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2007年2月28日 (水)

MARIA

コンビニと 本屋さんにも いたMARIA
 ふと懐かしく じっと聴き入る

(ちょっと以前、よくこの曲が流れていた)

さて

そのあとhitomiさんののCD「MARIA」を買ったのだが、いい作品と思った。

MARIAとは、この場合、聖母マリアを指しているのでないだろうか。hitomiさんの作った歌詞を読むと、聖母に対する祈りを感じるのだ。曲の最後に、鐘が鳴り続けている。教会の鐘のようだ。それで、ああ、これは宗教的なモチーフを持っているのだと思った。
   
宗教というものを、冷めた目で見ると、教団・教会の悪が見えてくる。
   
日本には、まあ、いろんな宗教があるし、宗教の中には、おかしなものがあるということは、今の日本では容易に認識できることだ。そんな宗教教団も多い現代日本では、宗教に入るというのは、少し危ない目で見られている。だから、宗教教団の批判にも、ある部分、説得力があるのだ。
   
神にしたって、理性至上主義的な視点からすれば、矛盾の存在に見えてくる。二重予定をうまく説明できる人はいないと思う。だから、神はいない、という人がいてもいいかも知れない。しかし、そんな人も最高価値としての神を前提にしているのである。批判・否定の前提には、何かそれ以上の価値肯定的なものがあるのは当然ではないだろうか。それを神と言うのであれば、無神論者というのは矛盾である。安易に「自分は無神論者」と言うなかれ、と言いたい。 神はいない、という視点で、人類の歴史を、どう説明するか。これは難題である。
 
しかし、思弁的ではなくて、素直に愛を問い、自分の生き方を問うとき、その限りにおいて、人は、どうしても宗教的にならざるを得ない。あの思弁的でありすぎたとも思えるヘーゲルでさえ、キリスト教信仰の哲学的表現を目指した。
   
hitomiさんの好きなアーティストにマドンナがいると、かつてプロフィールで書いていた。そのマドンナは、あの女優であろうが、聖母も意味する。
   
hitomiさんは、自身、宗教とは無関係かも知れないが、hitomiさんが関心を持っている、これもプロフィールで書いていた「自分探し」というものは、宗教の前提である。「自分探し」をしない人が宗教に入ったら、きっと宗教を誤解するだろう。そこにあるのはアクセサリーとしての宗教だけなのだから。しかし、宗教とは生き方を問うものとした時、その意味では、誰も宗教から逃れることはできないように思う。

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