・ラグランジュ神父の指導で行われていた。彼は後年、この黙想会を懐かしげに語るのだったが、このラグダランジュ神父こそ実は近代日本におけるカトリック思想の父であるかも知れないのだ。それは吉満の思想をカトリックに導いた岩下神父がスコラ学を真に理解したのは、このラグランジュ神父を通してだったからである。

 しかし、吉満には、この時に至っても心中に戦いがあり、「信仰の苦悶」が続いていた。この間、また彼に大きな影響を与える人が出たが、それはミュンヘンのプシュワラ神父だった。二人の間に文通が始まり、吉満は難解なプシュワラ神父の文章を容易に理解したことで、周囲の友人らを驚かせていた。この二人は知性の波長が合っていたのかも知れないが、実際に会ったことはなく、それを吉満は後々までも残念がっていた。彼は昭和5年秋に帰国した。

 昭和5年から昭和20年(同年・吉満帰天)までは、<15年戦争>の時代と言われる。それは日本が昭和20年の太平洋戦争敗戦に向けて、破滅の道に足を踏み入れ、その道を進んで行った暗い時代であった。

 昭和5年には明治以降の近代日本にあってプロテスタント宗教思想の巨人であった内村鑑三が亡くなっている。昭和5年という年は、一つの時代の区切りであろうか。とにかく、吉満の実質的な活動は、この15年戦争の期間であった。

 吉満は、この期間、実に驚くべき多産な著述家、第一級のカトリック思想家であった。彼が帰国して間もなく、東京・読売ホールでは聖アウグスチヌス没後1500年記念講演が行われた。彼は田中耕太郎、岩下壮一、ヘルマン・ホイヴェルス、戸塚文卿などの講師と共に記念写真に収まっている。右隣の田中耕太郎に比べると、いかにも小柄で、上体をやや右に傾けている。

 吉満は昭和6年春から上智大学と東京公教神学校で哲学を教え始めた。また、昭和10年4月になると、東京帝国大学文学部倫理学科の講師になった。彼を母校に招いたのは和辻哲郎だった。

 東大講師時代の吉満について、教え子の一人・中村真一郎は次のように記している。彼は当時フランスを中心に盛んになっていた新トマス派の哲学の書物をむさぼり読んでいた。

 「特に後者(新トマス派の哲学・筆者)については、ジャック・マリタンの<形而上学序説>は、何度挑戦しても、その体系は完璧で、そこには論理的ほころびを発見できず、私には真理であるとしか思われなかった。また、エチエンヌ・ジルソンの中世哲学史は、それまでの新カント派による西洋哲学史の常識を大きく組み替えてくれた。これらの私の中での変革は、当時、東大の倫理学科でフランス近世哲学をトマスの立場から批判した講義を行っていた吉満義彦講師の導きによるところが大きかった。先生は私を食事に誘い、手紙をよこして、理性の限界の彼方の霊性について、私を啓発してくれた。先生は当時の東大仏文学科の研究室の空気を居心地よく感じながら、一方でその霊性への無関心に強い不満を抱いていた」(『愛と美と文学--わが回想』岩波新書122-3頁)

 吉満は昭和8年2月に結婚したが、同年5月、妻に死別した。妻は吉満の許嫁であったが、吉満が帰国した昭和5年にはもう重病で、死が間近に迫っていた。彼女は美しく、強い信仰の持ち主で、フランスの友人からの弔文には「天使のようなあなたの奥様」と書かれていた。

 それ以降、吉満は妹と同居してきたが、一方、聖フィリッポ寮を拠点に寮生、カトリック学生連盟の指導をした。彼の思想の中心は聖トマスの哲学精神で、この紹介・普及のために思想界・文学界で講演・執筆に大活躍した。

 吉満の文化的遺産の一つに同人季刊雑誌『創造』の創刊がある。この雑誌の名づけ親は吉満で、彼を中心に雑誌の性格、方針、装丁、活字などが決められた。創刊時の同人は4人で、山之内一郎が最年長者たった。この時、6人が執筆している。創刊号は昭和9年10月26日、当時、日本橋室町にあった山之内の事務所内に設けられた発行所「創造社」から出た。これは客観的情勢の急変のため昭和11年に中絶してしまった。

 吉満が同人であり、また主筆でもあった、このカトリック文芸誌『創造』には、吉満の思想的成果が収められている。彼の思想巡礼は最初はマリタンの立場に立ってトマスを学び、それからパスカル、フランスの近代宗教思想に及び、昭和8年ごろからはドイツ哲学の近代形而工学に進み、認識論、本体論、倫理学、宗教哲学、歴史哲学、文化哲学そして芸術形而上学を展開するまでに至った。

 吉満の研究生活は猛烈を極め、そのため彼の健康は次第に損なわれていった。昭和19年夏、ジフテリアにかかり、一時は重態に陥った。やがて、この危機も去り、従来悪かっこ呼吸器病もよくなってきたのだが、昭和20年1月、彼の身の回りの世話をしてきた妹が亡くなった。そのため吉満は東京・小金井にある聖ヨハネ会桜町病院に入院することになった。彼は、快癒の後は司祭になろうと決心していた。しかし、その時は来なかった。

