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2007年1月 9日 (火)

中世の光

関西学院大学で教えておられた故松村克巳氏は、『カトリック思想 吉満義彦追悼号』の70頁、「吉満先生の哲学思想」の中で、「中世哲学」について、次のように言っている。
    
「カトリシスムは一面に、基督教真理の永遠のイデーたることを目指していると共に,他面に,歴史の中に之を実現して行く思想的現実的体系である。カトリシスムの本質が中世の世界にのみ求めらるべきではないにしても、プロテスタンティスムが近代の精神と切離して把握されないように、依然として中世の世界の中に光を探求する事は認識の秩序に於いては正しいと云わねばならぬ。筆者はかつて学生時代に、中世哲学の研究を生涯の課題として選ぼうとしてゐた。それを断念して進路を変へたのは恩師の適切な示唆に依ったのであって中世哲学は具体的には教会の哲学、カトリック哲学、スコラ哲学に外ならないが、それはカトリック教会といふ生きた協同体を地盤として成立したものであり、その完き理解はその中へ身を置きそこに生きそこで思索する事なしには期しがたいであろうとなし、近代的精神とそこに一般的な哲学的課題及び概念を以て直ちに中世哲学の理解に向ふ事の無謀さを教へられたからであった。吉満氏の思想的努力の跡を回顧して今この警告の正しさを深く理解すると共に、氏の活動の意義が此の点に関して高く評価さるべきを思ふ。基督教福音の理解と実践に於ける二つの型が今直ちに調和一致に齎らされ得ないにしても、両者相互の理解と協同への努力は、瞬時も忘れられてはならずまた等閑に附せられてはならぬと考へられる。真理また生命として、事実としての福音は一つであり等しく呼びまつる吾等の主イエス・キリストの御名は一つでしかないからである。」

松村氏の恩師というのは波多野精一である。波多野はケーベルの弟子であった。その意味では、二人は、岩下壮一、波多野精一という二人を経由した、ケーベルの孫弟子と言えるかも知れない。

高校生のころ、近くの図書館で、松村氏のアウグスチヌスに関する本を読んで、興味をそそられたことがあった。生前、一度だけ、御殿場・東山荘での集会の帰り道、バス停で話をしたことがあった。

吉満義彦は、ある本で、私はカトリックということで、キリスト教全体を考えている、と言っていた。彼には、近代思想に対する批判が中世の光に照らして繰り返されるのだけれども、余り、一般には知られていない。西方教会の各宗派が、カトリックを含めて対話し、合意し、それぞれのよいところを取り入れていけば、もう少し救済史の先を見ることができるかも知れない。

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