« ミレニアム | トップページ | 「永遠の哲学」を求めて »

2007年1月 5日 (金)

キリスト教哲学とは何か

 さて、吉満先生は哲学者でした。しかも、キリスト教信仰を待った哲学者でした。従って「キリスト教哲学」こそ、先生が生涯を通じて追究していったテーマと言えるでしょう。では、「キリスト教哲学」とは何でしょうか。キリスト教哲学をどう理解するかは重要問題です。

 かつて「キリスト教哲学はありうるか」といったテーマで、論争があり、中世哲学の大家エティエンヌ・ジルソンらもそれに参加しました。彼の名著『中世哲学の精神』は、まずこの問題から説き起こしています。

 われわれは、「キリスト教哲学」と言うと、まず身近なところでキェルケゴールを思うかも知れませんが、しかし、ヘーゲルもカントも、プロテスタントの流れの中で、それなりの「キリスト教哲学」なのです。それは、近世の特徴である主観性を中心としてはいますが、両者ともキリスト教信仰につながっていく理性の領域、論理のありかたを整理していったのです。

 われわれは、この二人、カントとヘーゲルを哲学者と言わないわけにはいかないでしょうが、それに比べると、キェルケゴールは非常に特異な姿をもって現れてきます。それは一言で言えば、「断片の哲学」とも言うべきものです。しかし、この「断片の哲学」には、やはり、不満が残るのです。哲学は「学」であるので、やはり体系性を求めている、というのが私の考えです。

 キェルケゴールは巨大なヘーゲルの体系に対抗するために真理を「断片」に託して語る以外になかったのですが、われわれは、このような姿の中に、近世においてキリスト教信仰が哲学体系、キェルケゴールにおいては疑似真理体系の前に圧迫され、行き場を失っている様相をうかがうことができるのです。

 しかし、それに比べると、中世哲学はキェルケゴールの真理性を守りつつ、それをヘーゲルのように壮大な体系の中で表すことができたのです。そこでは、信仰が守られ、しかも理性がその活動原理を尋ねつつ、極限的にと言っていいくらいに盛んに働いているのです。「信仰と理性」とのかかわりが、ここでは明確にされ、信仰の真理は理性を駆使し、体系の中で自らの主張を展開しています。

 それは、キリスト教信仰の歴史の中での画期的時代であり、頂点であり、時代が偉大な信仰の時代を志向する時に常に模範となる時代です。

|

« ミレニアム | トップページ | 「永遠の哲学」を求めて »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/104898/13343387

この記事へのトラックバック一覧です: キリスト教哲学とは何か:

« ミレニアム | トップページ | 「永遠の哲学」を求めて »