 昭和20年10月22日夜、マイエ神父から終油の秘跡を受け、翌23日朝、野口神父から最後の聖体をさずけられ、同日午前11時、同病院で帰天した。

 吉満の一生はわずか41年であった。しかも彼の実質的な活動期間は15年に過ぎなかった。彼には、これからの活躍を期待する人も多かった。哲学者森有正は「吉満がもう5年長く生きていたら、日本の思想界は一変していただろう」と述懐していたという。その意味で、彼の人生は中断されたのではないか。そう思う人も多かった。そして、そのような人は悲痛を味わったのである。

 吉満の哲学的真理探究の歩みは40歳で一応終えたとみられる。彼の教え子の一人・石原静雄は吉満の一生を「思えば先生は<久遠の哲学>を天使の如く切に謳われた人であった」という。けだし至言と言えよう。

 吉満は昭和20年3月の手記に「わが40歳の過ぎし日の歩みは言はば道を修める者の立場にあったと言へよう。これよりのわが生涯の歩みは、言はば道を伝へるものの立場になって行くであろう」と書いた。これは実に意味深長な言葉ではないだろうか。彼の生涯は真理探究の生涯であった。そして、それは短かったが、それなりに一つの完成された生であったのだ。デュモリン師は言う、「私の心眼には、この故友の姿が明光を浴び純粋無垢のかたちで、恩寵と光被とのうちに、完成されたものの姿として映じてくるのである」「この生涯も、完成を遂げたものと、私は信ずるからである」(「吉満教授の霊的姿について」カトリック思想・吉満義彦追悼号)。

 トミズムの真理を確信し、その弁証に生きた吉満を、ある人は実存的思想家であったと回想する。聖トマスは実存思想とつながるのだろうかという問いが、この命題をきっかけにして起きる。しかし、一般的印象とは異なり、キリスト教実存思想家にとって聖トマスは決して無縁の人間ではないのだ。普通、実存的思想家というと、人間の存在そのものが追い詰められて、叫び、絶叫の中で思索している人間といったイメージが強い。彼はすぐ
れて個性的な思想家でなければならない。しかし聖トマスの思想には、どこにも追い詰められた肉声は聞こえてこない。彼の叙述には彼個人の<感情>のしるしといったものは見られない、全くユニークなものだ。だから一般的には聖トマスを実存思想家からははずしたいし、そういった分類が普通だろう。

 ストリート・シンキングとバルコニー・シンキングという二種類の思考が指摘される。ストリート・シンキングとは、通りを歩きながら、そのつど新しい経験を重ね、超越のしるしを読み取りながら哲学する人を、この部類に入れる。実存主義的思考とは、このことだ。一方、バルコニー・シンキングとは、バルコニーから下を眺めるようなかたちでの思索者を指している。聖トマス、アリストテレス、ヘーゲルなど体系的思想家はこの部類で、彼らの哲学は実存主義とは呼ばないのである。

 しかし、聖トマスはある意味で実存的であったと言ってもよいだろう。彼は神を求めていた。それは英知による脱自の連続がその生であったという意味である。であれば、ここにすぐれた意味での実存的生き方があるのだ。彼には追い詰められた叫び、絶叫は無縁であったが、それは彼の日々の功徳が彼の理性を健全に保ったためであろう。彼の哲学は理性を健康にする哲学である。

 一方、吉満に目を転じると、彼の文章は聖トマスのそれとはおよそ似ていない。その情熱のほとばしりは実存的思想家の面目躍如たるものがあり、そこにはニーチェやベルジャーエフに見られるパトスの舞い上がりが容易に観察されるのだ。これは一体、何を意味するのか。そこには彼の出身地・鹿児島の精神風上が現れているのかも知れない。しかし、それともう一つ、そこには当時の滅びつつあった日本に向かっての精一杯の良心の叫びがあったのではないだろうか。従って、彼の文体は彼のためではなかった。彼は追い詰められつつあった日本の中で、日本のために、日本の救いの道を叫び続けたのである。その意味で、彼は一人の預言者であったとも言える。昭和という時代は、その前半、国の壊滅というゴールに向けて進み出した<15年戦争>の暗い時代に、一人の偉人な預言者を生んだのであった。

 吉満は明治以降、近代日本の生んだ第一級の文明批評家である。彼は師岩下壮一に導かれて、中世スコラ学の真髄に触れ、師以上に教会的思索を展開し、同時に明治以降日本に輸入されてきた近代ヨーロッパ哲学の病毒を警告してやまなかった人である。こんな人物が日本にいたということは、まさに驚き以外のなにものでもない。

 吉満義彦は今、府中のカトリック墓地に静かに眠っている。

[吉満義彦教授経歴]
「カトリック思想・吉満義彦追悼号」には、次のような経歴が記載されている。

1、明治37年10月13日鹿児島県大島郡亀津村に生る。
1、大正6年4月鹿児島県立第一中学校に入学、大正11年3月同校卒業。
  小学校時代は病弱であったが中学校は比較的健康であった、中学2年の時に父を失ひ以来思索的となってプロテスタントの教会に行く様になった。
1、大正11年4月第一高等学校文科丙類に入学、大正14年3月同校卒業。
  高等学校では特に岩元先生の哲学の時間に熱意をこめていた様であったが又一方弁論部員として活動していた、又この間内村鑑三先生のもとへ出入りしていたこともあった。
1、大正14年4月東京帝国大学文学部倫理学科に入学、昭和3年3月同大学卒業。
  大学時代に岩下壮一師のもとに出入りするに及びその感化を受ける事が多く遂にカトリックに改宗し昭和2年東京麻布教会でツルペン師から洗礼を受けた、卒業と共に「スコラ哲学序論」(ジャック・マリタン著)を翻訳出版し直ちにフランスに渡りジャック・マリタン教授の教えを受け昭和5年秋に帰国した。
1、昭和6年春から上智大学並びに東京公教神学校で哲学を講じ昭和10年4月から東京帝国大学文学部倫理学科講師となった。
1、昭和8年2月結婚、同年5月妻に死別したが爾来妹と同居して来た、この間聖フィリッポ寮を根拠として寮生並びにカトリック学生連盟の指導に当たっていたが一方思想界、文学界に於いて講演に執筆に聖トマス哲学精神を以て大いに活躍した。
1、昭和19年夏にヂフタリアに罹り一時重態であったがかねて悪かった呼吸器病があらたまり又昭和20年1月妹にも死別するに及んで東京小金井聖ヨハネ桜町病院に入院した。快癒後は司祭たらんと新しい出発を決心していた。
1、昭和20年10月23日午前11時遂に同病院で没した。終油の秘跡は22日夜マイエ師から受け最後の御聖体は23日朝野口師からさずけられた。

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コメント

昭和43年以降上智哲学の入試に学力的にも経済的にも無謀な
挑戦に失敗して、その後、カルメルのO師・ドミニコ会のO師に
に出会ったものです。又、ケッタッキーのトマス・マートン師の
著作を味わい続けています。ドミニコ会のO師には直接お聞き
していなかったのですが、彼の代父が吉満義彦では無いとしても
神秘主義への
洞察がO師へ影響あったことは間違い在りません。吉満義彦と
フォイベルス師の会話の自由闊達さは、O師からもよく伺いました。
弁護士の森田宗一師も開成の夜間出身で、日本の少年問題で基礎を
築いた無教会からカトリックになられた方です。では、いずれ又

投稿: 又左衛門 | 2007年1月 8日 (月) 07時26分

ドミニコ会のO師の代父が吉満義彦であったことは間違い
なかったので訂正します。

投稿: 又左衛門 | 2007年1月 8日 (月) 16時03分

又左衛門さん。コメントありがとうございます。

弁護士の森田宗一さんは、名前は聞いていますが、お会いしたことはないです。開成の夜間出身ですか。というと、淡路町で学ばれたのでしょうか。明治学院の故M院長が、開成の夜学にいたということで、夜学の存在は知っています。その流れは、いわき短大(今は大学かも知れません)につながっています。

三島由紀夫の祖父(母方)の橋健三が開成中学の校長をして、その後、夜間の昌平中学の校長になりましたが、これが、いわゆる開成の夜学で、のちに高校になり、いわき短大になったようです。


投稿: | 2007年1月 8日 (月) 20時10分

いわき短期大学は、その基盤の上に、平成7年4月、新たに東日本国際大学を開学し、現在では、大学としては、同大学といわき短期大学の二つになっているようです。

そして経営母体としては、学校法人昌平黌があるようです。その校章には「ペンと剣」があり、一部違いますが、ペンケン部分は開成と同じです。

そのホームページには、田辺新之助が本学の前身である現開成学園を創立、とありますが、これは間違いではないかと思います。田辺新之助は開成の校長ではあったけれど、創立したわけではないと思います。ちなみに、その長男が田辺元で、京都大学で哲学を教え、昭和25年に文化勲章を受章しています。

投稿: | 2007年1月 8日 (月) 20時54分

はじめてコメントさせていただきます。カトリック思想・吉満義彦追悼号はどこで閲覧できるでしょうか?いま大学のほうでリサーチしているのですが、できればdam.was@gmail.comのjほうまでご連絡いただければ助かります。よろしくお願い申し上げます。

投稿: みたむら | 2007年1月22日 (月) 14時43分

コメント、ありがとうございます。メールは出しておきましたが、質問が公開で行われたので、同じ内容をここに出しておきます。

吉満義彦に関する追悼号を見たのは、上智大学の中にある聖三木図書館においてでした。この図書館は、現在、休館中で、この春、聖イグナチオ教会の敷地内に新築されたビルの中に移転と聞いています。

では。

投稿: | 2007年1月22日 (月) 16時44分

今日(2月10日)の新聞に、森田宗一氏の訃報が載っていました。
元東京家裁判事、元「日本カトリック正義と平和協議会」会長という肩書きがありました。
2月7日午後11時27分、心不全で青梅市の病院で死去、91歳とありました。

投稿: | 2007年2月10日 (土) 10時31分

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